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第38話 隣にいる人

カイルが戻ってきたのは、予定通り十日目の午後だった。


港の外に船影が見えたと知らせを受け、ダイアナは執務の手を止めた。

すぐに港へ向かおうとして、足を止める。

なぜ、自分が急いでいるのだろう。


帰還の報告を受けるのは頭領として当然のことだ。

護衛任務の結果を確かめ、商船が無事に戻ったtことを確認しなければならない。

そう考えてから、ダイアナは小さく息をついた。

それだけではないことくらい、自分でもわかっていた。


港に着くと、船はちょうど岸へ寄せられるところだった。

甲板では船員たちが忙しく働いている。

その中に、カイルの姿があった。


日焼けした顔。

風に乱れた髪。

船員に指示を出す、良く通る声。


いつもと変わらない。

その姿を見た瞬間、ダイアナの胸にあったものが、ゆっくりとほどけていった。


無事だった。

そのことが、何よりも嬉しかった。

やがてカイルが岸に降りてきた。

ダイアナに気づくと、少し驚いたように目を見開き、それから笑った。


「ただいま」

「おかえりなさい。

 無事でよかったわ」

「ああ。海況には恵まれたし、

 商船も全隻、無事に送り届けることができた」


彼は航海の様子を簡潔に話した。

危険な海域では予定していた航路を変更したこと、海賊らしい船影は見えたものの、

接触することなく切り抜けられたこと。

ダイアナは話を聞きながら、何度も頷いた。

聞きたいことは、ほかにもあった。


疲れていないか。

危険な目に遭わなかったか。

食事はきちんと取れたのか。


けれど、どれも言葉にはならなかった。


「詳しい報告は明日でいいわ。

 今日はゆっくり休んで」

「そうさせてもらう」


カイルは笑った。

その笑顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。

ダイアナは、ようやく自分の中にあるものから目をそらさなくなっていた。


―

翌日の午後。


二人は海岸を歩いていた。

特別な約束をしたわけではない。

カイルが船の状態を確認したあと、海の様子を見に行くと聞き、ダイアナも一緒に歩きたいと思った。

それだけだった。


波は穏やかで、風も強くない。

カイルは海を眺め、ダイアナはその隣に立っていた。

二人の間に会話はなかった。

沈黙が気まずいわけではない。

何か話題を探す必要もなかった。


十日間、ダイアナは何度もこの海を眺めた。

カイルが今どこにいるのか、無事に航海しているだろうかと考えた。

彼がいない港を歩き、いつもなら聞こえてくる声がないことを寂しく思った。


帰ってきて欲しいと願った。


そして、今。

彼はここにいる。

隣で同じ海を眺めている。

それだけで、心が静かになっていく。


ダイアナは横目でカイルを見た。

彼は遠くの波を見つめていた。

海を読むときの真剣な表情だった。

風の変化を確かめるように顔を上げ、やがて何かに納得したように小さく頷く。


その横顔を見ているうちに、初めて出会った日の記憶が蘇った。


「あなた、船が好きなのね」


そう言ったときの、少し戸惑ったような顔。

夜の海を二人で眺めたこと。

レオンを亡くしたあと、悲しみに沈んでいた自分の隣に、何も言わずに立っていてくれたこと。


思い返せば、いつも彼はそこにいた。

けれど、決して彼は踏み込んではこなかった。


悲しみを忘れろとも、前を向けとも言わなかった。

彼女が話せば黙って聞き、黙っていれば、同じように黙っていた。


その距離が心地よかった。

自分を急かさず、何かを求めず、ただ隣にいてくれる。


ダイアナは、ゆっくりと息を吸った。


私は、この人が好きなんだ。

思いがけないほど、静かな気づきだった。

胸が高鳴るような激しさではない。

突然、世界が変わって見えるわけでもない。


ただ、ずっとそこにあったっものに、ようやく名前をつけた気がした。

カイルが隣にいてくれることに、安心している。

彼と話すことが好きで、笑顔を見ると嬉しくなる。

いないと寂しい。

帰ってきてくれると、こんなにもほっとする。


好きなのだ。


ダイアナは、その気持ちを否定しなかった。

レオンを愛した時とは違う。

レオンとは、互いのことを知りたいと思った。

彼の考えに触れ、彼が見てきた世界を知り、二人で未来を築きたいと願った。


その愛は、今も大切なものとして残っている。


カイルへの気持ちは、それとは違う形をしていた。

気づけば、隣にいた人。

そばにいることが自然で、離れて初めて、その存在の大きさが分かった人。

そして、これからも隣にいて欲しいと思う人。


ダイアナは、海へ視線を戻した。


これまで、カイルのことを何度も考えていたはずなのに、彼を好きだとは思わなかった。

友人として信頼しているから。

島のために働いてくれる大切な人だから、

長い時間を共に過ごしてきたから。


そういう理由を並べれば、説明できると思っていた。

けれど、今はもう、それだけではないとわかる。


彼が帰ってきたことが嬉しい。

隣に立っていることが嬉しい。

この静かな時間を、いつまでも過ごしていたいと思う。


それが、自分の気持ちだった。

ただ、一つだけ、分からないことがあった。


カイルは、何を望んでいるのだろう。

彼は何も求めない。


ダイアナがレオンを選んだ時も、何も言わなかった。

その後も変わらず島に残り、彼女を支え、必要な時には隣にいてくれた。


それが友情なのか、長年の信頼なのか、それとも別の何かなのか。

ダイアナにはわからなかった。

彼が自分を好きだと、考えたこともなかったわけではない。


けれど、確かなことは何もない。

カイルは、彼女に何も求めないのだから。


「どうした?」


ふいに声をかけられ、ダイアナは顔を上げた。

カイルがこちらを見ていた。


「何か考え事か?」

「ええ。少しね」

「そうか」


彼は、それ以上尋ねなかった。

いつものことだった。

そのさりげなさに、ダイアナは笑みを浮かべた。

今はまだ、何も言えない。

けれど、もう一度、彼と向き合いたいと思った。


―

数日後、ダイアナはトーマスの家を訪れた。


トーマスは、作業場から戻るところだった。

食卓には簡単な食事が用意され、窓の外には夕暮れの海が見えている。


「どうした」


幼い頃から聞きなれた声だった。

ダイアナは椅子に腰を下ろしたが、すぐには話し始めなかった。

トーマスは急かさず、向かいに座った。

この人には、隠し事ができない。


父が亡くなったあと、何度もそう思った。

けれど、トーマスは彼女の心を無理に開こうとはしなかった。

話したくなるまで待ってくれる。

そのことを、ダイアナは誰よりもよく知っていた。


「トーマス」

「なんだ」

「私、カイルが好きなのかもしれない」


口にした途端、胸の奥が少しだけ軽くなった。

トーマスは、すぐには答えなかった。

驚いた様子もなかった。

ただ、ダイアナの顔を静かに見ていた。


長い年月をかけて、彼は二人を見守ってきた。

カイルがダイアナを見る目も、彼女のそばにいる時の声も、言葉にしなかった思いも、トーマスは知っていた。


そして、ダイアナがレオンを選んだ時、カイルが何も言わずに自分の道を選んだことも。

彼がどれほど彼女を大切にしているか、トーマスは知っていた。


だからこそ、今の言葉を聞いても、軽々しく喜ぶことはできなかった。

ダイアナが気づいた気持ちが本物であるように。

カイルが、それを信じて受け取れる日が来るように。

そう、願うばかりだった。


「そうか」


トーマスは、ようやくそれだけ言った。

ダイアナは少し困ったように笑った。


「それだけ?」

「ほかに何を言えばいい」

「……わからないわ」

「お前がわからないことを、わしに聞かれても困る」


その言い方があまりにもいつも通りで、ダイアナは思わず笑った。

トーマスも、口元を緩めた。

しばらくして、彼は静かに言った。


「ダイアナ。

 自分の気持ちがわかったのなら、今度はカイルときちんと向き合ってやれ」


彼女は顔を上げた。


「向き合う……」

「あいつが何を考えているかは、あいつにしかわからん。

 お前がどれだけ考えても、答えは出んだろう」


トーマスは、窓の外へ目を向けた。


「カイルは、自分の気持ちを押し付けるような男じゃない。

 だからと言って、何も望んでいないと決めつけるな」


ダイアナは黙って聞いていた。


「お前が何を望んでいるのか、あいつとどうしたいのか。

 それを自分で確かめたうえで、あいつの気持ちを聞いてやればいい」


トーマスは彼女を見た。


「どちらか一人だけが、相手を思っていればいいというものでもないだろう」


その言葉は、ダイアナの胸に静かに落ちた。

カイルは何も求めない。

だから、彼の気持ちはわからない。

けれど、それを理由に、彼の心を知ろうとしないままでいていいわけではないのだ。


「……そうね」


ダイアナは頷いた。

トーマスは、それ以上何も言わなかった。

夕暮れの光が、食卓の上に長い影を落としていた。

ダイアナは、しばらくその光を眺めていた。


自分がカイルを好きだということ。

彼が隣にいてくれることに、安心しているということ。

これからも、彼と同じ時間を過ごしたいと思っていること。

それらは、もう否定する必要のない気持ちだった。


あとは、彼の気持ちを知ること。

そして、自分が何を望んでいるのかを、きちんと伝えること。


簡単ではないだろう。

それでも、今度は目をそらしたくなかった。


「ありがとう、トーマス」

「ああ」


トーマスは、いつものように短く答えた。

ダイアナは立ち上がり、扉へ向かった。

外には、夜の海が広がっている。

その海の向こうではなく、今はすぐ近くに、カイルがいる。


彼がいる港へ行こう。

何かを告げるには、まだ少し勇気が足りない。

けれど、彼の顔を見たいと思った。

今度は、ただそこにいる彼を眺めるだけではなく、自分の気持ちを胸に置いて、彼の隣に立つために。

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