第37話 十日の不在
海賊が出没する海域で、商船が襲われたという報せが届いたのは、朝の政務が始まる前だった。
襲われた船はアステリアと交易のある商人の持ち船で、積み荷の一部を奪われ、乗組員にも負傷者が出たという。幸い船は沈まず、どうにか近隣の港へ逃げ込んだが、船主たちは今後の航海に不安を募らせていた。
問題の海域は、暗礁が多いうえに潮流が複雑だった。
沿岸の地形を知らない船には危険が大きく、海賊たちはそうした条件を利用して商船を襲っているらしい。
その日の昼前、護衛任務についての要請が届いた。
アステリアと交易を続けている商人たちが、数隻の商船を目的地まで送り届けるため、護衛船を必要としていた。護衛を担う船には、危険な海域での判断に長けた船長と、十分な経験を持つ乗組員が求められる。
候補として名前が挙がったのは、カイル・ハーグレイブだった。
王立海軍での経験を持ち、海域の状況を読む力に優れ、船団の護衛についても知識がある。
現在は若い船乗りたちの指導に力を注いでおり、自ら航海に出る機会は以前より少なくなっていたが、
だからといって、その技量が衰えたわけではなかった。
ダイアナは要請書に目を通し、添えられた航路図を確かめた。
「カイルが適任だと思うわ」
エドガーが頷いた。
「私もそう考えます。海軍での経験に加え。現在のアステリアの船と船乗りたちを良く知っています。
彼なら、護衛船の指揮を任せられるでしょう」
「ただし、危険な海域であることに変わりはない。船と乗組員の準備は十分に整えてもらって。
護衛船だけではなく、商船側にも航行中の規律を守らせてちょうだい」
「承知しました」
ダイアナは承認の署名をした。
頭領として、必要な判断を下しただけだった。
カイルが適任であることはわかっている。
危険を承知で任務を引き受けることも、彼なら慎重に考えた上で決めるだろう。
その夕刻、カイル本人から出航の日取りが伝えられた。
船団は準備が整い次第、二日後に出航する。
天候に大きな変化がなければ、任務は十日ほどで終わる見込みだった。
「十日」
ダイアナは、報告を聞いてそう繰り返した。
「海況次第では、多少延びるかもしれない」
カイルはいつもと変わらない口調だった。
「わかったわ。気を付けて」
「ああ」
短い返事を交わし、彼は港へ戻っていった。
そのくらいの時間なら、これまでに何度となく過ごしてきた。
カイルが島を離れるのは久しぶりだったが、特別なことではない。
彼には彼の仕事があり、海へ出る理由がある。
そう理解していた。
それなのに、彼の背中が見えなくなってからも、ダイアナはしばらく扉のそばに立っていた。
―
出航の日、港には早くから人が集まっていた。
護衛船の甲板では、乗組員たちが最後の確認を進めている。
カイルは航路図を広げ、船長や航海士とともに、風向きと潮の具合を確かめていた。
若い船乗りたちを教えている時とは違う、海軍時代を思わせる張り詰めた横顔だった。
ダイアナは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
彼が海へ出るのは、いつ以来だろう。
このところ、カイルは港にいることが多かった。
若い船乗りの相談に乗り、船の修繕に意見を出し、時には自ら手を貸すこともある。
彼がそこにいるのは、いつの間にか当たり前になっていた。
けれど、カイルはもともと海の男だった。
広い海を知り、危険を知り、それでも船を進めることを選んだ人だ。
出航の準備が整うと、彼は船員たちに最後の指示を与えた。
それから岸へ目を向け、ダイアナを見つけた。
「行ってくる」
「ええ。無事に戻ってきて」
カイルはわずかに笑った。
「そうする」
彼が船に乗り込むと、係留索が解かれた。
帆が風を受け、船がゆっくりと岸を離れていく。
ダイアナは、その船影を見送った。
船が港の外へ出るまで、カイルの姿を目で追っていた。
やがて船は沖へ進み、白い帆だけが海の上へ残った。
彼が島を離れた。
ただそれだけのことなのに、港の景色が少し違って見えた。
―
翌日からも、ダイアナの日常は変わらず続いた。
朝には政務があり、氏族長たちとの会議があり、商人からの報告に目を通す。
港へ行けば船の出入りがあり、島の人々はそれぞれの仕事に励んでいた。
カイルがいなくても、アステリアは動いている。
それは、当然のことだった。
けれど、港を歩くたびに、彼の姿を探している自分に気づく。
船着き場のそばで若い船乗りたちが操船の練習をしている。
いつもなら、その様子を見ながら助言をしているカイルがいるはずだった。
修繕中の船のそばでは、船大工が何やら困った顔で腕を組んだいる。
彼なら、船体をひと目みただけで、どこに問題があるか見当をつけるかもしれない。
そんなことを考えてから、ダイアナは目を伏せた。
いないのだから、仕方がない。
わかっているのに、いつも彼がいた場所へ、視線が向いてしまう。
四日目、船大工の作業場を訪れると、トーマスが職人と話をしていた。
「進み具合はどう?」
ダイアナが尋ねると、トーマスは船体を見上げたまま答えた。
「順調だ。
少々手間はかかるがな」
彼は幼い頃から、ダイアナに海のことを教えてきた。
父を亡くしてからも、変わらず彼女を見守り、必要な時には手を貸してくれた。
ダイアナにとって、トーマスは父親のような存在だった。
「カイルがいれば、意見を聞けたのに」
何気なく口にしてから、ダイアナは自分の言葉に気づいた。
トーマスは一度だけ彼女を見たが、何も言わなかった。
「まあ、あいつが戻ってきたら、また見てもらう」
そう言って、再び船体に目を戻した。
そのさり気なさに、ダイアナはほっとした。
自分でも、なぜこんなことを口にしたのかわからなかった。
船のことなら、ほかにも詳しいものはいる。
カイルがいないからと言って、何もかもが滞るわけではない。
それでも、彼ならどうするだろうと思ってしまう。
仕事のことだけではなかった。
食事の席で、ふと彼が以前話していた異国の港を思い出すことがあった。
海岸を歩けば、潮の流れについて説明してくれた声がよみがえる。
何かを見たとき、聞いたとき、カイルならどう思うだろうと考えている。
それが、いつの間にか習慣になっていた。
―
六日目の夜、ダイアナは海の見える窓辺に座っていた。
開いた本の文字を目で追っていたが、いつしか読むのを止めていた。
初めてカイルに会った日のことを思い出していた。
外交使節の船が港に入ってきた日だった。
ダイアナは船を眺め、航海を終えた船の船体を確認している男に声をかけた。
「良い船ね」
カイルは少し意外そうに彼女を見て、それから船について話し始めた。
船体の造り、帆の扱い、風を受けた時の動き。
彼の言葉には、船への深い理解と愛着があった。
ダイアナはその横顔を眺めていた。
「あなた、船が好きなのね」
そう言った時、カイルは一瞬、言葉を止めた。
海の上では迷いなく指示を出す男が、ほんの少しだけ戸惑ったように見えた。
それから、照れたような、嬉しそうな笑みを浮かべた。
あの顔を、今でも覚えている。
なぜ、そんな細かなことまで覚えているのだろう。
ダイアナは本を閉じた。
カイルと初めて会った日のことを思い出すのは、久しぶりだった。
彼と過ごした時間は、いつも穏やかだったわけではない。
港のことで意見が食い違ったこともあったし、互いに忙しく、会わない日もあった。
それでも、彼といると、気負わずにいられた。
以前、夜の海を二人で眺めたことがある。
その日は、王都との交易について氏族長たちとの緊張する会議があり、ダイアナはひどく疲れていた。
カイルは理由を尋ねず、ただ隣に立っていた。
二人で、ただ海を眺めていた。
それだけの夜だった。
けれど、部屋へ戻るころには、胸にたまっていた重さが少し和らいでいた。
カイルは慰めようとしたわけでも、励まそうとしたわけでもない。
ただ、隣にいてくれた。
あの時間が好きだった。
そう思った瞬間、ダイアナは息を止めた。
好き。
その言葉が、思いがけず鮮明に胸に残った。
―
レオンのことを思い出すことも、もちろんあった。
本を読めば、彼と過ごした日々がよみがえる。
いつか一緒に旅をし、見知らぬ土地を歩き、その記録を書こうと約束したこと。
年を重ねても、隣で同じ本を読んでいようと話したこと。
彼を愛した気持ちは、今も彼女の中にある。
レオンと築いた人生は、失われたからといって消えるものではなかった。
だからこそ、カイルのことを考えている自分に戸惑いがあった。
レオンを忘れたわけではない。
彼の代わりをさがしているわけでもない。
それなのに、カイルがいないことが寂しい。
彼の声が聞こえないことに物足りなさを感じ、港で姿を見つけられないことに落ち着かなくなる。
レオンを亡くしたあとも、カイルは変わらなかった。
彼女の悲しみを無理に取り除こうとせず、慰めの言葉を並べることもなかった。
ただ、以前と同じように接してくれた。
港へ行けば、そこにいた。
話したければ、話を聞き、黙っていたければ、無理に言葉を求めなかった。
ダイアナが頭領として日々を送れるようになったのは、自分自身による強さによるものだけではない。
そばにいてくれた人たちがいたからだ。
その中でも、カイルは特別だったのだろうか。
彼がいると、ほっとする。
彼が笑うと、自分も笑いたくなる。
何かを見つけたとき、彼に話したいと思う。
そして、彼がいないことを、こんなにも気にしている。
ダイアナは窓の外を見た。
夜の海は静かだった。
沖には、月明りが細く伸びている。
今、この海のどこかをカイルが航海している。
風を読み、潮を見極め、船団を守りながら。
どうか無事で。
そう願った時、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
彼に帰ってきて欲しい。
それは、島の船乗りたちの無事を願う気持ちと同じなのだろうか。
それとも、自分が会いたいと思っているからなのだろうか。
ダイアナは、すぐには答えを出せなかった。
ただ、カイルが帰ってきたら、また話がしたいと思った。
港で彼の姿を見つけ、いつものように声をかけたい。
彼が海で見たものを聞きたい。
彼の笑顔を見たい。
その願いは、思っていたよりもずっと強かった。
―
九日目、交易船団が危険な海域を抜け、帰路についたという知らせが届いた。
報告を読み終えたダイアナは、知らず知らずのうちに肩の力を抜いていた。
「良かった」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
翌朝、港へ行くと、トーマスが船着き場に立っていた。
「明日には、戻る」
「ええ。聞いたわ」
ダイアナは海を見た。
「無事でよかった」
トーマスは、何も言わずに彼女の隣に立った。
幼い頃から知っている横顔だった。
父を亡くしたときも、島を背負うことを決めたときも、ダイアナはいつも自分で考え、自分で答えを見つけてきた。
今も、きっとそうするのだろう。
トーマスは、海の向こうへ視線を戻した。
あの男がどれほど長く、どれほど静かに、ダイアナを思ってきたかを知っている。
だからと言って、彼女にその気持ちを教えるつもりはなかった。
それはカイル自身が口にすることであり、ダイアナ自身が見つけることだった。
ただ、願わずにはいられなかった。
いつか二人が、同じ海を見ながら、同じ未来を描ける日が来ることを。
ダイアナは、まだ沖を見つめていた。
明日にはカイルが帰ってくる。
そのことが、こんなにも待ち遠しい。
彼がいない十日間で、何かが変わったのだろうか。
それとも、今まで気づかずにいたものが、ようやく見え始めただけなのだろうか。
答えは、まだわからない。
けれど、ダイアナは思った、
彼が帰ってきたら、今度は自分から声をかけよう。
何を話すかは、そのときに考えればいい。
ただ、もう一度彼の隣に立ちたかった。
そして、同じ海を眺めながら、今度は自分の心が何を望んでいるのか、少しだけ考えてみたいと思った。




