第35話 問いの行方
ヴィクトル・ヴェルナーがアステリアを発ってから、五日が過ぎた。
帰国に先立ち、彼からは丁寧な書状が届いていた。
今回の会見の礼と、交易についての確認事項。
それから、縁談について、もう一度話す機会をいただければありがたい、という一文が添えられていた。
ダイアナは、まだ返事を書いていなかった。
断る理由はない。
ヴィクトルは誠実で、仕事のできる男だった。
アステリアで暮らすことにも前向きで、頭領の夫となる立場についても理解していた。
彼となら、穏やかな生活を築けるかもしれない。
その可能性を否定するつもりはなかった。
ただ、返事を書こうとするたび、筆が止まる。
何かが足りないのだろうか。
それとも、自分がまだ、次の人生を考える準備ができていないのだろうか。
ダイアナは考えるのをやめ、書きかけの書状を引き出しにしまった。
その日の午後、港の修繕状況を確認するため、砦を出た。
カイルがいるかもしれないと思ったのは、港へ向かう途中だった。
そう考えたことに、特別な意味はない。
彼はいつも港にいる。
船の修繕や若い船員たちの指導に携わり、海の具合を見て、必要があれば船主たちと話をしている。
ダイアナが港へ来れば、顔を合わせることも珍しくなかった。
それだけのことだった。
カイルは、桟橋の先で若い船員と話していた。
船の舵について説明しているらしい。
若者が何度か首を傾げると、カイルは船体の向きを指し示し、実際にどう動くのかを説明していた。
その横顔を見て、ダイアナは足を止めた。
彼は、王都の名門武門に生まれ、王立海軍でも経験を積んだ男だ。
海の知識だけでなく、船を動かす人間や組織についてもよく知っている。
けれど、今のカイルには、そうした経歴を感じさせる気負いはなかった。
若い船員がようやく理解したらしく。明るい顔で礼を言う。
カイルは片手を上げて応じ、船の方へ歩いて行った。
そのとき、彼はダイアナに気づいた。
「ダイアナ。今日はどうした?」
「修繕中の船を見に来たの。進み具合を確かめておきたくて」
「それなら、こっちだ。昨日よりは進んでいる」
カイルは自然に歩き出した。
ダイアナも、その隣に並んだ。
いつものことだった。
港の様子を聞き、船の修繕を見て、必要な指示を出す。
カイルが海の話をし、ダイアナがそれに質問を返す。
二人の間には、余計な気遣いがなかった。
だからこそ、カイルがふと尋ねたとき、ダイアナはすぐに答えられなかった。
「そういえば、例の縁談はどうなった?」
声に特別な響きはなかった。
ただ、以前から気にかけていたことを思い出したような、ごく自然な問いだった。
ダイアナは、足を止めかけた。
「……ヴィクトルのこと?」
「そう、あの商家の男」
カイルは前を向いたまま答えた。
「話はまとまったのかと思ってな」
「まだよ。もう一度、話をすることになっているわ」
「そうか」
それだけだった。
カイルはそれ以上、尋ねなっかた。
ダイアナは、彼の横顔を見た。
なぜ、そこで話を終えるのだろう。
もっと聞きたいことがあるのではないか。
あるいは、初めから、ただの世間話だったのかもしれない。
「カイルは……」
口にしかけて、言葉が途切れた。
彼がこちらを向いた。
「ん?」
「いえ。何でもないわ」
ダイアナは視線を戻した。
何を尋ねようとしたのか、自分でも分からなかった。
ヴィクトルとの縁談をどう思うのか。
自分が彼と結婚したら、カイルはどう思うのか。
そんなことを聞いて、何になるというのだろう。
カイルは、ダイアナの沈黙を不思議に思ったようだったが、理由を尋ねることはなかった。
「返事を急ぐこともないだろう。
お前が決めることなんだから」
何気ない言葉だった。
頭領として、彼女が自分で判断することを信頼している。
その意味に違いなかった。
それなのに、ダイアナの胸には、小さな痛みのようなものが残った。
彼は、彼女が誰を選んでも構わないと思っているのだろうか。
そうであって当然だった。
カイルは、彼女の人生を決める立場にはない。
彼女だって、彼に何かを求めているわけではない。
それなのに。
「……そうね」
ダイアナは、ようやく答えた。
「私が決めることだわ」
その言葉を口にしたとき、自分が何かを確かめようとしていたことに気づいた。
けれど、何を確かめたかったのは、まだ分からなかった。
―
修繕中の船を見終える頃には、日が傾き始めていた。
ダイアナは、そろそろ砦は戻ることにした。
「ありがとう、カイル。
状況が分かってよかったわ」
「また何かあったら言ってくれ」
いつもの言葉。
いつもの調子。
彼は、彼女が来る前と何も変わっていないように見えた。
ダイアナは歩き出し、数歩進んでから振り返った。
カイルはもう船の方を向いていた。
近くにいた船員に呼ばれ、修繕の話を始めている。
その姿を見ていると、不思議な気持ちになった。
もし、自分がヴィクトルを選んだら。
カイルは、これまでと同じように港で働き、船を造り、海へ出るのだろう。
結婚相手が誰であっても、彼の人生は続いていく。
それは当たり前のことだ。
それなのに、彼と今のように話す時間がなくなることを想像すると、なぜか寂しかった。
ダイアナは、すぐに前を向いた。
彼を失うわけではない。
結婚したからと言って、友人でなくなるわけでもない。
そう自分に言い聞かせながら、砦への道を歩いた。
けれど、胸の中に生まれた小さな違和感は、消えてくれなかった。
―
カイルは、ダイアナの姿が見えなくなってからも、しばらく桟橋に立っていた。
彼女がヴィクトルとの縁談について話したとき、胸の奥に何かが引っかかった。
ほんのわずかなことだった。
彼女が誰かと結婚するのは、当然あり得ることだ。
むしろ、アステリアの将来を考えれば、そうなるのが望ましいのかもしれない。
ヴィクトルは有力商家の人間で、頭領の夫としても悪くない相手なのだろう。
カイルは、そう考えようとしていた。
それなのに、彼女の口から、もう一度会うことになっていると聞いたとき、
思っていたよりも冷静ではいられなかった。
何を期待していたのだろう。
そもそも、自分には何かを期待する権利があるのだろうか。
ダイアナがレオンを選んだ時、カイルはその決断を受け入れた。
彼女が幸せなら、それで良かった。
そう思っていたし、今もその気持ちは変わっていない。
レオンは、ダイアナが選んだ男だった。
彼女を大切にし、彼女と生きることを望み、短い時間ではあったが、二人で幸福な日々を築いた。
カイルは、そのことを知っている。
レオンが亡くなったあとも、ダイアナが彼を忘れていないことを知っている。
だから、今になって自分の気持ちを持ち出すつもりはなかった。
彼女が望まないものを、背負わせたくはない。
けれど、カイルは、先ほどダイアナが言いかけた言葉を思い返した。
「カイルは……」
その先に何を尋ねるつもりだったのだろう。
ヴィクトルとの縁談について、自分の意見を聞きたかったのか。
それとも、別の何かだったのか。
考えても、答えは出なかった。
ただ、彼女が何かを言いかけて、結局口を閉じたことが気になった。
そして、彼女が去っていく背中を見送ったとき、自分が何を考えていたのかにも、
ようやく気づき始めていた。
ヴィクトルがどんな男なのか、彼女とどんな話をしたのか。
そんなことが気になっていたのは、頭領の将来を案じていたからではない。
彼女が誰と生きていくのか。
その隣に立つのが、自分ではない誰かになるのか。
それを考えることが、思っていた以上につらかった。
カイルは、ゆっくりと息を吐いた。
今さら、気づくことでもなかったのかもしれない。
彼女がレオンを選んだ日から、ずっと心の奥にしまってきたものだった。
ただ、もう一度、誰かを選ぶかもしれない彼女を前にして、初めて、その気持ちから目を逸らせなくなったのだ。
カイルは海を見た。
風が変わり始めている。
明日も船は出る。
若い船員たちに教えることも、修繕を終えなければならない船もある。
自分の生活は、これまで通り続いていく。
それでも、ダイアナが誰を選ぶのかという問いだけは、もう、他人事ではいられなかった。
―
その夜。ダイアナはヴィクトルへの返事を書こうと、机に向かった。
もう一度会うことを承諾する。
それだけの短い書状だった。
筆を取り、最初の一文を書いたところで、手が止まった。
窓の外から、夜の海の音が聞こえていた。
ダイアナは筆を置き、書きかけの文を見つめた。
ヴィクトルは、きっと良い夫になるだろう。
共に暮らし、島の将来について話し合い、互いに責任を果たしていく。
そういう人生を選ぶことはできる。
では、自分はそれを望んでいるのだろうか。
彼と暮らすことを考えたとき、浮かぶのは、整えられた暮らしと、穏やかに続く日々だった。
それは決して悪い未来ではない。
けれど、そこに自分がいる姿を思い描こうとすると、どこか遠くから眺めているような気持になる。
一方で、カイルと港を歩いていた時間を思い出すと、そこには自分がいた。
何を話したか、どんな風が吹いていたか、彼がどんな顔していたか。
そんな些細なことまで、自然に思い出せる。
ダイアナは、目を閉じた。
なぜ、カイルなのだろう。
レオンを失ってから、彼はずっと変わらずにいてくれた。
慰めようともしなかった。
忘れろとも前を向けとも言わなかった。
ただ、以前と同じように話し、同じように接してくれた。
そのことに、どれほど救われてきたのだろう。
けれど、それだけなのだろうか。
もし、カイルが誰か別の女性と結婚したら。
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
ダイアナは、目を開けた。
その考えは、あまりにも唐突だった。
カイルが誰と生きるかは、彼が決めることだ。
彼にも自分の人生があり、望む未来がある。
自分は彼に、何を望んでいるのだろう。
答えは出なかった。
ただ、先ほどまでとは違う問いが、心の中に残っていた。
ヴィクトルを選ぶべきかどうかではない。
自分は、これから誰と生きていきたいのか。
ダイアナは、もう一度筆を取った。
今度は、迷わずに返事を書き始めた。
ヴィクトルに、もう一度会おう。
彼を知ることも、自分の気持ちを知ることもまだ必要だった。
けれど、書状を書き終えても、ダイアナの心からカイルの姿が消えることはなかった。
問いの答えは、まだどこにもなかった。
ただ、二人とも、もう以前と同じ問い方では、互いのことを考えられなくなっていた。




