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第47話 小さな波

初夏の風が、開け放たれた窓から静かに吹き込んでいた。


冬の名残をすっかり失ったアステリア島には、柔らかな緑が広がり、海は陽光を受けてきらきらと輝いている。窓辺に置かれた鉢植えの葉が風に揺れ、遠くからは港で働く人々の声がかすかに聞こえてきた。


ダイアナは窓辺の椅子に腰掛け、膝の上に置いた本を読んでいた。

けれど、さきほどから文字がなかなか頭に入ってこない。

お腹のあたりに、何かが触れたような気がしたのだ。


最初は気のせいだと思った。

身体の内側で、かすかなものが動いたような感覚。

不快でもない。

ほんの一瞬、何かがそっと触れて、すぐに消えてしまうような。

ダイアナは本を閉じた。

片手をお腹に当て、しばらくじっとしてみる。

何も起こらない。


「……気のせいかしら」


独り言をこぼし、もう一度本を開こうとした時だった。

ぽこん、と。

今度は、先ほどよりもはっきりとした感覚があった。

ダイアナは息を止めた。

お腹の内側で、小さな何かが動いた。


それはほんの一瞬の出来事だったのに、彼女の胸の奥に、言葉では言い表せないほどの感情が広がっていった。


「……あなたなの?」


思わず、そう囁いていた。

返事などあるはずもない。

けれど、そこには確かに何かがいる。

これまでにも、医師の診察を受けるたび、ダイアナは自分が妊娠していることを確認してきた。

身体は少しずつ変化し、お腹も以前より膨らみ始めている。

食べ物の好みが変わり、疲れやすくなる日もあった。


頭では、よくわかっていた。

自分の中に、新しい命が宿っている。

けれど、それはどこか遠いところにある事実のようでもあった。


自分の身体に起きている変化を受け止めながらも、まだ見ぬ子どもは、これから先に出会う存在だったのだ。それが今、ほんの小さな動きによって、突然、すぐそばにいるものになった。

ダイアナはお腹に手を当てたまま、しばらく動けなかった。


胸がいっぱいになった。

この子は、ここにいる。

自分の中で生きている。

そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。


亡き父から受け継いだ島を守り、母を失った悲しみを抱えながら、ダイアナは長い間、自分一人で歩いてきた。レオンと過ごした日々も、彼を失った後の年月も、今では彼女の人生の大切な一部になっている。


そして今、カイルとともに歩み始めた人生の中に、新しい命が加わろうとしている。

そのことが、たまらなく愛おしかった。

ダイアナはお腹を撫でた。


「会えるのが楽しみよ」


小さな声でそう言うと、再びかすかな動きを待つように、静かに目を閉じた。

けれど、その日はもう何も感じなかった。

それでも、彼女の心には、先ほどの小さな動きがいつまでも残っていた。

まるで、遠い海の向こうから届いた波が、初めて自分の足元に触れたように。


―

その日の夕刻、カイルが帰ってきた。


外套を脱ぎながら部屋に入ってきた彼は、窓辺に座っているダイアナを見つけると、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。


「今日はずいぶん静かだな。

 何を考えている?」

「あなたに話したいことがあるの」


その言葉に、カイルは外套を掛ける手を止めた。


「何だ?」


ダイアナは少し迷った。

話してしまえば、先ほど感じたものが、もう自分一人だけの秘密ではなくなる。

そんな気持ちが、ほんのわずかにあった。

けれど、カイルには話したかった、

自分が感じた喜びを、彼にも知って欲しかった。


「今日ね、お腹の中で赤ん坊が動いたの」


カイルは黙った。

琥珀色の瞳が、ゆっくりとダイアナのお腹に向けられる。


「動いた?」

「ええ。ほんの一瞬だったけれど。最初は気のせいだと思ったの。

 でも、もう一度、はっきりと感じたのよ」


ダイアナは微笑んだ。


「本当に、ここにいるのね」


その声には、驚きと喜びが混じっていた。

カイルは椅子を引き寄せ、彼女の前に腰を下ろした。

それから、そっとダイアナのお腹に手を伸ばした。

まだ、彼女の身体の変化はそれほど大きくない。

衣服の上からでは、以前との違いもわずかだった。

けれど、そこには二人の子どもがいる。

そう思うと、カイルは不思議な気持ちになった。

ダイアナが妊娠していると知った時、彼は心の底から喜んだ。

彼女のお腹が少しずつ膨らんでいくことも、以前より身体を気遣うようになったことももちろん分かっている。


父親になるのだということも、頭では理解していた。

それなのに、その言葉はまだ、自分の人生に起きた大きな出来事を指し示すものに過ぎなかった。


ダイアナの中にいる赤ん坊。

自分と彼女の子ども。

その存在を、今までよりずっと近くに感じた。


「そうか」


ようやく口を開いたカイルの声は、いつもと変わらなかった。

けれど、彼の手はダイアナのお腹に触れたまま、しばらく動かなかった。


「あなたも感じてみたい?」


ダイアナが尋ねると、カイルは彼女を見た。


「もちろんだ。今すぐにでも感じたい」


あまりに率直な返事に、ダイアナは小さく笑った。


「でも、いつ動くかわからないのよ」

「それでも待つ」


カイルはそう言って、彼女のお腹をそっと撫でた。

大きな手だった。

船の舵を握り、荒れる海で帆を操り、重い道具を扱う手。

その手が今は、壊れやすいものに触れるように、慎重にダイアナのお腹に添えられている。


「……早く会いたいな」


ぽつりとこぼれた言葉に、ダイアナは彼を見つめた。

カイル自身も、口にして初めて気づいたようだった。


まだ顔も知らない。

声を聞いたことがない。

どんな目をして、どんな髪の色をしているのかもわからない。

それなのに、もう会いたいと思っている。


「私もよ」


ダイアナは彼の手に、自分の手を重ねた。


「きっと、あっという間ね」

「そうだといいが。……いや、まだしばらくは二人で過ごす時間も楽しみたい」


その言葉に、ダイアナの胸が温かくなった。

カイルは赤ん坊を待ち望んでいる。

けれど、これから母親になる自分のことも、変わらず大切に思ってくれている。

そのことが、何より嬉しかった。


「あなたは、どんな父親になるのかしら」


ダイアナが冗談めかして尋ねると、カイルは眉を上げた。


「それは、生まれてから考える」

「まあ。準備をしなくてもいいの?」

「必要な準備はするさ。だが、父親になるのは初めてだからな。

 実際に会ってみなければわからないこともある」


それから。彼は少しだけ笑った。


「少なくとも、ダイアナ、お前を一人で頑張らせるつもりはない」


ダイアナは何も言わず、彼の肩に頬を寄せた。

その言葉だけで、十分だった。


―

ひと月が過ぎる頃には、ダイアナのお腹は以前よりもはっきりと膨らんでいた。

衣服の上からでも、身体の線が変わったことがわかる。

鏡の前に立つたび、ダイアナは自分の姿を少し不思議な気持ちで眺めた。

ついこの間まで、そこには何もなかったように思えるのに。

今は、自分の身体の内側で、一人の人間が育っている。

その事実は、日を追うごとに彼女の中で大きくなっていった。


胎動も、以前より頻繁に感じるようになった。

何かに集中している時や、椅子に座って静かに過ごしている時。

お腹の内側で、小さな動きがふいに訪れる。


そのたびに、ダイアナは手を止めた。

そして、つい微笑んでしまう。

誰にも見られていないときには、お腹に向かって話しかけることもあった。


今日の海は穏やかだったこと。

港で見かけた船のこと。

カイルが朝食の席で、焼き立てのパンをいつもより多くたべていたこと。


まだ何もわからない相手に、日々の出来事を語りかける。

返事はない。

けれど、時折お腹の中で動きを感じると、聞いてくれているような気がした。


その日も、夕食を終えた二人は居間で過ごしていた。

窓の外では、日が沈みかけていた。

空の青さが薄れ、水平線の近くが淡い金色に染まっている。

カイルは椅子に腰掛け、明日の船の出入りについて記録された書類を読んでいた。

その隣で、ダイアナは長椅子に身体を預けていた。


お腹に手を当てていると、内側で小さな動きがあった。


「あら」


思わず声が出た。

カイルが顔を上げる。


「どうした?」

「今、動いたの」


そう言って、ダイアナはお腹を見下ろした。

しばらく待つと、もう一度、小さな動きを感じた。

以前より、少し力強い。

ダイアナは微笑みながら、隣のカイルを見た。


「こちらに来て」


彼は書類を置き、すぐに立ち上がった。


「また動いたのか?」

「ええ。今も動いているわ」


カイルは長椅子の脇に腰を下ろした。

ダイアナが彼の手を取る。

そのまま、自分のお腹の上にそっと導いた。


「ここに置いていて」


カイルは言われたとおりにした。

大きな掌が、丸みを帯びたお腹を覆う。

彼はじっと待った。

部屋の中が静かになった。

窓の外から、波の音がかすかに聞こえる。


一度。

二度。


ダイアナが感じている動きは、彼の手にはまだ伝わらない。

カイルは顔を上げかけた。

そのときだった。

掌の下で、何かが小さく押し返した。

本当に、ほんのわずかだった。

けれど、確かに感じた。

カイルの身体がぴたりと止まった。

彼はダイアナを見た。


「……今のか?」


ダイアナは、笑みを浮かべたまま頷いた。


「ええ」


カイルはもう一度、お腹に目を落とした。

そのまま、動かなかった。

先ほどまで書類に向かっていた男と同じ人間とは思えないほど、彼は静かだった。


「もう一度、動くかもしれないわ」


ダイアナが囁く。

カイルは小さく頷いた。


「待とう」


それだけ言うと、彼は再び掌に意識を集中させた。

しばらくして、また小さな動きが伝わった。

今度は先ほどよりも、はっきりと。

カイルは息を呑んだ。


自分の手の下にいる。

確かに、ここにいる。

ダイアナの中で育ち、まだ誰にも顔を見せていない小さな命が、今、自分の手に応えてくれたように感じられた。


「……すごいな」


ようやく出てきた言葉は、それだけだった。

ダイアナは彼の顔を見つめた。

いつもは、どんな時でも落ち着いている人だった。

荒れた海の話をするときも、難しい交渉に臨むときも、彼は自分の考えをはっきりと口にする。

けれど今は、何を言えばいいのかわからないようだった。


琥珀色の瞳が、何度もお腹へと向けられる。

その表情を見ているうちに、ダイアナの胸にも、温かなものが込み上げてきた。


「カイル」


彼が顔を上げる。


「私たちの子どもね」


その言葉を聞いて、カイルはゆっくりと頷いた。


「ああ。俺たちの子だ」


彼はそう言って、ダイアナのお腹に手を置いたまま、もう片方の手で彼女の頬に触れた。


「ここにいるんだな」


その声は、先ほどよりも低く、静かだった。


「ずっと、いたんだな」


ダイアナは彼の手に頬を寄せた。


「ええ。ずっとここに」


カイルはしばらく何も言わなかった。

やがて、彼はダイアナのお腹に視線を戻した。


「……早く会いたい」


ひと月前にも聞いた言葉だった。

けれど、今はその響きが違っていた。

あの時は、まだ見ぬ子どもへの期待だった。

今は違う。

小さく動く身体を、自分の手で感じた。

この子は、ここにいる。

自分たちのもとへ生まれてくる日を待っている。

その事実が、カイルの中に深く刻まれていた。


「どんな子だろうな」


彼が言った。


「わからないわ」

「ダイアナに似ているといい」

「どうして?」

「お前の瞳はきれいだから」


あまりにも自然に言われて、ダイアナは思わず笑った。


「あなたに似るかもしれないでしょう?」

「それなら、俺よりずっといい男になる」


ダイアナは声を立てて笑った。


「あなたって、本当に」

「何だ?」

「まだ生まれてもいないのに、もうそんなに親馬鹿なのね」


カイルも笑った。


「そうかもしれないな」


そして、彼はダイアナのお腹にそっと額を寄せた。

大きな身体をかがめ、まだ見ぬ子どもに語りかけるように。


「会える日を楽しみにしている」


その言葉を聞きながら、ダイアナは彼の髪に手を置いた。

カイルの掌の下で、赤ん坊がもう一度、小さく動いた。

二人は顔を見合わせた。

今度は、どちらからともなく笑みがこぼれた。


―

夜が深まり、寝室に戻ってからも、カイルは何度かダイアナのお腹に手を伸ばした。

けれど、赤ん坊はもう眠ってしまったのか、それきり動かなかった。


「残念だったわね」


ダイアナが言うと、カイルは彼女の隣に横になった。


「また明日がある」


その言い方があまりに真面目で、ダイアナは微笑んだ。

彼は腕を伸ばし。彼女をそっと引き寄せた。

以前なら、何も考えずに抱き寄せていた。

けれど、今はダイアナのお腹に負担を掛けないよう、腕の位置を確かめてから身体を寄せる。

そんな小さな変化にも、ダイアナは気づいていた。


「ねえ、カイル」

「何だ?」

「あなた、もう父親になったみたいね」


彼は少しだけ眉を上げた。


「まだ生まれていない」

「そうだけれど」


ダイアナは彼の胸に頬を寄せた。


「今日のあなたを見ていたら、そう思ったの」


カイルは答えず、彼女の髪を撫でた。

やがて、静かな声で言った。


「君が母親になるのを見ているうちに、俺も少しずつ変わっているんだろうな」


ダイアナは顔を上げた。


「怖い?」

「いや」


彼は迷わず答えた。


「不安がないわけじゃない。俺たちに、この子をちゃんと育てられるのか。

 何を教えて、何を守ってやればいいのか。まだわかないことばかりだ」


そこで一度、言葉を切った。


「だが、楽しみだ。おまえと一緒に、この子が大きくなるのを見ていきたい」


ダイアナの胸がいっぱいになった。

それは、彼女が望んでいた言葉だったのかもしれない。

自分一人で母親になるのではない。

カイルもまた、父親になろうとしている。

二人で、この子を迎えるのだ。

ダイアナは再び彼の胸に頬を寄せた。


「私もよ」


そう答えると、カイルは彼女の額に口づけた。

窓の外では、夜の海が静かに波を寄せていた。

まだ見ぬ子どものために用意しなければならないものは、いくつもある。

これから先、二人が経験することも、きっと少なくはない。

けれど今夜布だけは、何も急ぐ必要はなかった。


二人の間には、温かな静けさがあった。

ダイアナのお腹の中で、小さな命が育っている。

カイルはその事実を胸に刻みながら、腕の中の妻を抱きしめた。

やがて生まれてくる子どもを思うと、胸の奥が不思議なほど温かくなる。

まだ名前を呼ぶこともできない。

抱き上げることも、顔を覗き込むこともできない。

それなのに、もうこんなに愛おしい。

カイルは目を閉じた。

ダイアナもまた、彼の胸に身を預けながら、そっとお腹に手を添えた。


初夏の夜。

二人の人生に、新しい波が静かに広がり始めていた。



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