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第46話 春を待つ

本格的な冬の前に結婚してから、三か月が過ぎていた。


その年のアステリアの冬は、いつもに比べれば穏やかだった。

それでも、朝の海から吹き付ける風は冷たく、港に並ぶ船の帆は、強い風を受けて低くはためていた。

その風にも、近ごろはわずかな変化があった。


日差しが少しずつ長くなり、石壁に落ちる影が柔らかくなる。

港の仕事を終えた男たちが、もうすぐ春だというのを、カイルは何度か耳にしていた。


その日の朝も、彼はいつものように食堂へ向かった。

窓の外には、冬の名残を残した青い海が広がっている。

食卓では、ダイアナがすでに朝食を始めていた。


「おはよう、カイル」

「ああ。おはよう」


彼は妻の向かいに座り、焼いたパンに手を伸ばした。

結婚して三か月。

最初のころは、朝、目を覚まして隣にダイアナがいることに、何度も不思議な気持ちになった。

今ではその光景にも慣れたが、彼女が自分よりも先に起きていると。少しだけ残念に思うことがある。

目を覚ました時、彼女がまだ眠っていれば、しばらくその寝顔を見ていられるからだ。


「今日は港へ行くの?」

「ああ。海燕号の船材が届く予定だ。

 状態を確かめたい」

「そう。トーマスが喜びそうね」


カイルが笑うと、ダイアナも微笑んだ。

いつもと変わらない朝だった。

ただ、彼女の前に置かれた皿には、パンが半分ほど残っていた。


カイルはそれに気づいた。


「食べないのか?」

「ええ。少し食欲がないの?」

「具合が悪い?」

「そういうわけではないのだけれど、今朝は少し気持ちが悪くて」


彼女はそう言って、水を口にした。


「昨日、仕事が立て込んでいたからかしら。

 身体も少しだるいの」


カイルは彼女の顔を見た。

顔色が悪いというほどではない。

話し方も普段と変わらず、本人も深刻には考えていないようだった。


「今日は少し休んだ方がいい」

「大丈夫よ。午前中にエドガーたちとの打ち合わせがあるだけだから」

「そのあとも仕事するつもりだろう?」

「必要なことがあればね」

「ダイアナ」


名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。

カイルは困ったように笑った。


「俺は、お前が大丈夫だと言うときほど、少し心配になる」

「まあ」


ダイアナは目を丸くしたあと、くすりと笑った。


「そんなこと言うのは、あなたくらいよ」

「そうかもしれないな」


彼も笑ったが、彼女の皿に視線を戻した。

食欲がないという話は、今日が初めてではなかった。

二、三日前にも、夕食の途中で箸を置いていた。

昨夜は疲れたと言って、いつもより早く寝室へ向かった。


一つひとつは、気にするほどでのことはない。

けれど、カイルの胸には、小さな引っ掛かりが残った。


船を見ているとき、彼はわずかな変化を見逃さない。

風が変わる前の波の動きも、いつもと違う船の軋みも、注意深く見ていれば気づけることがある。

今、彼が見ているのは海ではない。


自分の妻だった。


―

その日の夕方、カイルが帰宅すると、ダイアナは書斎にいた。

机には書類が広げられ、彼女はエドガーがまとめた報告書に目を通していた。


「もう仕事は終わったのか?」


声をかけると、ダイアナは顔を上げた。


「ええ。最後の書類を確認しているところ」

「身体はどうだ?」


そう答えた彼女は、ふと眉を寄せた。


「……いえ。少しまだ気持ちが悪いかもしれないわ」


カイルは彼女のそばへ歩み寄った。


「医師に診てもらおう」

「そこまでしなくても」

「大したことがなければ、それでいいい。

 だが、原因がわからないままにしておくのは気になる」


彼の声は穏やかだった。

心配だからと言って、彼女の意思を無視するつもりはない。

ただ、何でもないと決めつけて、あとで後悔することだけは避けたかった。

ダイアナは少し考え、頷いた。


「わかったわ。明日、診てもらいましょう」

「ありがとう」

「お礼を言われるようなことではないでしょう?」

「俺にとっては、そうなんだ」


カイルが微笑むと、ダイアナも笑った。

その夜、二人はいつもより早く寝室に入った。

ベッドに腰を下ろしたダイアナが、ふと何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば、少し気になることがあるの」

「何だ?」

「月のものが、いつもより遅れているのよ」


カイルは彼女を見た。

ダイアナは、自分でも不思議そうな顔をしていた。


「忙しかったから、気にしていなかったのだけれど……。

 そうね、確かに少し遅いわ」


言いながら、彼女は指折り数えるように考えた。

カイルは黙っていた。

頭の中で、いくつかのことが繋がっていく。

食事が進まないこと、朝の気持ちの悪さ、身体のだるさ、そして今の話。

食卓を囲みながら、いつか自分たちのもとへ来てくれるかもしれない子どもの話をしたことがあった。

あの時は、まだ見ぬ未来を想像していただけだった。


もし。

胸の奥で、何かが静かに動いた。


「ダイアナ」

「何?」

「……子どもができたのかもしれない」


彼女は瞬きをした。


「え?」

「妊娠している可能性もあるんじゃないかと思った」


口にした途端、カイルは自分の言葉を慎重に見つめ直した。

まだ何もわからない。

期待を先走らせて、彼女を戸惑わせたくはなかった。


「もちろん。今はわからない。

 明日、医師に診てもらおう。そうすれば、もう少しはっきりする」


ダイアナは自分のお腹にそっと手を置いた。

そこに何かがあると感じるわけではない。

ただ、そう言われて初めて、自分の身体に起きている変化が、別の意味を持つかもしれないと思った。


「私……妊娠しているのかしら」


その声には、驚きと戸惑いが混じっていた。

カイルは彼女の隣に座った。


「そうだったら、俺は嬉しい」


ダイアナが顔を向けると、彼は続けた。


「お前との子どもだ。嬉しくないはずがない」


その言葉は、まっすぐだった。

けれど、彼の目には喜びだけではないものがあった。


「ただ、今はおまえの身体が心配だ。

 気持ちが悪いのも、だるいのも、ずっと続いているんだろう。

 明日、きちんと見てもらおう」

「ええ」

「何かあれば、俺にも話してほしい。大したことがないと思っても、遠慮しなくていい」


ダイアナは、彼の頬に手を伸ばした。


「あなたは、もうお父さんになることを考えているのね」

「まだ何もわからない」


カイルは苦笑した。


「だが、もしそうなら。俺はおまえと一緒に迎えたい。

 どんなことがあっても、二人で考えていきたいんだ」


ダイアナの目が和らいだ。

彼は、まだ見ぬ子どものことだけを考えているのではなかった。

その子を迎える自分のことを、何より気にかけてくれている。


「ありがとう、カイル」


彼女がそういうと、彼は少し首を傾げた。


「礼を言われることじゃない。俺は、おまえの夫なのだから」


その言葉が、ダイアナの胸に静かに落ちた。


夫。

結婚した時にも、その言葉を何度も意識した。

けれど、こうして自分の身体の変化を一緒に考え、まだ見ぬ未来をともに受け止めようとしてくれている彼を見ていると、その意味がまた少し違って感じられた。


ダイアナは彼の肩に寄りかかった。

カイルは彼女を抱き寄せ、髪にそっと頬を寄せた。


「明日は一緒に行こう」

「仕事は?」

「時間を作る」

「港の仕事があるでしょう?」

「トーマスに頼んでおく。トーマスなら、事情を話せばわかってくれる」


ダイアナは小さく笑った。


「きっと、私より先に喜ぶわね」

「そうかもしれないな」


カイルも笑った。

それから、彼はしばらく何も言わなかった。

腕の中のダイアナは、いつもと変わらない温もりを持っている。

その温もりを確かめるように、彼は彼女の背中をゆっくりと撫でた。

まだ、何も決まってはいない。

明日、医師に診てもらえば、違う結果が出るかもしれない。

それでも、彼の胸には、今まで知らなかった感情が芽生えていた。

ダイアナと結婚した時、彼は彼女と生きていく未来を選んだ。

そして今、その未来に、もう一人の誰かが加わるかもしれない。

そう考えるだけで、胸が満たされる。

同時に、ダイアナを大切にしたいという思いが、これまで以上に強くなっていた。


「カイル?」

「何だ?」

「明日、もし本当にそうだったら…」


ダイアナは言葉を切った。

まだ実感が沸かないのだろう。

彼女は少し困ったように笑った。


「私、母親になるのね」


カイルは、彼女の顔を見つめた。


「そうだな」


それから、ゆっくりと彼女の手を取った。


「俺も、父親になる」


二人は顔を見合わせた。

どちらからともなく笑みがこぼれたが、その笑みには、まだ戸惑いが残っていた。

知らないことばかりだ。

親になるということも、これから何が起こるのかも、二人にはわからない。

けれど、わからないことを一緒に考えていける相手が、すぐ隣にいる。

それだけは、確かなことだった。

窓の外では、夜の海が静かに広がっていた。

冬の終わりを告げる風が、遠くから吹いてくる。

明日、二人は新しい未来の扉を開くことになるのかもしれない。

カイルは、ダイアナの手を握ったまま、そっと目を閉じた。

今夜は、いつもより長く、彼女を抱きしめていたかった。

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