第40話 海の色
カイルは、ダイアナの言葉を何度も思い返していた。
――あなたを失いたくない。
あのときの彼女の顔も、声もはっきりと覚えている。
けれど、その言葉が何を意味するのか、カイルには分からなかった。
怪我が癒えるまで港の仕事は休むようにと、ダイアナから念を押されていた。
だから、ここ数日、港には顔を出していない。
港へ行けば、彼女に会うかもしれない。
そして、あの言葉の意味を確かめずにはいられなくなる気がした。
海を見に行こうかとも考えた。
海を眺めていれば、余計なことを考えずに済むかもしれない。
だが、結局、足は庭の作業場へ向かった。
そこには、トーマスと二人でゆっくりと造り続けている船がある。
海燕号。
木材を選び、船体の形を決め、少しずつ船らしくなっていく姿を眺めていると、気持ちが落ち着いた。
船造りには、考えなければならないことがいくらでもある。
少なくとも、手を動かしている間は、ひとつの答えの出ない問いに捕らわれずに済んだ。
そう思っていた。
けれど、鉋を動かす手を止めるたび、ダイアナの声が甦った。
あなたを失いたくない。
もし、それが自分の望む今だったなら。
そんな考えが浮かぶたびに、カイルは自分を戒めた。
期待してはいけない。
彼女はレオンを愛し、共に生きることを選んだ。
その選択を尊重したのは、ほかでもない自分だ。
今さら、彼女の何気ない一言に望みを託すわけにはいかなかった。
それでも、答えが欲しかった。
自分の胸に生まれた希望を、これ以上、見ないふりをすることは出来なかった。
―
ダイアナもまた、昨日の自分の言葉を考えていた。
カイルは、どう受け止めただろう。
心配していたのは本当だ。
彼を失うことが怖かったのも、嘘ではない。
けれど、それだけではなかった。
あの十日間、彼がいないことを寂しいと思った。
彼が帰ってきたと聞いたとき、胸の奥から安堵が込み上げた。
そして、怪我をしたと知った時、自分でも抑えられないほどの恐怖を覚えた。
それが何を意味するのか、もうわかっている。
問題は、それをどう伝えるかだった。
彼は長い間、自分の気持ちを胸にしまってきたのだろう。
レオンを選んだ自分を、カイルは一度も責めなかった。
彼がそばにいてくれたことを、ダイアナは知っている。
だからこそ、慎重にならなければならなかった。
寂しさから彼を求めているのではない。
レオンを失った穴を埋めたいのでもない。
それでも、いざ言葉にしようとすると、何もかもが難しく思えた。
考えれば考えるほど、胸の内に焦りが募った。
こんな自分は、らしくない。
ダイアナは小さく息を吐いた。
じっとしていても仕方がない。
カイルの様子を見に行こう。
彼が何を考えているのか、知りたいと思った。
―
トーマスの家に着くと、母屋には人の気配がなかった。
裏手から、木を削る音が聞こえてくる。
ダイアナはそちらへ回り、作業場の入口で足を止めた。
中には、まだ木の香りが濃く漂っていた。
壁際には道具が整然と並び、削り出された船材がいくつも置かれている。
天井近くから差し込む光が、細かな木屑を照らしていた。
船を造っていることは知っていた。
けれど、実際にこの場所へ来たのは初めてだった。
そして、その奥にカイルがいた。
片腕を庇いながら、船材に鉋を当てている。
「カイル!」
呼びかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
「ダイアナ?どうしたんだ」
「どうしたんだ、ではないわ。
休むように言ったのに、あなた全然休んでないわ」
思わず声が強くなった。
カイルは手を止め、少し困ったように笑った。
「大した仕事じゃない。無理はしていない」
「怪我をした人は、みんなそう言うのね」
ダイアナは彼の腕に目を向けた。
傷の具合を確かめたい気持ちを抑えきれずに、そばまで歩み寄る。
カイルはそんな彼女を見つめたあと、静かに鉋を置いた。
「わかった。今日はもうやめておく」
「本当でしょうね」
「ああ」
ようやく納得したらしいダイアナに、カイルは作業場の奥を示した。
「折角だから、見ていくか?」
そこには、船体の骨組みがあった。
「これが、海燕号なの?」
「ああ。まだまだ先は長いけどな」
ダイアナは近づき、ゆっくりと船を見上げた。
太い竜骨から伸びる肋材が、船の形を少しずつ描き始めている。
まだ海を渡る姿には程遠い。
それでも、これから板が張られ、帆が掲げられ、いつか波を切って進むのだと思うと不思議な感慨があった。
「立派な船になりそうね」
「そうなるといいな」
カイルは隣に立ち、彼女と同じ方向を見つめた。
二人でひとつの船を眺めている。
それは、これまでにも何度となくあった光景に似ていた。
港で船を見上げたときも、海岸で遠くの帆を追ったときも、二人はこうして同じものを見ていた。
けれど、今は隣にいる彼の存在が、いつもより近く感じられた。
「トーマスと二人で、ゆっくり造っているんだ」
「あなたが船を造るのは、似合っていると思うわ」
「そうか?」
「ええ。あなたは海が好きだもの」
カイルはわずかに笑った。
その言葉に、初めて会った日のことが蘇る。
初めてのアステリアの海。初めての港。航海を終えた船の点検をしていたら、
彼女は言ったのだ。
―良い船ね。
それから、彼の顔を見て
――あなた、船が好きなのね。
あのときの、海のように生き生きとした青緑の瞳。
カイルは、その瞳をみた瞬間から、彼女に心を奪われていた。
理由などなかった。
ただ、彼女を知りたいと思った。
その気持ちは、何年経っても変わらなかった。
―
しばらく、二人は黙って船を眺めていた。
先に口を開いたのは、カイルだった。
「ダイアナ」
「何?」
「昨日のことなんだが」
彼女の肩が、わずかに強張った。
「あなたを失いたくない、と言っただろう」
カイルは船から目を離さなかった。
「どういう意味なのか、ずっと考えていた」
その声は穏やかだった。
責める響きも、答えを急かす気配もない。
だからこそ、ダイアナはすぐに答えられなかった。
何を言えばいいのだろう。
あなたが好きなのだと。
これからも、あなたの隣にいたのだと。
そう告げてしまえば、二人の関係は変わる。
長い間、何も求めずにいてくれた人だ。
もし自分の言葉が彼に期待を抱かせ、そのあとで傷つけることになったら。
ダイアナは唇を開きかけて、閉じた。
その沈黙を、カイルは急かさなかった。
やがて彼は、船体の骨組みに視線を戻したまま言った。
「俺も、お前を大切に思っている」
ダイアナが顔を上げる。
「最初に会った時から、好きだった」
飾り気のない言葉だった。
カイルは、あの日のことを思い出していた。
海の光を映したような、青緑の瞳。
船を見つめる彼女の横顔。
その瞳に目を奪われた瞬間、自分はこの人を好きになるのだと、どこかでわかっていたような気がする。
彼はゆっくりと息を吐いた。
「だけど、これは俺の気持ちだ。
お前に何かを選ばせたいわけじゃない」
それだけは、伝えておきたかった。
彼女がレオンを選んだとき、カイルはその選択を尊重した。
彼女が幸せであることを願い、そのために自分にできることをしてきた。
それは、今も変わらない。
たとえ、自分の願いが叶わなくても。
ダイアナは、隣に立つカイルを見つめていた。
彼は、彼女を見ようとしなかった。
まるで、自分の言葉によって彼女を困らせたくないとでもいうように、ただ船を見つめていた。
その横顔を見て、ダイアナはようやく気づいた。
この人は、本当に自分の幸せを顧みず、私の幸せだけを願ってきたのだ。
自分が誰を選んでも、誰と生きていくことを決めても。
カイルは自分の気持ちを押し付けることなく、ただそばにいてくれた。
その優しさを、今になって初めて、正しく理解した気がした。
そして、ダイアナは思った。
もう、この人だけに自分の幸せを願わせてはいけない。
自分もまた、カイルの幸せを願っている。
彼の隣で、これからの人生を生きたいと願っている。
その気持ちを、今度こそ伝えなければならなかった。




