↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/73

第36話 それぞれの選択

ヴィクトル・ヴェルナーが再びアステリアを訪れたのは、北風が少しずつ冷たさを増す頃だった。


今回は一週間の滞在を予定しているという。

交易に関する話し合いを続けるためでもあったが、彼は到着すると、まずダイアナに面会を申し入れた。


「もう一度、あなたとお話ししたいと思っておりました」


その言葉に、ダイアナは静かに頷いた。

彼と会うことに、ためらいはなかった。


ヴィクトルは誠実な人間だった。

仕事に対する姿勢も、アステリアへの理解も、前回の会見で十分に伝わっていた。

彼を知ろうとすることは、ダイアナ自身にとっても必要なことだった。


ただ、彼女の心の奥には、まだ答えの出ない問いが残っていた。


この人と結婚することはできる。

けれど、私はこの人と生きていきたいのだろうか。


―

ヴィクトルは、ダイアナが思っていた以上に興味深い話をする男だった。

若い頃から父親に連れられ、各地の交易港を訪れていたという。

王都から遠く離れた南方の国では、雨期になると川が道となり、船でしかたどり着けない町がある。

さらに東の国では、香辛料だけでなく、見たこともない染料や織物が取引されていた。


ダイアナがまだ訪れたことのない異国の話だった。

彼は土地の風景だけでなく。そこに暮らす人々の習慣や、商人たちがどのように信頼を築いていたかまで覚えていた。


「その国では、商談の前に何時間も食事を共にするそうです。

 条件を詰めるのは、それからだとか」

「それでは、話がまとまるまでに何日もかかりそうね」

「実際、そうなることもあるようです。

 ただ、相手がどんな人間なのかを知る時間を惜しまないのでしょう」


ヴィクトルは杯を傾けた。


「急いで結んだ約束ほど、後になって思いがけない問題が出てくるものですから」


ダイアナは笑った。


彼の話には、彼自身の考えが良く表れていた。

華やかな冒険譚を語るというより、旅先で見たものから何を学んだのかを話す人だった。

食事を共にするうちに、二人の間には自然な会話が生まれた。


王都の商家で育つこと。

家族との関係。

仕事を任されるようになった頃の苦労。



ヴィクトルは、自分の成功を誇ることも、苦労を大げさに語ることもなかった。

ダイアナは彼と話すことを楽しんでいた。

少なくとも、彼と一緒にいる時間が苦痛だったことは一度もない。


それなのに、食事が終わり、彼と別れたあとには、いつも小さな違和感が残った。

楽しかったはずなのに、何かを置き忘れてきたような気がする。

その正体を、彼女はまだ見つけられなかった。


―

滞在四日目の午後、二人は海辺を歩いた。


ヴィクトルが見たいと言ったのは、港から少し離れた、岩の多い海岸だった。

潮が引き始め、波打ち際には濡れた石が並んでいる。


彼は海を眺めながら、交易船の航路について話した。

アステリアの船がどの季節にどこへ向かい、どの港で荷を積みかえれば効率が良いか。

冬の危険を減らすために、船の出航時期を調整する案も考えているという。


「あなたが頭領として認めてくださるなら、こちらへ移り住んだ後も、

 交易に関わる仕事を続けたいと思っています」

「あなたの仕事は、どうするの?」

「兄が家業を継ぎます、

 私がいなくなっても、ヴェルナー家は続いていきます」


ヴィクトルは、海から目を離さなかった。


「私も、自分の役割を持って生きていきたいのです。

 あなたの夫というだけではなく、アステリアの一員として」


その言葉は、ダイアナが望んでいたものに近かった。


彼は彼女の地位を奪おうとしていない。

彼女のためにすべてを捨てるといった大げさな約束もしない。

自分の人生を持ったまま、アステリアで新しい役割を築こうとしている。


結婚相手として考えるなら、申し分のない人だった。


「結婚したあと、あなたはどんな暮らしを望んでいますか」


ヴィクトルに尋ねれられ、ダイアナは歩みを緩めた。


「どんな暮らし……」

「私は、あなたが頭領として務めを果たすことを当然だと考えています。

 仕事を理由に私に遠慮する必要もありません。

 ただ、私たちが夫婦として過ごす時間も、大切にできればと思っています」


彼は、彼女を見た。


「あなた自身は、何を望んでいらっしゃいまか」


ダイアナは、すぐには答えられなかった。

頭領として望むことなら、いくつも挙げられる。


島の独立を守ること。

交易を発展させ、次の世代へアステリアを引き継ぐこと。


けれど、一人の女性として望む暮らしを尋ねられると、言葉が見つからなかった。

ヴィクトルとの生活を想像してみる。

食卓を囲み、互いの仕事について話し、時には意見を交わす。

彼は彼女を尊重し、必要な時は力になってくれるだろう。


きっと、穏やかで堅実な暮らしになる。

それは悪い未来ではなかった。

それでも、そこに自分がいる姿を思い描こうとすると、心のどこかが動かなかった。


ふと、別の光景が浮かんだ。


港でカイルと並んで歩いた日のこと。

船の修繕について話していたはずが、いつの間にか海の向こうの国の話になり、最後には若い船員の失敗を笑い合っていた。

何かを決めるためでもなく、何かを得るためでもない。

ただ、話していることが楽しかった。

ダイアナは、胸の奥に生まれた感覚を押し戻した。


今はヴィクトルと話しているのだ。

彼には誠実に向き合わなければならない。


「まだ、うまく答えられないわ」


彼女は正直に言った。

ヴィクトルは、しばらく彼女を見つめていた。


「そうですか」


責める様子はなかった。

ただ、その目には、彼女の迷いを理解した者の静けさがあった。


―

翌日、ヴィクトルは改めてダイアナに時間を求めた。

二人は客間で向かい合った。

窓の外には、風に揺れる木々が見える。


「私は、あなたとの結婚を真剣に考えています」


ヴィクトルは、落ち着いた声で話し始めた。


「あなたを尊敬していますし、アステリアで暮らすことにも、私なりの意味を見出しています。

 あなたとなら、互いの仕事を尊重しながら生活を築いていけると思っています」


ダイアナは、黙って聞いていた。


「ですが、あなたはまだ迷っていらっしゃる」


彼女は目を伏せた。


「……ええ」

「私に何か不足があるのでしょうか」

「いいえ。あなたに問題があるわけではないの」


ダイアナは、言葉を探した。


「あなたは誠実な方だし、私はあなたと話す時間を楽しんでいるわ。

 アステリアのことも、よく考えてくださっている。

 あなたと結婚することは、きっとできると思う」


そこまで話して、彼女は一度息をついた。


「でも………」


その先が続かなかった。

ヴィクトルは急かさなかった。


「私が、あなたと生きていきたいと思っているのか、それが分からないのですね」


ダイアナは、顔を上げた。

彼が代わりに言葉にしてくれたことで、ようやく自分の迷いが形になった気がした。


「ええ」


ヴィクトルは、わずかに視線を落とした。


「分かりました」


その声に、失望を隠そうとする響きはあった。

彼もまた、この縁談を軽く考えていたわけではないのだ。

それでも、彼は静かに続けた。


「私は、あなたに選んでいただきたいと思っていました。

 頭領として私が必要だからではなく、あなた自身が、私と暮らしたいと

 思ってくださることを望んでいました」


ダイアナは、唇を結んだ。


「……ごめんなさい」

「謝らないでください」


ヴィクトルは首を横に振った。


「あなたが、心のない結婚を避けようとしているのなら、それは間違ったことではありません。

 私も、あなたに義務だけで選ばれたいわけではないのです」


彼は、ほんの少し苦笑した。


「商売では、条件が合えば契約を結ぶこともできます。

 しかし、結婚まで同じように考えるべきではないのでしょう」


その言葉に、ダイアナの胸が痛んだ。

彼は、彼女の迷いを理解してくれた。

だからこそ、自分が彼を選べないことを申し訳なかった。


「ヴィクトル。あなたなら、きっと良い夫になると思うわ」

「そう言っていただけるのは光栄です。ただ、私が良い夫になれるかどうかと、

 あなたが私を夫に望むかどうかは、別のことです」


彼は立ち上がった。


「この縁談は、ここで終わりにしましょう。

 私からも、家にはそう伝えます」


ダイアナも立ち上がり、彼に向き合った。


「ありがとう」

「こちらこそ、正直に話してくださってありがとうございます」


ヴィクトルの滞在は、予定通り一週間で終わった。


彼が島を離れる朝、ダイアナは港まで見送りに出た。

彼は最後まで礼儀正しく、交易については今後も互いに利益のある関係を築きたいと告げた。

船が港を離れていく。

ダイアナは、その姿が遠ざかるまで見送った。

自分は、間違ったことをしたわけではない。

そう、思った

けれど、胸の奥に残る違和感は、まだ消えていなかった。


―

ヴィクトルとの縁談がなくなったことは、数日のうちにエドガーの耳にも届いた。

そして、その話は港にも伝わった。


カイルが知ったのは、修繕中の船のことで打ち合わせをしていた時だった。

船主の一人が、何気なく話題にしたのだ。


「ヴェルナー家の若旦那、縁談はまとまらなかったそうだな」


カイルは、手にしていた木片を置いた。


「……そうなのか」

「頭領がお断りになったらしい。

 まあ、結婚は本人同士のことだからな」


男はそれ以上気にする様子もなく、船の話に戻った。

カイルは、いつも通りに応じた。

けれど、その後の話は、ほとんど頭に入ってこなかった。


ダイアナは、ヴィクトルを選ばなかった。

その事実が、胸の奥で何度も繰り返された。

喜んでいるのかと問われれば、そうではないと言い切れなかった。


彼女が別の男と結婚する未来を想像することは、思っていた以上につらかった。

その未来が遠のいたと知り、安堵した自分がいた。

だが、その安堵を喜びと呼ぶことにはためらいがあった。


ダイアナは、ヴィクトルを選ばなかっただけだ。

自分を選んだわけではない。

その違いを、カイルは誰よりも理解していた。

彼女には、まだ別の縁談が持ち込まれるかもしれない。

頭領としての責任を考えれば、いずれ誰かを迎える必要があると、彼女自身が判断する日も来るだろう。


そのとき、自分はどうするのか。

これまでどおり、何も言わずに見送るのか。

それとも、一度くらい、自分の気持ちを伝えるべきなのだろうか。


カイルは、作業台の上に置かれた道具を見つめた。

伝えれば、何かが変わるかもしれない。

彼女が自分を選んでくれる可能性だって、ないわけではない。

そう考えた瞬間、胸の奥に、これまで抑えてきた願いが顔を出した。


ダイアナと生きたい。

彼女の隣に立ちたい。

朝、砦を訪ねたときに顔を合わせ、夕暮れには港で今日の出来事を話す。

彼女が忙しい日には、何も聞かずにそばにいる。

彼女が笑えば、自分も笑う。


そんな日々を想像してしまう。

けれど、その未来を望むことと、彼女にそれを求めることは違った。


レオンが亡くなって一年。

ダイアナは、ようやく自分のこれからを考え始めたばかりなのだ。

ヴィクトルとの縁談を断った理由も、カイルには分からない。

自分のことを考えて断ったのではないかなどと、都合よく解釈するつもりもなかった。


彼女の決断に、自分の願望を重ねてはいけない。

もし気持ちを伝えれば、彼女は考えなければならなくなる。

自分を選ぶのか、選ばないのか。

まだ答えを探している彼女に、もう一つの選択を迫ることになる。


カイルは、ゆっくりと息を吐いた。

言いたい。

その気持ちは、確かにあった。

だが、彼女が自分の心を見つける前に、自分の想いでその道を塞ぎたくはなかった。


彼女が選ぶべきなのは、誰かに求められたからではなく、自分が望んだからこそ歩める未来だ。

たとえ、その未来に自分がいなくても。

カイルは、再び道具を手に取った。

告げないことを選ぶのは、諦めたからではない。

自分の気持ちをなかったことにするつもりもなかった。


ただ、今はまだ、彼女の答えを待つべきだと思った。

その答えが自分の望むものではない可能性も、受け入れなければならない。

それが、彼女を大切に思うということなのだと、カイルは考えていた。


―

その頃、ダイアナは執務室で、ヴィクトルから届いた最後の書状を読み返していた。

縁談を断ったことへの恨みも、彼女の判断を責める言葉もなかった。

交易については今後も誠実に話し合いたいという、彼らしい簡潔な内容だった。


彼を選ばなかったことに、後悔はない。

それは確かだった。

けれど、選ばなかった理由を考えても、答えはまだ曖昧だった。

レオンを失った悲しみが残っているからだろうか。

もう一度、誰かと人生を築くことが怖いのだろうか。

それとも、そもそも自分は、まだ結婚を望んでいないのだろうか。


どれも、間違いではない気がした。

けれど、それだけではない何かがある。

ダイアナは、窓の外を見た。

港の向こうに、海が広がっている。

あそこには、いつものようにカイルがいるのだろう。

そう思った瞬間、胸の奥がかすかに動いた。

ヴィクトルとの縁談を断ってから、何度か港へ行こうと思った。


彼に会えば、何か分かる気がしたのだ。

けれど、何を知りたいのか、自分でも分からなかった。

カイルは、自分に何も求めていない。

だからこそ、彼の前では気負わずにいられるのだろうか。


ダイアナは、机の書状を封筒に戻した。

ヴィクトルとの縁談は終わった。

けれど、自分の中にある問いは、まだ終わっていない。

答えを探すために、誰かを急いで選ぶつもりはなかった。


ただ、今まで通りの毎日を送っていれば、いつか自然に分かるという気もしなかった。

ダイアナは立ち上がり、窓辺は歩いた。

海は、変わらずそこにあった。

そして港には、自分が会いたいと思いながら、その理由をまだ知らない男がいる。

彼女は、そのことを、まだ認められずにいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。