第49話 小さな手
日中の日差しはまだ強さを残しているというのに、夜の空気には、どこか秋の気配が混じり始めている。
庭の木々は暗がりの中で葉を揺らし、遠くからは、夜の海が岸辺に寄せる音が聞こえていた。
アステリア島の夏が終わろうとしていた。
夏の名残と忍び寄る秋の気配が交錯する、その美しい夜、ダイアナはいつもとは違う腹部の痛みで目を覚ました。
最初は、ほんのわずかな違和感だった。
横になっていれば治まるだろうと思った。
けれど、しばらくするとまた痛みがやってくる。
今度は先ほどよりも少し長く、腰のあたりまで重く響いた。
隣で眠っていたカイルが、彼女の気配に気づいて身を起こした。
「どうした?」
「……お腹が痛むの」
ダイアナは枕に頬を預けたまま答えた。
カイルの表情が変わった。
「いつからだ」
「さっきから。
けれど、まだ大丈夫よ」
そう言い終えたところで、また痛みが訪れた。
ダイアナは小さく息を呑み、シーツを握った。
カイルはすぐに彼女の手を取った。
何か言おうとしたようだったが、結局、彼女の顔を見つめるばかりだった。
やがて痛みが遠のくと、ダイアナはゆっくりと息を吐いた。
「マリーを呼んでくれる?」
「ああ」
カイルは寝台を離れ、すぐに人を呼びに行った。
ほどなくしてマリーがやって来た。寝衣の上に上着を羽織り、眠気などすっかり消えた顔でダイアナのそばに腰を下ろす。
マリーは痛みの間隔を確かめ、産婆を呼ぶように指示した。
産婆が到着すると、部屋の空気は静かな緊張に包まれた。
必要な湯や布が用意され、使用人たちが忙しく立ち働く。
マリーはダイアナの手を握り、産婆は落ち着いた様子で彼女の状態を確かめていた。
カイルは寝台のそばから離れなかった。
「カイル、そんな顔しないで」
ダイアナは痛みの合間に、かすかに笑った。
「どんな顔だ」
「まるで、あなたまでお産をしているみたい」
「笑いごとじゃない」
そう答える声はいつも通りだったが、握られた彼の手には、わずかに力がこもっていた。
窓の外では、海から吹く風が夜を深くしていた。
―
明け方になるころには、陣痛は次第に強くなっていった。
痛みが訪れるたびに、ダイアナは目を閉じ、呼吸を調えようとした。
マリーは背中をさすり、産婆はその都度、進み具合を確かめていた。
カイルは、彼女が手を伸ばせばすぐに触れられる場所にいた。
痛みが遠のいたときには水を飲ませ、汗を拭い、少しでも楽な姿勢を取れるように支えた。
普段なら迷わず決断を下す男が、今は何をするにも産婆の指示を待っている。
自分にできることが、あまりにも少なかった。
それが、カイルには耐えがたかった。
「何かできることはないか」
何度目かに尋ねると、産婆は呆れたように言った。
「旦那様が落ち着いてそばにいるのがいちばんですよ」
そんなことは分かっていた。
分かっていても、何かをせずにはいられなかった。
やがて朝の光が窓辺に差し込み、海が青く輝き始めた。
ダイアナは疲れた顔で目を開けた。
「朝になったのね」
「ああ」
「きれいな空?」
「きれいだ」
カイルは答えた。
彼女が望むなら、どんな景色でも見せてやりたい。
だが今のダイアナに窓辺まで行くことはできなかった。
「赤ん坊にも見せてあげたかったわ」
「生まれたら、いくらでも見せてやれる」
彼は彼女の額に唇を寄せた。
「海も、空も、この島も。お前が好きなものを、全部見せてやろう」
ダイアナは微笑んだ。
「あなたも一緒にね」
「もちろんだ」
短い言葉のあと、二人はしばらく見つめ合った。
その静かな時間は、次の陣痛によって途切れた。
―
昼近く、破水があった。
産婆がすぐに対応し、部屋の中は再び慌ただしくなった。
マリーはダイアナのそばを離れず、必要なものを調えながら、落ち着いた声で励まし続けた。
けれど、それからもお産は思うようには進まなかった。
日が高く昇り、やがて西へ傾いていく。
窓から差し込む光の色が変わっても、赤ん坊はまだ生まれてこなかった。
陣痛の合間、ダイアナは眠るように目を閉じることがあった。
けれど、休める時間はわずかだった。
痛みがくるたびに身体をこわばらせ、懸命にそれを乗り越えようとしていた。
カイルは次第に口数が少なくなっていった。
彼女が苦しむ姿を見るたび、胸の奥を何かが締め付けた。
代われるものなら代わりたい。
何度そう思ったか分からない。
だが、彼には代わることができなかった。
産婆に言った。
「まだなのか」
産婆はダイアナの様子を確かめてから、慎重に答えた。
「初めてのお産ですから、時間がかかることもあります。
今は、奥様の力を信じて待ちましょう」
「ダイアナは、もう長いこと苦しんでいる」
「ええ。良く頑張っておられます」
それ以上、カイルは何も言えなかった。
彼はダイアナの手を取り、その指先に口づけた。
「聞こえるか。俺はここにいる」
ダイアナは薄く目を開けた。
「……知っているわ」
「どこにも行かない」
「ええ」
「だから、俺の手を握っていろ」
彼女はかすかに笑い、彼の手を握った。
その手は、朝からずっと彼の手を探していた。
カイルはそのことに気づいていた。痛みが強くなると、ダイアナは彼の手を頼りにした。
彼女がどれほど苦しくても、彼は何もできず、ただ握り返すことしかできない。
それでも、その手を離すつもりはなかった。
―
夕暮れは、いつしか夜に変わっていた。
庭の向こうに月が昇り、窓辺には銀色の光が差し込んでいた。
遠くの港では、夜の仕事を終えた船員たちが帰り支度をしているころだろう。
島はいつもと変わらず、静かな夜を迎えていた。
けれど、この部屋の中では、誰もが一つの命の誕生を待っていた。
マリーはダイアナの額を拭い、産婆の指示に従って彼女を励ました。
ダイアナは疲れ切っていたが、それでも最後の力を振り絞っていた。
カイルは寝台のそばに立ち、彼女を見つめていた。
もう何度も、祈るような気持になっていた。
どうか無事でいてくれ。
ダイアナも、子どもも。
ほかには何もいらない。
島の頭領として、彼女がどれほどの責任を背負っているか、カイルは知っている。
誰にも弱さを見せず、海と島を守り続けてきた彼女を、彼はずっとそばで見てきた。
だが今、彼の目の前にいるのは、頭領ではなかった。
愛する妻だった。
「ダイアナ」
彼は彼女の手を包み込んだ。
「もう少しだ。俺がついている」
ダイアナは彼を見た。
汗に濡れた淡い栗色の髪が頬に張りつき、青緑色の瞳には疲労が滲んでいた。
それでも彼女は、彼を見つけると、ほんのわずかに表情を和らげた。
「カイル……」
「ああ」
「この子を……一緒に育てましょうね」
カイルの喉が詰まった。
「当たり前だ」
彼は彼女の手を額に押し当てた。
「お前と俺の子だ。二人で育てる」
それからの時間は長かった。
産婆の声が部屋に響き、マリーがダイアナを励ます。カイルは彼女の手を握り、何度も名前を呼んだ。
そして、夜が更け、日付が変わる少し前。
小さな泣き声が、部屋に響いた。
一瞬、カイルには何が起きたのか分からなかった。
産婆が赤ん坊を取り上げ、安堵の息をつく。
「お生まれになりましたよ。女の子です」
マリーが顔をほころばせた。
「女の子…」
カイルは動けなかった。
女の子。
自分とダイアナの子ども。
その小さな命が、今、この世に生まれてきたのだ。
やがて、産婆が赤ん坊を整え、ダイアナのそばへ連れてきた。
ダイアナは疲れ切った顔をわずかに上げた。
布に包まれた赤ん坊は、驚くほど小さかった。
顔を真っ赤にして泣き、握りしめた小さな手を動かしている。
「……この子が」
ダイアナの声が震えた。
長い夜だった。
苦しく、心細く、何度も心が折れそうになった。
それでも、今、目の前にいるこの子を見ていると、そのすべてが遠い出来事のように思えた。
彼女はそっと頬に触れた。
「来てくれたのね」
涙が一筋、こめかみへと流れた。
カイルは寝台のそばに膝をついた。
赤ん坊を見つめていた彼の顔から、張り詰めていたものが少しずつ消えていった。
代わりに浮かんだのは、戸惑いにも似た、深い喜びだった。
彼は恐る恐る手を伸ばし、小さな指に触れた。
赤ん坊の手が、彼の指を握った。
ほんのわずかな力だった。
けれどカイルは息を呑んだ。
「……ダイアナ」
声が掠れた。
「この子は、俺の指を握った」
ダイアナは疲れた顔で笑った。
「あなたの指が大きすぎるのよ」
「そうかもしれない」
カイルも笑った。
けれど、次の瞬間にはもう笑えなかった。
小さな手。
温かな身体。
確かな呼吸。
自分たちの愛が、この世界に一つの命を生んだ。
その事実が、ようやく彼の胸に深く染み込んできた。
カイルはダイアナの額に口づけた。
「よく頑張った」
それだけ言うのが精一杯だった。
ダイアナは目を閉じ、彼の手に頬を寄せた。
「あなたが、ずっといてくれたから」
「これからもいる」
彼は迷いなく答えた。
「お前のそばにいる。ずっとだ」
窓の外では、月が静かに海を照らしていた。
夏の名残は、もう海の向こうへ去ろうとしている。庭を渡る風には、確かな秋の冷たさが混じっていた。
けれど、寝台のそばには、新しい命の温もりがあった。
ダイアナとカイルは、二人でその小さな娘を見つめていた。
まだ名前のない女の子。
この島の海を見て育ち、風の音を聞き、いつか自分の足で庭を駆けるようになる子。
カイルは小さな指を、もう一度そっと握った。
「ようこそ」
彼は娘に語りかけた。
「アステリアへ」
その声は、いつものように静かで確かなものだった。
長い夜が終わろうとしていた。
そして二人の人生には、これまでとは違う朝が訪れようとしていた。




