第48話 変わらないもの
夏の終わりを告げる風が、開け放たれた窓から吹き込んでいた。
海から運ばれてくる風には、盛夏の熱がわずかに残っている。
それでも、庭の草花は少しずつ色を変え、夕暮れも以前より早く訪れるようになっていた。
出産まで、あとひと月ほど。
ダイアナのお腹は、もう隠しようもないほど大きくなっていた。
歩くときには以前より慎重になり、椅子から立ち上がる時には、無意識に片手を腰に添える。
身体をかがめるのも難しくなった。お気に入りの服も、以前のようには着れない。
お腹の中では、子どもが元気に動いている。
そのたびに、ダイアナは自分の中の新しい命が育っていることを思い、温かな喜びに包まれた。
けれど、ときおり鏡に映る自分の姿に、戸惑いを覚えることもあった。
以前とは違う身体付き。
丸みを帯びた頬。
大きくなったお腹。
これが母になるということなのだろう。
そう理解していても、今までの自分とは違う姿に、心が追い付かないときがあった。
カイルは何も言わない。
むしろ以前にも増して気遣ってくれる。
歩くときはさりげなく手を差し出し、疲れていないかと尋ねる。
夜、寝付けずにいると気づけば、何も聞かずに身体を支えてくれる。
彼の優しさに不満があるわけではない。
ただ、ふと思ってしまうのだ。
カイルは、今の私をどう思っているのだろう。
初めて会った頃とは違う。結婚したばかりの頃とも違う。
これから子供を産み、母になり、更に年を重ねていけば、私の姿はもっと変わっていくに違いない。
彼は、それをどう思うのだろう。
そんなことを考えている自分が、少しばかり恥ずかしかった。
―
子供部屋の準備は、ほとんど整っていた。
窓辺には小さな寝台が置かれ、柔らかな布が丁寧に敷かれている。
マリーが用意してくれた産着や肌着も、棚の中にきちんと収められていた。
ダイアナは棚を開け、畳まれた小さな衣服を一つ手に取った。
こんなに小さなものを着る子どもが、本当に自分たちのものに生まれてくるのだ。
そう思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
「足りないものはないと思うけれど…」
振り返ると、カイルが扉の前に立っていた。
「寝台も整っている。衣服も十分だ。あとは生まれてくるのを待つだけだな」
「そうね」
ダイアナは微笑んだ。
カイルは彼女の手から小さな産着を受け取り、畳目を確かめるように眺めた。
それから、棚に戻そうとする。
その大きな手と、産着の小ささが、なんだか可笑しかった。
「あなたの手では、こんなに小さな子を抱くのも大変そうね」
「そうか?」
「ええ。あなたは身体が大きいもの」
「子どもが小さいのは今だけだろう」
彼は当然のことのように言った。
「すぐに大きくなる。おまえも、俺も、驚くほど速く感じるようになるはずだ」
その言葉に、ダイアナは笑った。
けれど、笑みが消えた後も、彼の横顔を見つめていた。
カイルは、これから生まれてくる子供のことを考えている。
父親になることを、きっと楽しみにしているのだろう。
そのことが嬉しかった。
同時に、自分も変わっていくのだと思った。
妻であるだけではなく、母になる。
これから先、身体も、暮らしも、今までとは違っていく。
ダイアナは、手のひらで自分のお腹をそっと撫でた。
「ねえ、カイル」
「何だ」
「私……ずいぶん変わったでしょう?」
「何がだ」
「身体よ。お腹も大きくなったし、以前の私とはずいぶん違うわ」
口にしてみると、思っていた以上に心許ない響きになった。
ダイアナは小さく笑い、言葉を続けた。
「あなたは、気にならないの?」
カイルは、すぐには答えなかった。
彼女の顔を見つめている。
ダイアナは、少し後悔した。
こんなことを尋ねるつもりではなかったのだ。ただ、胸の奥にしまっていた不安が、ふとした拍子にこぼれてしまった。
「ごめんなさい。変なことを聞いたわね」
「いや」
カイルは彼女のそばへ歩み寄った。
そして、その頬にそっと触れた。
「何を心配している?」
静かな声だった。
責める響きはなかった。
だからこそダイアナは取り繕うことができなかった。
「あなたが好きになった頃の私は、今とは違うでしょう。
これから子どもを産んで、年を重ねれば、もっと変わっていくわ」
彼女は彼の手に頬を預けた。
「それでも、あなたは私のことを好きでいてくれるのかしら、と……少し思ったの」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。
島の頭領として、どんな交渉にも臆することなく向き合ってきた自分が、こんな小さなことで不安になるなんて。
けれど、カイルは笑わなかった。
ただ、彼女の頬に触れていた手を滑らせ、こめかみの髪を優しく払った。
「ダイアナ」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「俺は、君が変わらないことを望んでいるわけじゃない」
その言葉に、ダイアナは彼を見つめた。
「おまえはこれからも変わっていく。身体も、暮らしも、俺たちの関係も。
子どもが生まれれば、今までとは違う毎日になる。
年を重ねれば、今とは違う顔にもなるだろう」
カイルは、そこで少しだけ目を細めた。
「だが、それが何だ」
彼らしい、迷いのない言葉だった。
「俺が好きになったのは、若い頃の姿だけじゃない。
島を背負っているおまえも、笑っているおまえも、考え込んでいるおまえも、
俺に弱いところを見せるおまえも、全部だ」
ダイアナの胸が、ゆっくりと満たされていく。
「今のお腹の大きなおまえも、これから母親になるおまえも、年を重ねたおまえも、
俺には大切なダイアナだ」
カイルは彼女の額に口づけた。
「俺だって変わる。今より老いるし、身体も今のままじゃない。
それでも、愛していることは変わらない」
それは、飾られた言葉ではなかった。
これから先の人生を、すでに自分のものとして語るような言い方だった。
ダイアナは、彼の胸に額を寄せた。
大きな身体。
いつも自分を包み込んでくれる腕。
この人と一緒に年を重ねていくのだ。
そう思うと、胸の奥にあった不安が、ゆっくりと解けていった。
「……あなたは、本当にずるいわ」
「何がだ?」
「そんな風に言われたら、もう何も心配できないじゃない」
カイルは小さく笑った。
「心配するなとは言わない。だが、一人で抱え込むな。俺にも話せ」
ダイアナは顔を上げた。
彼の琥珀色の瞳が、すぐ近くにあった。
そこには、出会ったころから変わらない穏やかさと、今の彼女だからこそ知っている深い愛情があった。
「ええ」
彼女は微笑んだ。
「そうするわ」
カイルは彼女を抱き寄せた。
お腹に負担をかけないように、いつもより少しだけ慎重に。
ダイアナも彼の背に腕を回した。
子ども部屋の窓から、風が吹き込んでいた。
棚には小さな衣服が並び、寝台には柔らかな布が敷かれている。
もうすぐ、この部屋に新しい命がやってくる。
二人の暮らしは、きっと大きく変わるだろう。
眠れない夜も、心配事も、今まで知らなかった喜びも増えていくに違いない。
それでも、カイルの腕の中にいる今、この瞬間は、何も変わらず穏やかだった。
ダイアナは目を閉じた。
彼と出会い、愛し、夫婦になった。
そして、これからは親になる。
何年も先、白髪が混じるようになっても、二人でこの島の海を眺める日が来るだろう。
そのときも、きっと彼は隣にいる。
若い頃と同じ姿ではないかもしれない。
けれど、隣にいるのは、今と同じカイルだ。
彼が自分を見つめる眼差しも、きっと。
「カイル」」
「何だ」
「あなたと結婚して良かったわ」
彼は少しだけ身体を離し、彼女の顔を見た。
「俺もだ」
それだけ言って、もう一度、彼女を抱き寄せた。
窓の外では、夏の終わりの海が静かに光っていた。
波は寄せては返し、絶えず姿を変えている。
けれど、その海を愛する気持ちは変わらない。
変わっていくことを恐れなくてもいいのだと、ダイアナは思った。
自分がどんな風に変わっても、この人となら、その変化を共に歩いて行ける。
カイルの胸に頬を寄せながら、彼女はそっと微笑んだ。
変わっていくものがある。
それでも、変わらぬものがある。
そして今、彼女はその両方を、同じ腕の中に抱いていた。




