第39話 潮の変わり目
島の北側の海で訓練船が損傷したという知らせが、ダイアナの元に届けられた。
若い船員たちが多く、船が損傷するのはまれなことではない。
訓練船は北側の港に入港し、しばらく停泊することになった。
その際、若い船員を庇ったカイルが負傷したという。
ダイアナは、報告書を読み終えても、すぐには顔を上げられなかった。
「怪我の程度は?」
「詳しいことは、まだ分かっておりません。
知らせを運んできた船員によれば、意識はあり、歩くこともできたそうです。
ただ、手当を受ける必要があるとのことでした」
エドガーの声は落ち着いていた。
「北の港には医師がいるわね」
「はい。訓練船の到着に備えて、こちらからも連絡を入れます」
「お願い。必要なものがあれば、すぐに届けてちょうだい」
ダイアナはそう指示した。
頭領として、するべきことはわかっていた。
怪我人の状態を確認し、訓練船の安全を確保し、今後の航海について判断する。
カイルが負傷したからと言って、ほかの船員たちへの配慮を怠るわけにはいかない。
それでも、書類に向き直ったあと、文字がなかなか頭に入ってこなかった。
若い船員を庇った。
カイルらしいと思った。
彼はいつだって、経験の浅い者を見捨てない。
危険を見極めることと、仲間を守ること。
その両方を大切にする男だった。
だからこそ、今回も同じように行動したのだろう。
けれど、その結果、彼自身が傷ついた。
ダイアナは、指先で書類の端を押さえた。
もし、もっと深い傷を負っていたら。
もし、帰って来られなかったら。
そこまで考えて、彼女は目を閉じた。
考えたくなかった。
カイルを失う。
その言葉が、胸の中に落ちた途端、息が詰まるような感覚があった。
レオンを失ったときのことがよみがえる。
彼の手を握り、帰ってきた家で、もう二度とその声を聞けないと知ったとき。
何度願っても、彼が目を開けることはなかった。
あの悲しみを、もう一度味わいたいとは思わない。
もちろん、レオンとカイルは違う人間だ。
同じ悲しみが訪れると決まったわけでもない。
それでも、カイルがいなくなることを想像しただけで、ダイアナの心は乱れた。
彼がいない港。
彼の声が聞こえない日々。
何かを見つけた時、話したいと思っても、もう話すことができない。
それが、耐えがたいことのように思えた。
私は、どうしたらいいのだろう。
問いかけても、答えは出なかった。
ただ、彼に生きていてほしい。
無事に帰ってきてほしい。
その願いだけが、胸の奥に残っていた。
―
北の港から次の知らせが届くまで、ダイアナは何度も執務の手を止めた。
負傷した船員たちは全員、手当を受けているという。
船体にも損傷があり、修理と天候の回復を待ってから帰路につくことになった。
カイルについての詳しい報告は、まだなかった。
大きな怪我ではないと聞いていた。
それでも、安心することはできなかった。
夜、部屋に戻っても、窓の外に目を向けてしまう。
海はいつもと変わらない。
風が吹き、波が岸へ寄せては返している。
けれど、あの海の向こうにカイルがいると思うと、落ち着かなかった。
彼は、自分がどれほど誰かに大切に思われているか、知っているのだろうか。
ダイアナは、そこで思考を止めた。
誰か。
違う。
自分だ。
自分が、彼を失いたくないと思っている。
それを認めることに、もう迷いはなかった。
ただ、それをカイルに伝えることができるのかは、わからなかった。
―
数日後、南の港に訓練船が戻った。
ダイアナは知らせを受けると、仕事をエドガーに引き継ぎ、港へ向かった。
船はすでに岸に係留され、船員たちが帰還の作業を進めていた。
損傷した箇所には応急の修繕が施されている。
カイルは、船のそばに立っていた。
遠目にも、彼が自分の足で立っているのがわかった。
その姿を見た瞬間、ダイアナの胸に張り詰めていたものがほどけた。
歩けている。
顔色も、思ったほど悪くない。
彼女は、いつの間にか早足になっていた。
カイルがこちらに気づいた。
「ダイアナ」
いつもの声だった。
それを聞いただけで、胸の奥が熱くなった。
「怪我をしたと聞いたわ」
「ああ。たいしたことはない」
カイルは、少し肩をすくめた。
「ネイサンが足を滑らせた。船の揺れもあって、避けきれなかった。
幸い、深い傷じゃない。もう動ける」
彼は腕を少し動かして見せた。
包帯が巻かれていたが、顔には苦痛の色もない。
「訓練船は、修理すれば問題ない。
無事に帰って来れた」
淡々とした報告だった。
任務の経過を報告する、その声はいつもと変わらない。
ダイアナは、彼の言葉を聞いていた。
船は無事だった。
若い船員も助かった。
カイルの怪我も、大事には至らなかった。
本当に良かった。
心からそう思った。
けれど、安堵した途端、別の感情が込み上げてきた。
どうして、そんなふうに話せるのだろう。
自分が怪我したことを、まるで些細な出来事のように語る。
彼にとっては、そうなのかもしれない。
任務を果たし、仲間を守り、無事に帰ってきた。
それで、十分なのだろう。
けれど、ダイアナにとっては違った。
彼が帰ってこないかもしれないと思ったとき、どれほど恐ろしかったか。
彼を失うことなど、考えたくもなかった。
「……ダイアナ?」
カイルの声に、彼女は顔を上げた。
彼は、彼女の様子を不思議そうに見ていた。
いつもな、ら任務の報告を聞いたあと、必要な質問をし、状況を確認する。
頭領としての判断を下す彼女は、冷静で、的確だった。
けれど、今日は違う。
彼の怪我について話している間、彼女はほとんど口を開かなかった。
視線を向けているのに、何かを言おうとしては、言葉を飲み込んでいる。
カイルは、わずかに眉を寄せた。
「どうした?」
ダイアナは答えなかった。
言わなければならないと思った。
今、伝えなければ、また何も言えなくなる。
カイルが自分の気持ちを押し付けないようにしてきたのと同じように、
自分もまた、彼に何も求めずにいた。
彼がいつもそばにいることを、当たり前のように受け入れていた。
でも、当たり前ではないのだ。
彼は海へ出る。
危険な仕事を引き受ける。
自分の意志で生きている。
いつもでも、ここにいてくれるとは限らない。
ダイアナは、彼を見つめた。
「カイル」
「なんだ」
彼の琥珀色の目が、まっすぐに彼女を見返した。
「私は………」
言葉が喉につかえた。
こんなことを言っていいのだろうか。
彼を困らせるかもしれない。
今までの関係が変わってしまうかもしれない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
「あなたを失いたくない」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
けれど、言葉にした瞬間、胸の奥にあった思いが、はっきりと形を持った。
カイルは、動かなかった。
ただ、彼女を見ていた。
ダイアナは、それ以上何も言えなかった。
自分がなぜそう思うのか。
彼をどれほど大切に思っているのか。
本当は、もっと伝えたいことがあった。
けれど、この一言が精いっぱいだった。
彼女は小さく息を吸い、いつもの頭領の顔を取り戻そうとした。
「……報告は明日、改めて聞くわ。
しばらく静養してちょうだい」
そう言って、ダイアナは踵を返した。
カイルの返事を待たずに、港の人混みへと歩いていく。
彼女の背中は、いつもと同じようにまっすぐだった。
けれど、カイルには、彼女が逃げるように去っていったように見えた。
―
しばらく、カイルはその場に立ち尽くしていた。
潮風が頬を撫で、船では帰還した船員たちが忙しく働いている。
港はいつも通りだった。
ただ、彼の中では、何かが変わってしまっていた。
あなたを失いたくない。
その言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
ダイアナは、これまでにも彼の無事を願ってくれた。
海へ出る時には気をつけてと言い、帰ってくればお帰りなさいと迎えてくれた。
けれど、今日の言葉は違った。
彼女の声には、抑えきれない感情が滲んでいた。
何かを恐れているような、何かを必死に伝えているような。
カイルは、彼女の顔を思い返した。
最近、ダイアナの様子が変わっていることには気づいていた。
自分が島を離れると伝えた時、彼女はいつも以上に長く海を眺めていた。
帰還した時には、思いがけないほど早く港へ来ていた。
そして、今日。
怪我をしたと聞いて、彼女は何を思ったのだろう。
カイルは、包帯を巻かれた腕を見下ろした。
大した怪我ではなかった。
若い船員を庇ったことも、後悔していない。
あの場では、それが最善だと判断したのだ。
けれど、もし自分がもっと深い傷を負っていたら、ダイアナは同じ言葉を口にしただろうか。
それとも、あれはただ、長い時間を共に過ごしてきた友人への気遣いだったのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、彼女の言葉だけが残っている。
カイルは、ずっとダイアナの幸せを願ってきた。
彼女がレオンを選んだ時も、その選択を尊重した。
レオンを亡くしたあとも、彼女の悲しみにつけ込むことはしたくなかった。
彼女が自分の人生を選ぶとき、そこに自分の気持ちを押し付けたくなかったのだ。
それは今も変わらない。
けれど、もし、ダイアナが自分を求めているのだとしたら。
もし、彼女の言葉に、自分がずっと望んできたものが含まれているのだとしたら。
カイルは、胸の奥に生まれた期待を、すぐには受け入れられなかった。
期待して、違っていたら。
彼女がただ、自分を失うことが怖かっただけなら、そのとき、自分は今までどおりに彼女の隣にいられるだろうか。
カイルは目を閉じた。
今までの関係を変えるのか。
それとも、このままの関係を続けたいのか。
本当は、答えなどずっと前から決まっていた。
彼は、ダイアナと生きていきたかった。
それでも、彼女が同じ未来を望んでいると確信できない限り、自分からは手を伸ばすことはできなかった。
港の向こうに、ダイアナの姿はもうなかった。
カイルはしばらく海を眺めていた。
潮はいつの間にか向きを変えていた。
海面を渡る風が変わり、波が岸へ寄せる角度がわずかに違っている。
その変化に気づいたとき、カイルはようやく歩き出した。
彼女の言葉を、どう受け止めればいいのか、今はまだ、答えが見つからなかった。




