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第42話 波間

トーマスの家を出る日が近づいていた。

港に近い家からは、朝、目を覚ませば波の音が聞こえ、作業場へ向かう途中には潮の匂いがした。

ここで過ごした時間は、カイルが思っていたよりも長くなっていた。


初めてこの家に来たとき、トーマスは空いている部屋を使えと言った。

それ以上の説明はなかったし、カイルも深く考えなかった。

島に残ると決めた自分にとって、ありがたい申し出だった。


その部屋で眠り、トーマスと食卓を囲み、港で働いた。

仕事が終われば作業場へ戻り、二人で海燕号を造った。


いつの間にか、ここでの暮らしが当たり前になっていた。


「本当に行くのか」


荷物をまとめていると、戸口に立ったトーマスが言った。


「行くと決めたからな」

「そうか」


トーマスは部屋を見渡した。

何か言いたげだったが、結局口にしたのは別のことだった。


「ダイアナがここに住めばいいだろう」


カイルは手を止めた。


「ダイアナが?」

「そうすれば、俺も寂しくない」


あまりにも真顔で言うので、カイルは笑ってしまった。


「頭領がそういうわけにもいかないだろう」


トーマスは鼻を鳴らした。冗談だったのか、本気で考えていたのか、カイルにはわからなかった。

ただ、その言葉の奥にあるものはわかった。

長い間、ここで暮らしてきた自分がいなくなる。

それが、トーマスにとっても、少しばかり寂しいことなのだ。

そう思うと、胸の奥が温かくなった。


「海燕号は、最後まで二人で造る」


カイルは言った。

海燕号は、まだ船としての姿を完成させていない。船体には木材の色が残り、甲板にも仕上げを待つ部分があった。けれど、そこには二人が重ねてきた時間がある。

いつか完成した船が港を出る時、トーマスと自分はきっと、今日までのことを思い出すだろう。


「必ず最後まで一緒に造る」


カイルは改めて言った。

トーマスは短く頷いた。


「当たり前だ」


それで十分だった。


―

砦の私邸へ向かう道は、港から続く坂を上がった先にあった。

石造りの砦は、海を見下ろす高台に建っていた。

外壁には長い年月を経た石の色が残り、窓の向こうには、島を囲む青い海が広がっていた。


ここが、これから自分の暮らす場所になる。

そう考えると、妙な気持ちがした。

ここには、島の歴史が積み重なっている。

そして、ダイアナが生きてきた時間がある。


案内された私邸の一室で、カイルは足を止めた。

ダイアナの部屋だった。

壁際の書棚には本が並び、机の上にも数冊が積まれている。

背表紙には見慣れない題名もあれば、航海や海図に関するものもあった。

窓辺には読みかけらしい本が置かれ、開いた頁には小さな栞が挟まれていた。


彼女がここで本を読み、考え事をし、時には窓の外の海を眺めていたのだろう。


カイルは部屋の中を見回した。

自分が知らないダイアナの時間が、そこに残っていた。


その隣には、レオンの部屋があった。

扉の向こうには、彼が使っていた家具や品々が、今も残されているという。


カイルはそちらへ目を向けた。

胸の奥に、言葉にならない感情が浮かんだ。

レオンは、ダイアナが選んだ人だった。彼女が愛し、夫として共に生きた人だ。

その時間があったからこそ、今のダイアナがいる。

自分がここに来たからと言って、過去が消えるわけではない。

消す必要もない。

ダイアナは、この島で生きてきた。

喜びも悲しみも、彼女自身が選んできた人生の一部だ。


カイルはもう一度、書棚に目を向けた。

この部屋にある本も、隣の部屋に残されたものも、彼女が歩んできた人生を物語っている。

それらをすべて受け入れることが、彼女と生きるということなのだろう。


カイルは静かに息を吐いた。


ここは、自分が彼女の過去を塗り替えるための場所ではない。

彼女が生きてきた場所に、自分のこれからを重ねていくのだ。


―

大広間には、壁一面に大きなタペストリーが掛けられていた。

織り込まれた糸は年月を経て落ち着いた色合いになっていたが、描かれた船や海岸線、島の人々の姿は、今もはっきりと見ることができた。


「アステリアの歴史を描いたものです」


エドガーが説明を始めた。


「こちらは、島の者たちが海路を切り開いた時代。

 その隣が、周辺の国々と交易が始まった頃です」


カイルは一歩近づいた。

船の形は、今のものとは違っていた。

帆も小さく、船体もずっと簡素だ。

それでも、海へ向かう人々の姿には、見覚えのある緊張感があった。

海を知る者の顔だった。


「こちらには、島の頭領と、その迎え人が描かれています」


エドガーが指し示した場所には並んで立つ男女の姿があった。


「迎え人は、島の外から来て、頭領の伴侶となる者です。

 島に迎えられたからといって、ただ客人として暮らすわけではありません。

 島の歴史と慣習を知り、その未来を担う立場になります」


カイルは、織り込まれた二人の姿を見つめた。


「つまり、俺もここに描かれる側になるのか」

「いずれ、そのようになるでしょう」


エドガーの声はいつもと変わらなかった。

大げさな祝福も、期待を込めた言葉もない。

ただ、そうなることが当然であるかのように告げた。


それが、かえってカイルの胸に響いた。

ダイアナと結婚する。

その言葉には、二人が夫婦になること以上の意味がある。

彼女が背負ってきたものを知り、島の人々と共に生き、この島が次の世代へ渡そうとしているものを受け継いでいく。


自分は、彼女の人生に加わるだけではない。

アステリアの未来にも加わるのだ。

カイルはタペストリーを見上げた。

描かれた船の一隻一隻に、かつて海へ出た人々がいた。

彼らにも家族があり、帰る場所があり、守りたいものがあったのだろう。


彼らが繋いできたものが、今もここにある。

そして、いつか自分も、この歴史の続きを担う。


「わかった」


カイルはエドガーに向き直った。


「俺もアステリアのことを知っていく。

 次の世代に伝えられるように」


エドガーは静かに頭を下げた。


「それを聞けて安心しました」


その言葉に、カイルは少しだけ笑った。

エドガーは、ダイアナが十八歳で頭領になって以来、島の政務を支えてきた人だ。

必要なことだけを語り、決して彼女の代わりに決断することはない。

彼は彼女を支えてきた。

マリーもそうだ。

ダイアナのそばに長くいて、彼女の暮らしを守り、時には言葉にしない気持ちまで察してきた。

そして、トーマス。

海を教え、船を造り、父親のように彼女を見守ってきた男。

彼女が一人で立っているように見えても、その背後には、彼女を信じ、支えてきた人々がいる。


その人々が守ってきた島に、自分は迎えられるのだ。

責任の重さを感じないわけではなかった。

けれど、不思議と怖くはなかった。

自分一人で背負う必要はないのだ。

ダイアナがそうしてきたように、周囲の人々と共に考え、支え合いながら進んでいけばいい。


―

夕方、カイルは砦の窓辺に立っていた。

海は夕陽を受け、青から金色へと色を変えていた。

港には船が戻り、帆を畳む音や、岸壁で働く人々の声がかすかに届いてくる。


その中に、海燕号を造る作業場もある。

明日になれば、またトーマスと船の続きを話し合うだろう。

船首の形について意見をぶつけ、どちらかが譲らず、最後には二人で笑うかもしれない。


そして、ここへ帰ってくる。

ダイアナのいる場所へ。

まだ結婚式は迎えていない。

それでも、カイルの中では何かが変わり始めていた。


島に残ると決めた時、自分は海燕号を完成させることと、港で働くことを考えていた。

ダイアナのそばにいられるなら、それでいいと思っていた。


けれど、今は違う。


彼女と生きる未来には、彼女が愛してきた人々も、彼女が守ってきた島もある。

それらを知り、受け入れ、自分もその一部になっていく。

それが、迎え人になるということなのだろう。


カイルは窓の外を見つめた。

海は、何も語らない。

ただ、寄せては返す波の向こうに、明日へ続く航路が広がっている。

その先に、ダイアナがいる。

そして、自分がこれから守り、伝えていくものがある。


カイルは、ゆっくりと息を吸った。

ここから始まるのだ。

誰かの人生に加わるだけではなく、二人で新しい時間を作っていく。

波が砦の下の岩場に砕け、白い泡となって消えた。

その向こうから、また次の波がやってくる。

カイルはその光景を、しばらく見つめていた。



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