第43話 結婚式までの一週間
砦に引っ越してから、三日が過ぎた。
カイルは、まだこの暮らしに慣れきっていなかった。
朝、目を覚ますと、窓の向こうには海が広がっている。
港の家にいた頃よりも高い場所から眺める海は、少し違って見えた。
風の向きも、沖を行く船の姿も、以前よりよくわかる。
けれど、ここが自分の帰る場所になるのだと思うと、何度見ても不思議な気がした。
結婚式まで、あと四日。
そう考えた途端、カイルは手にしていた本を閉じた。
もう何度目だろう。
日数を数えたところで、式の日が早く来るわけでもない。
それなのに、気づけばの残りの日を確かめてしまう。
ダイアナと結婚する。
その事実は、少しずつ現実味を帯びてきた。
それでも、時折、夢のように思える瞬間があった。
―
その夜、二人は港の酒場へ出かけた。
ダイアナが仕事を終えた頃を見計らって迎えに行くと、彼女は書類を片付けながら顔を上げた。
「どこへ行くの?」
「酒場」
「今から?」
「腹も減ったし、酒も飲みたい」
カイルは彼女の机の上を見た。
「それとも、まだ仕事があるのか?」
「……ないわ」
ダイアナは少し考えてから、残っていた書類を引き出しにしまった。
「では、行きましょう」
港の酒場は、夕食時を過ぎても賑わっていた。
扉を開けると、焼いた魚と香辛料の匂い、酒の香り、船乗りたちの笑い声が一度に押し寄せてきた。
二人の姿を見つけた男が、真っ先に声を上げた。
「おお、カイル!頭領と一緒か」
「見ればわかるだろう」
カイルが答えると、酒場のあちこちから笑い声が起こった。
「結婚するんだってな!」
「おめでとう!」
「頭領、こいつで本当にいいんですか!」
「余計なことを言うな」
カイルが言い返すより先に、ダイアナが楽しそうに笑った。
「ええ。私が選んだんですもの」
その一言に、今度は大きな歓声が上がった。
カイルは彼女を見た。
ダイアナは何事もなかったかのように、運ばれてきた酒を手にしている。
自分が選んだ。
彼女は、そう言った。
周囲の祝福など、これまでにも何度か受けている。
けれど、彼女自身の口からあらためて告げられると、胸の奥に温かなものが広がった。
カイルは杯を持ち上げた。
「ありがとう。
式にはうまい酒を用意しておく」
「おお、言ったな!」
「忘れるなよ!」
「わかってる」
笑い声の中で、二人は杯を合わせた。
しばらくすると、船乗りたちがそれぞれの航海の話を始めた。
沖で出会った嵐のこと、交易先で見つけた珍しい品のこと。
ダイアナはときどき話に加わり、カイルはその横で笑いながら耳を傾けた。
ふと、ダイアナが彼の杯を見た。
「あなた、今日はよく飲むわね」
「そうか」
「ええ」
カイルは自分の杯を見下ろした。
「嬉しいんだ」
思ったままを口にすると、ダイアナがこちらを向いた。
「結婚するのが?」
「ほかに何がある」
ダイアナは一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「そうね」
その笑顔を見て、カイルも笑った。
酒場のざわめきは、いつまでも途切れなかった。
―
翌々日、カイルはダイアナを船に乗せた。
向かったのは、島の西側にある小さな海岸だった。
陸路からは近づけず、船でしか行くことのできない場所だ。
岩場を回り込むと、白い砂浜が姿を現した。
入り江を囲む岸壁は風を遮り、波は穏やかに砂浜へ寄せていた。
頭上には雲一つない空が広がり、海の青さは、沖へ向かうほど深くなっている。
カイルは船を波の届かない場所につなぎ、ダイアナとともに砂浜へ降りた。
「ここへ来るのは久しぶりだわ」
「そうなのか?」
「ええ。子供の頃に、トーマスに連れてきてもらったことがあるの」
二人は波打ち際から少し離れた岩に腰を下ろした。
言葉は自然と少なくなった。
寄せてくる波が砂を濡らし、静かに引いていく。
海鳥が一羽、岸壁の上を横切っていった。
カイルは隣に座るダイアナを見た。
風に髪を揺らしながら、彼女は遠くの海を眺めていた。
その横顔には、頭領として人々の前に立つときの緊張も、政務に向き合うときの厳しさもなかった。
ただ、海が好きな一人の女性が、そこにいた。
カイルは、そっと肩を寄せた。
ダイアナも自然に身を預けてきた。
触れ合った肩から、彼女の温もりが伝わってくる。
あと数日で、この人と結婚する。
式の日取りは決まっている。準備も進んでいる。
周囲の人々も、それを知っている。
それなのに、今こうして二人で海を眺めていると、ようやくそのことが実感を伴って胸に落ちてきた。
「カイル」
「ああ」
「結婚したら、こうして二人で出かける時間も減るのかしら」
「どうしてそう思う?」
「あなたは海燕号を完成させなければならないし、私は島の仕事があるわ」
カイルは少し考えた。
「時間が減ることはあるかもしれない。
でも、なくなるわけじゃない」
ダイアナが顔を向けた。
「海燕号が完成したら、もっと遠くへ連れて行く。
仕事がひと段落したら、またここへ来ればいい」
「約束する?」
「約束する」
カイルは彼女の肩を抱き寄せた。
「結婚したからと言って、二人で海を見る時間までなくすつもりはない」
ダイアナは彼の肩に頬を寄せた。
「よかった」
それだけ言って、再び海を見つめた。
カイルは、彼女の髪に頬が触れそうなほど近くで、同じ景色を眺めた。
この先、二人には様々な日が待っているだろう。
忙しい日も、思うようにいかない日もあるに違いない。
それでも、こうして肩を寄せ、同じ海を眺める時間を持ち続けたいと思った。
それは、彼がずっと望んでいた未来だった。
―
結婚式の二日前、カイルはダイアナと昼食を取っていた。
食卓には焼いた魚と野菜、温かなパンが並んでいる。
ダイアナは席に着くなり、持ってきた書類を開いた。
カイルはしばらく黙って食事をしていたが、彼女が一口食べては書類に目を落とす様子を見て、とうとう匙を置いた。
「ダイアナ」
「何?」
「食事をしてるんだろう」
「ええ」
「なら、書類を置け」
ダイアナは顔を上げた。
「あと少しだけ」
「その言葉を、さっきから三回聞いている」
「数えていたの?」
「数えたくもなる」
ダイアナは笑いをこらえるように口元を押さえた。
「わかったわ。これを読み終えたら」
「今、置け」
カイルは書類を取り上げると、彼女の手の届かないところへ移した。
「カイル!」
「食事が終わったら返す」
「まったく……」
ダイアナは呆れたように息をついたが、怒ってはいなかった。
むしろ、その表情には面白がっているような色があった。
カイルは食事を再開した。
しばらくして、ダイアナが彼をじっと見ていることに気づいた。
「何だ?」
「あなた、そういうところがあったのね」
「どういうところだ」
「案外、几帳面で細かいところ」
カイルは眉を寄せた。
「食事中に書類を読むなと言っているだけだ」
「ええ。でも、あなたがそこまで気にする人だとは思わなかったわ」
ダイアナは楽しそうに笑った。
「もっと大らかな人だと思っていたのに」
「大らかだ」
「そうかしら」
「そうだ」
カイルは即座に答えた。
「船の仕事では、細かいことを見落としたら危険なんだ。
帆の張り方一つ、綱の結び方一つで、船の動きは変わる。確認する癖がついているだけだ」
「なるほど」
「それに、お前は仕事を始めると食事を忘れる」
「忘れていないわ」
「さっき、パンを持ったまま五分も書類を読んでた」
ダイアナは目を丸くした。
「見ていたの?」
「見えるところにいたからな」
彼女はとうとう声を立てて笑った。
カイルは少し不満そうな顔をしたが、彼女が笑うのを見ると、結局自分も笑ってしまった。
こういう時間が、これからも続いていくのだろう。
彼女の知らない自分を、少しずつ知ってもらう。
自分の知らない彼女を、また一つ知っていく。
大きな誓いを交わさなくても、そうした日々の積み重ねが二人を夫婦にしていくのかもしれない。
―
結婚式の前日。
カイルは窓辺に立ち、暮れかけた海を眺めていた。
明日、ダイアナと結婚する。
その事実を思うと、今でも胸が熱くなる。
けれど、以前のような戸惑いはなかった。
彼女と酒を飲んだ夜。
肩を寄せて海を眺めた午後。
食事の席で書類を取り上げ、笑いあった昼下がり。
この数日間の何気ない出来事が、明日からの暮らしを少しずつ形にしてくれた。
結婚とは、誓いを交わす一日だけのことではない。
その先に続く、何でもない日々のことだ。
海の向こうで、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
カイルは窓から離れ、明日のために整えられた衣服へ目を向けた。
明日になれば、ダイアナは妻になる。
そして自分は、彼女の夫になる。
明日が待ち遠しかった。




