第41話 清海
ダイアナが去ったあとも、カイルは作業場に立ち尽くしていた。
開け放たれた扉から。秋の終わりの風が吹き込んでくる。
夏の名残を失った風は、どこか乾いていて、けれど冬の厳しさを帯びるにはまだ早かった。
高い空には雲一つなく、午後の陽光が未完成の海燕号の船体を明るく照らしている。
その光の中で、カイルは動けずにいた。
つい先ほどまで、ダイアナはそこにいた。
私も、あなたが好き。
間を置かずに、彼女は、まるで西の海への調査航海を命じるかのような口調で言った。
―私と結婚して。
返事はいつでもいい。
そう言い残して、彼女は作業場を後にした。
あまりにもダイアナらしい申し出だった。
決断すべき時には迷わず、必要な言葉を選び、相手に考える時間を与える。
自分が何を望んでいるのかを相手に明らかにしたうえで、その答えを相手に委ねる。
けれど、カイルは彼女が立ち去る直前の姿を思い出していた。
結婚してほしいと告げた時、彼女の指先がかすかに震えていた。
ほんのわずかな震えだった。
おそらく、本人は気づかれていないと思っていたのだろう。
顔を上げ、まっすぐに彼を見つめる彼女の声は、最後まで揺らがなかった。
だからこそ、カイルは気づいてしまった。
あの言葉を口にするまでに、彼女がどれほどの勇気を必要としたのかを。
ダイアナは、彼を選んだのだ。
島のために夫を迎えなければならないからではなく、誰かに勧められたからでもなく、
自分の意志で。
その事実が、胸の奥に深く沈んでいった。
嬉しかった。
ずっと、彼女の幸せを願ってきた。
レオンを選んだ彼女を見送った時も、二人が並んでいる姿を目にした時も、その気持ちは変わらなかった。彼女が愛する人と生きること、カイルにとって何より大切なことだった。
だから、自分の想いを告げなかった。
彼女は、自分の人生の隣に立つ相手として、カイルを選んでくれた。
喜びが胸に満ちる。
けれど、その喜びと同じくらい、不安もあった。
自分と結婚して、ダイアナは幸せになれるのだろうか。
彼女と同じ場所に立ち、彼女が背負うものを理解し、時には彼女の決断を支えながら生きていくことができるのか。
そして、何より、レオンを愛した彼女が、いつか自分を選んだことを後悔する日が来るのではないか。
カイルは、ゆっくりと息を吐いた。
彼女が自分を好きだと言ってくれた。
それだけで、十分すぎるほどの幸福だった。
けれど、彼女の言葉を自分の願いだけで受け取るわけにはいかなかった。
ダイアナが自分の意志で彼を選んだのなら、彼もまた、自分の意志で彼女を選ばなければならない。
彼女の幸せを願うだけでは、もう足りないのだ。
彼女の夫として、彼女が見る景色を隣で見ていきたいのか。
答えは、ずっと前から決まっていたのかもしれなかった。
それでもカイルは、すぐには動けなかった。
作業場の外では、潮が満ちていた。
海燕号の船体を撫でる風が、木の香りを運んでくる。
彼はその場に立ったまま、ダイアナが残していった言葉を、何度も心の中で繰り返していた。
―
夕方、トーマスが作業場にやってきた。
港の仕事を終えた彼は、いつものように海燕号の進み具合を確かめようとしたのだが、
入口から中を覗いたところで足を止めた。
カイルが、船体のそばに座っていた。
道具は片付けられ、作業は進んでいない。
怪我をした肩をかばうように背もたれに身体を預けていた。
その横顔に、トーマスは何かを感じ取った。
「今日はもう終わりか」
トーマスが声をかけると、カイルは顔を向けた。
いつもの笑顔を浮かべようとしたらしい。
けれど、それは途中で形を変え、どこか困ったような表情になった。
トーマスは、それ以上尋ねなっかた。
今の彼の顔を見れば、何があったのかを想像するのは難しくなかった。
トーマスは、作業台の上に置かれた図面を整えた。
「明日は海に出るか」
何気なく尋ねると、カイルは少し考え、それから頷いた。
「ああ。出たいと思っている」
「肩は大丈夫なのか」
「無理はしない」
トーマスは鼻を鳴らした。
その返事をどこまで信用してよいものか、判断しかねたのだろう。
しかし、カイルの表情をもう一度見て、何も言わずに作業場を出て行った。
―
翌朝は、見事な快晴だった。
冬の始まりを告げる冷たい風が、港の水面を撫でている。
カイルは早くから起きていた。
昨夜、眠れないまま考え続けたことは、朝になっても変わらなかった。
彼はダイアナと生きていきたい。
その気持ちに、迷いはなかった。
カイルが港へ出ると、すでに作業をしているトーマスがいた。
「沖へ出るのか」
「ああ。少し船を出してくる」
トーマスは顔を上げ、カイルを見た。
昨日の夕食の席では、あれほど考え込んでいた男が、今朝は別人のように落ち着いている。
澄んだ海のような、迷いのない表情だった。
トーマスは何も尋ねなかった。
ただ、わずかに目を細めた。
「そうか」
それだけで十分だった。
―
船は、冬の海を静かに進んでいた。
空には雲がほとんどなく、冷たい陽射しが水面に反射している。
カイルは舵を取りながら、前方に広がる海を見つめていた。
陽射しは低く、空気は澄み切っている。水平線はくっきりと空を分かち、遠くの岬も、岩肌も
手を伸ばせば届きそうなほど鮮明に見えた。
海から見える島は、いつも美しかった。
けれど、この日の島は、今まで見てきたどの景色とも違って見えた。
彼女は船縁に立ち、静かに島を眺めている。
切り立った海岸線、深い森に覆われた斜面、その奥に広がる、彼女が生まれ育った故郷。
父から受け継いだ島。
守り続けてきた島。
そして、カイルが自ら選び、暮らしてきた場所。
淡い栗色の髪が風に揺れ、青緑色の瞳が遠くの岸辺を見つめている。
彼が隣に立った。
二人はしばらく、何も言わずに島を眺めていた。
やがて、ダイアナが彼の方を向いた。
「カイル」
「昨日のことだけれど」
彼女は言葉を切った。
求婚の返事を急がせるつもりはない。
そう伝えたはずだった。
それでも、彼の答えを聞くのが怖かった。
ダイアナは、彼の顔を見つめた。
カイルは静かに彼女を見返していた。
「私………」
その先の言葉を、彼女は口にできなかった。
カイルが手を差し出した。
ダイアナは、その手を取った。
彼は彼女の手を握り、もう一度、島へと視線を向けた。
澄み切った空。
銀色に光る波。
水平線の向こうまで続く青い海。
そして、その海の先にある、帰るべき島。
カイルは、この日の海を一生忘れないだろうと思った。
「アステリアに、必ず帰る」
それだけだった。
けれど、ダイアナにはわかった。
それが、彼の答えなのだと。
彼は、海に出る船乗りとして約束したのではない。
これからの人生を、ともに生きる相手として約束してくれたのだ。
ダイアナは、彼の手を握り返した。
「ええ」
小さく答えると、彼女は微笑んだ。
カイルも、かすかに笑った。
二人は再び、アステリア島を眺めた。
冬の始まりの、良く晴れた朝。
海はどこまでも澄んでいた。
波の向こうに、二人が帰る場所がある。
カイルは、その景色を胸に刻んだ。
これから先、どれほど遠い海へ出ることになっても、きっとこの日の海を思い出すだろう。
冷たい風。
陽射しを受けて銀色に輝く波。
水平線の向こうまで広がる青。
そして、自分の手を握り返してくれたダイアナ。
彼が帰ると約束したのは、ただ島だけではなかった。
そこにいる彼女のもとへ。
彼女とともに生きる未来へ。
アステリアの海は、静かに二人を包んでいた。




