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第45話 遠い日の話

夕食の席に、窓から差し込む夕暮れの光が残っていた。


日が傾くにつれて、海の色は青から深い藍へと変わっていく。

食堂の窓辺には、潮風に揺れる薄いカーテン。

卓上には焼いた魚と根菜のスープ、それにパンと、島で採れた野菜を使った料理が並んでいた。


結婚してから、まだ幾日も経っていない。

ダイアナは時折、不思議な気持ちになる。

向かいに座って食事をしている男が、自分の夫なのだ。

いつも隣に黙っていてくれたカイル。

今は同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、こうして何でもない話をしている。


カイルは魚の骨を器用に取り除いていた。

大きな手で小さな骨を一本ずつ拾い上げる様子は、船の上で帆や索具を扱う時とはずいぶん違って見える。


「カイルは、こどものころ、どんな子だったの?」

「どんな子、か。よく海を見ていた」

「今と変わらないのね」

「そうだな」


カイルは少し笑った。


「家の近くから船が見えた。朝、港を出て行く船も、夕方に戻ってくる船もあった。

 どこへ行くのか、何を積んでいるのか、どうしてあの船はあんなに速いのか、そんなことばかり

 考えていた」

「船乗りになるのは、ずっと前から決めていたの?」

「決めていたというより、気づいたらそうなったいた」


彼は窓の外へ目を向けた。

夕闇の中に、港の灯りが一つ、また一つと灯りはじめている。


「父は海軍にいたし、兄も海軍に入った。母の家も昔から海岸の守りに関わっていた。海は、俺にとって

 遠い場所じゃなかった。家族の話にも、毎日の暮らしにも当たり前にあった」

「怖いと思ったことは?」

「ある」


答えはすぐに返ってきた。


「海は好きだが、怖くないわけじゃない。

 子供の頃は、嵐のあとに港へ戻ってくる船を見ると、船員たちはどうしてあんな場所へいくんだろうと  

 思った」

「それでも、行きたかったのね」

「ああ。怖いと思うのと、行きたいと思うのは、別の話だった」


ダイアナは、その言葉を心の中で繰り返した。

カイルらしいと思った。

恐れを知らないから進むのではない。

危険を知っていて、それでも自分が進みたい場所を選ぶ。

彼がアステリアに残ったときも、そうだったのだろうか。


ダイアナが尋ねる前に、カイルがこちらを見た。


「おまえは?」

「私?」

「子供の頃の話。俺ばかり話している」


ダイアナはスープの匙を置いた。


「そうね。私の話は、あまり立派なものではないけれど」

「立派かどうかは聞いていない」

「そうだったわね」


彼女は笑った。

少し考えてから、いたずらを思いついた子どものような顔をした。


「私の初恋の話をしてあげる」


カイルの手が止まった。


「初恋?」

「ええ」

「……初めて聞いた」

「当然でしょう。あなたに会うよりも、ずっと前の話だもの」


ダイアナは、昔のことを思い出すように目を細めた。


「相手は、トーマスよ」


カイルはしばらく黙っていた。


「トーマス?」

「そう。今のトーマス」

「船を造っている、あのトーマスか」

「ほかに誰がいるの?」

「いや……」


カイルは手元のさらに視線を落とした。

表情はいつも通りだったが、魚を切り分ける手が、ほんの少しだけ慎重になった。

それを見て、ダイアナはとうとう笑い出した。


「そんな顔をしないで、私がいくつの時だと思っているの?」

「いくつでも、俺の知らない男に恋をしていたのは事実だ」

「男って。トーマスよ」

「名前は知っている」


その言い方があまりに真面目で、ダイアナはまた笑った。

幼い頃のトーマスは、今よりずっと若く、いつも港で船の話をしていた。

木材を選び、図面を広げ、まだ形のない船について熱心に語る姿が、彼女にはとても格好よく見えたのだ。

何より、トーマスは幼いダイアナの話をよく聞いてくれた。

頭領の娘だからと特別扱いするのではなく、海のことを知りたいと言えば教えてくれたし、船に乗りたいとせがめば、危なくない場所を選んで連れていってくれた。

幼いダイアナにとって、それは十分すぎるほど特別なことだった。


「ある日、トーマスに言ったの。

 大きくなったら、トーマスのお嫁さんになるって」


カイルが顔を上げた。


「それで?」

「トーマスは、私の頭を撫でてね。

 とてもまじめな顔で言ったのよ」


ダイアナは、当時の声を思い出すように少し低い声を作った。


「『ダイアナ、頭領は迎え人を迎えなければならない。だから、俺とは結婚できない』って」


カイルは何も言わなかった。


「私は、それがもう悲しくて、悲しくて。

 頭領になんかなりたくないって泣いたのよ」

「……そうか」

「ええ。マリーに慰めてもらっても泣き止まなくて、頭領なんて嫌いだって。

 ずいぶん困らせたと思うわ」


ダイアナは、なつかしさに目を細めた。


「今思えば、トーマスは困ったでしょうね。

 まだ小さな女の子が、自分と結婚できないって泣いているのだもの」

「トーマスは、どうしたんだ?」

「私が泣き止むまで、ずっとそばにいてくれたわ。

 それから、いつかダイアナが大きくなったら、きっと素敵な迎え人が来るって」


ダイアナは、そこで少しだけ声を柔らかくした。


「本当に、そうなったわね」


カイルは彼女を見つめた。


「トーマスの言うとおりになった」

「ええ」

「ずいぶん先の話だったが」

「そうね。私も、あの頃は自分が誰を選ぶことになるのか、少しも知らなかったもの」


ダイアナの目が、まっすぐにカイルに向けられた。

その視線に、カイルの表情がわずかに変わる。

彼女は微笑んでいた。

幼い日の恋を懐かしむ顔でありながら、今、隣にいる男を選んだことを、少しも疑っていない顔だった。

カイルは息をつき、ようやく肩の力を抜いた。


「……トーマスには、一度礼を言っておくべきかもしれないな」

「どうして?」

「お前が頭領になると決めるまで、待っていてくれた」

「待っていたわけではないでしょう?」

「そうかもしれない」


カイルは口元を緩めた。


「だが、あのときトーマスがお前のそばにいてくれたことは、良かったと思う」


ダイアナは少し驚いたように彼を見た。

カイルは、彼女の過去を否定しない。

自分が知らない時間に、彼女が誰を好きで、誰に支えられ、どんな風に育ってきたのか。

それを知ることを、彼は恐れていないのだ。

むしろ、その時間があったから今のダイアナがいるのだと、自然に受け入れている。


「あなたって、本当に不思議な人ね」

「何がだ?」

「少しも嫌な顔をしないのだもの」

「しただろう。最初は」

「そうだったわね」


二人は顔を見合わせて笑った。

窓の外では、夜の海が静かに広がっていた。

しばらくして、ダイアナが食器を片付けようと立ち上がると、カイルも椅子を引いた。

彼女が盆を持つ前に、彼は皿を重ね始める。


「カイル、私がするわ」

「二人でやれば早い」


それだけ言って、彼は皿を運んでいった。

夫婦になったからと言って、暮らしが一変したわけではない。

こうして食事をし、話をし、片づけをする。

明日になれば、それぞれの仕事が待っている。

ダイアナは頭領として政務に向かい、カイルは港へ出るだろう。


けれど、二人の間には、これまでなかった時間が生まれていた。

食器を片付け終えた頃、ダイアナはふと思いついたように尋ねた。


「ねえ。もし、いつか私たちに子どもができたら、どんな子だと思う?」


カイルは、持っていた布巾を置いた。


「子どもか」

「ええ。まだずっと先のことかもしれないけれど」


そう言ってから、ダイアナは少し照れたように笑った。


「どんな子が来てくれるのか、考えてみたくなったの」


カイルはすぐには答えなかった。

彼にとって、子どもという言葉は、まだ形のない未来のものだった。

自分が父親になる日を、具体的に想像したことはほとんどない。

だが、ダイアナがその未来を自分と一緒に考えている。

それは、思っていた以上に胸に響いた。


「そうだな。海が好きな子なら、船を見せてやりたい」

「あなたみたいに?」

「ああ。小さい頃、俺が見ていた船を」


カイルは窓の外を見た。


「港へ連れて行って、船がどうやって動くのか教える。

 帆の張り方、風の読み方も。

 いつか本人が望むなら、一緒に海へ出てもいい」

「海が好きではなかったら?」


ダイアナが尋ねると、彼は少し考えてから答えた。


「それなら、それでいい」

「いいの?」

「俺が好きだからといって、同じものを好きになる必要はない。

 おまえが本を読んでいる姿を見て育てば、本が好きになるかもしれない。

 島の歴史に興味をもつかもしれない」


彼はダイアナに目を戻した。


「どんな子でも、まずはその子が何を好きなのか知りたい」


ダイアナは、しばらく彼を見つめていた。


「きっと、いいお父さんになるわ」

「まだ、何もしていない」

「でも、今の話を聞いたら、そう思うもの」


カイルは困ったように笑った。


「俺は父親になることを、まだよく知らない。

 どうすればいいのかも、わからないことばかりだ」

「私だって、母親になることは知らないわ」


ダイアナは彼のそばへ歩み寄った。


「二人とも初めてなのだから、一緒に考えればいいのよ」


その言葉に、カイルの目が少し和らいだ。

一緒に考える。

彼がずっと望んでいたのは、きっとそういうことだった。

ダイアナの人生を遠くから見守るのではなく、その隣で、迷ったときには話し合い、うれしいことがあれば分かち合う。


いつか子供が生まれたなら、その子のことも二人で考えていく。

まだ見ぬ子どもが、どんな目をして、どんな声で笑うのか、二人にはわからない。

ダイアナに似た青緑の瞳を持つだろうか。

それとも、カイルの琥珀色の瞳を受け継ぐだろうか。


海を見て育ち、船に憧れるかもしれない。

あるいは、ダイアナのように本を読み、島の古い物語を好むかもしれない。

そのどれもが、まだ想像の中にしかない。


「女の子だったら、マリーが喜ぶでしょうね」


ダイアナが言った。


「トーマスも喜ぶ」

「ええ。きっと甘やかすわ」

「俺も、甘やかすと思う」


あまりに真顔で言うので、ダイアナは笑ってしまった。


「まだ、生まれてもいないのに?」

「生まれてから考える必要はないだろう」


カイルは彼女の手を取った。

大きな手が、ダイアナの手を包み込む。


「来てくれたら、うれしい」


それは、彼にしては控えめな言葉だった。

けれどダイアナには、その一言に込められたものがわかった。

子どもが生まれる未来を、彼は当たり前のものとして語っているのではない。

いつか、二人のもとへ新しい命が来てくれるなら、その子を大切に迎えたいと願っているのだ。


ダイナアは、彼の手を握り返した。


「私もよ」


二人は、しばらくそのままでいた。

窓の向こうには、夜の海がある。

幼い頃のダイアナが、トーマスの船を眺めていた海。

幼いカイルが、いつか自分もあの船に乗りたいと夢見ながら見つめていた海。


二人は、それぞれ違う場所で、違う時間を生きてきた。

知らないことばかりだった過去が、今、食卓で語られた言葉を通して、少しずつ繋がっていく。


そして、その先にはまだ見ぬ未来がある。

カイルは、ダイアナの手を握ったまま、少し笑った。


「これから、いろいろな話をきかせてくれ」

「あなたもね」

「ああ。いくらでも話す」


それは、特別な約束ではなかった。

ただ、これからも一緒に食事をし、互いの知らなかったことを知り、時には笑いながら、時には真剣に話をしていこうという、ごく自然な願いだった。

ダイアナは、彼の肩のそっと寄りかかった。

明日もまた、朝が来る。

海は変わらずそこにあり、島の暮らしも続いていく。

けれど、二人が迎える明日は、もう昨日までとは違う。

遠い日の話をしながら、二人はまだ見ぬ日のことを思っていた。

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