第34話 ヴィクトル
ヴィクトル・ヴェルナーがアステリアに到着したのは、秋の風が北から吹き始めた頃だった。
ヴェルナー家は、王都でも指折りの商家である。
海運、造船、穀物取引を手広く営み、貴族たちとも対等に商談を進めるだけの財力と信用を持っていた。
ヴィクトルはその次男だった。
家業を継ぐのは兄と決まっていたが、彼自身も交易の実務を任され、若くしていくつもの商談をまとめてきたという。
今回の訪問も、表向きはアステリアとの交易拡大について話し合うためのものだった。
しかし、ダイアナのもとへ届いた書状には、もう一つの目的が記されていた。
頭領の迎え人候補として、ヴィクトルを検討して欲しい。
ダイアナは書状を読み終えると、静かに封を戻した。
また一人、候補者が現れた。
レオンを失ってから一年が過ぎた今、こうした話が届くことは予想していた。
アステリアの将来を考えれば、避けて通れない問題でもある。
だから、会うことにした。
それ以上の理由は、まだなかった。
―
ヴィクトルは、思っていたよりも若く見えた。
二十七歳、ダイアナより三つ年下だった。
濃い色の上着に端正な着こなし、余計な装飾は身に着けていない。
挨拶の言葉は簡潔で、頭領への敬意を示しながらも、必要以上にへりくだることはなかった。
彼はダイアナの前で一礼した。
「このたびは、お時間をいただきありがとうございます」
「遠いところをよく来てくださいました。
アステリアへようこそ」
ダイアナは彼に席を勧めた。
会見の場は、砦の奥にある客間だった。
窓からは港の一部が見え、帆船の間を秋の風が通り抜けている。
最初に話題になったのは、交易のことだった。
ヴィクトルは、アステリアの海運についてよく調べていた。
季節によって変わる航路、島の船が得意とする積み荷、港での荷役にかかる時間、
彼の質問は具体的で、こちらの事情を確かめるためのものだった。
ダイアナが答えると、彼はその内容を頭の中で整理するように少し間を置き、次の問いを重ねた。
知識をひけらかすためではない。
自分の理解が正しいのかどうかを確かめ、商談に必要な条件を見極めているのだ。
ダイアナは、彼が有能な人物であることを認めた。
「アステリアの船は、速さだけで航路を選んでいるわけではありません。
安全に帰れることが、何より重要なのです」
「承知しています。船を出すことより、帰すことの方が難しい海もありますから」
ヴィクトルの答えに、ダイアナはわずかに目を上げた。
彼は、島の海を甘く見てはいないようだった。
「その考えを、商いにも生かしていらっしゃるのですか」
「ええ。利益を得ることは大切ですが、次も取引してもらえなければ意味がありません。
目先の利益のために信用を失うのは、割に合わないことです」
実に商人らしい答えだった。
けれど、ダイアナはそれを悪いとは思わなかった。
約束を守ること、信用を積み重ねること。
利益だけでなく、長い先を見て判断すること。
それらは、島を治めるうえでも欠かせない。
二人の話は、思いのほか円滑に進んだ。
交易の話がひと段落したところで、ヴィクトルは手元の杯を置いた。
「ここからは、私個人の話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
ダイアナは頷いた。
「今回、アステリアへ参りましたのは交易のためだけではありません」
彼は、彼女の目をまっすぐに見た。
「あなたが、夫を迎えなければならない、という事情を存じております。
私をその候補としてお考えいただきたい」
素直な申し出だった。
ダイアナは表情を変えず、続きを待った。
「私は、あなたが頭領としてアステリアを治めてこられたことを知っています。
外の国々がこの島を自分たちの都合で動かそうとしても、あなたはそれを許さなかった。
交易の利益を求めながら、島の独立を損なうような条件は受け入れなかった」
ヴィクトルの声に、媚びはなかった。
「私は、その判断を尊敬しています」
彼はそこで一度言葉を切った。
「もしあなたが私を迎え人として選ぶのであれば、私はアステリアに生活の拠点を移すつもりです。
ヴェルナー家の後継者は兄です。
私が家を離れることについても、すでに話を通しております」
ダイアナは、その点を確かめるように彼を見た。
「こちらへ来ることで、あなたの仕事に支障はありませんか」
「仕事の形は変わるでしょう。しかし、交易は一つの場所にいなければできないものではありません。
アステリアに住みながら、私にできる仕事を続ける方法はあります。
「この島では、頭領の夫になったからと言って、何もかもが思い通りになるわけではありません。
氏族ごとに考えも違いますし、外から来た人間が信頼を得るには時間がかかります」
「それは当然のことでしょう」
ヴィクトルは少しもひるまなかった。
「私は、あなたの夫になることと、アステリアの人々に受け入れられることは、
別の問題だと考えています。
あなたが私を選んでくださったとしても、島の人々が私を認めてくれるとは限りません。
そこは、私自身が努力するべきことです」
その言葉には、確かな現実感があった。
ダイアナは、彼となら、アステリアの将来について具体的な話ができるだろうと思った。
彼は自分の立場を理解している。
頭領の夫という地位だけを求めているわけでもない。
けれど、
「私個人については、どのようにお考えですか」
尋ねてから、ダイアナは自分が思っていたよりも大切な質問をしたのだと気づいた。
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
「正直に申し上げれば、あなたのことを、まだ十分に存じ上げているとは言えません」
彼は取り繕わなかった。
「私は、あなたの判断力と責任感に惹かれています。
しかし、それだけで、あなたという人を理解したつもりにはなれません。
ですから、もしこの縁談が進むのであれば、あなたのことをもっと知りたいと思っています」
ダイアナは、静かに彼の言葉を受け止めた。
誠実な答えだった。
少なくとも、知らない相手を知ったふりをして、愛情まで約束するような人ではない。
「私も、あなたのことを知る必要がありますね」
「ええ。私もそう思います」
ヴィクトルは穏やかに頷いた。
「一度会っただけで、決めていただこうとは思っておりません」
その言葉に、ダイアナは少しだけ肩の力を抜いた。
その後も二人は話を続けた。
ヴェルナー家の商いについて。
アステリアの港を整備する計画について。
冬の航海を減らすべきか、それとも危険を承知で交易を続けるべきか。
意見が異なることもあった。
ダイアナが島の船員たちの安全を優先すると、ヴィクトルは交易の停滞による損失を指摘した。
彼女が損失を受け入れるべき理由を説明すると、彼はしばらく考えたあと、その判断を認めた。
彼は、反対意見を述べることを恐れなかった。
そして、自分の意見を退けられても不機嫌になることはなかった。
ダイアナにとって、それは好ましいことだった。
頭領としての自分を尊重しながら、何でも賛成するわけではない。
共に仕事をする相手として考えれば、信頼に足る人物だろう。
昼を過ぎる頃、会見は終わった。
ヴィクトルが退出したあと、ダイアナは窓辺に立っていた。
港の風景は、いつもと変わらない。
船が行き交い、荷が運ばれ、人々が忙しく働いている。
彼女は、今日の会見を振り返った。
ヴィクトルは有能だった。
誠実で、現実をよく見ている。
アステリアで暮らす覚悟もあり、頭領の夫として求められる責任を理解している。
結婚相手として、不足はないのかもしれない。
では、自分は彼と暮らしたいと思うのだろうか。
その問いに答えようとした時、なぜか別の男の姿が浮かんだ。
港の桟橋に立ち、若い船員たちに指示を出しているカイル。
日に焼けた顔。
船のことを話すときの、少し生き生きとした声。
彼女が何かを尋ねれば、面倒がらずに答えてくれる。
ときには彼女の考えに異を唱え、こちらが納得するまで話を続けることもある。
今日、ヴィクトルと話していた時には、ずっと頭領として考えていた。
島の利益、交易の安全、将来の備え。
それらは大切なことだし、ヴィクトルとは十分に話し合うことができた。
けれど、カイルと港で話すとき、彼女はいつも、そこまで自分を意識していない。
頭領としてではなく、ただ目の前の船や海について話したくなる。
何かを決めるためではなく、何かを知りたくて尋ねる。
そして、答えを聞きながら、気づけば別の話をしている。
そのことを思い出した瞬間、ダイアナは眉を寄せた。
なぜ、今、カイルのことを考えたのだろう。
ヴィクトルとの縁談を考えるうえで、カイルは関係のない人間のはずだった。
彼は彼自身の生活を持っている。
港で働き、船を造り、若い船員たちを育てている。
ダイアナの人生に何かを求めている様子もない。
それなのに、彼と過ごす何気ない時間は、いつも自然だった。
レオンと過ごした時間とは違う。
本を開き、互いの考えを語り合い、二人で見知らぬ国へ行くことを夢見たレオンとの日々は、
ダイアナにとってかけがえのないっものだった。
あの幸福を、もう一度同じ形で得たいとは思わない。
同じものは、もう二度とないのだから。
けれど、これからの人生に、どんな時間を望んでいるのか。
ダイアナには、まだ分からなかった。
ただ、カイルと話している時の自分を思い出すと、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
それが何なのか、今は考えたくなかった。
―
夕刻、エドガーが会見の様子を尋ねに来た。
「ヴィクトル殿は、どのような方でしたか」
ダイアナは少し考えてから答えた。
「有能な方ね、現実的で、話が早い。
こちらの事情も良く調べているわ」
「縁談につては、いかがでしたか」
「真剣に考えてくださっているようだったわ。
アステリアに移り住む覚悟もあるそうよ」
エドガーは頷いた。
「それならば、候補として検討する価値は十分にありそうです」
「ええ」
ダイアナは机の上の書類を整えた。
「もう一度、話をしてみようと思うわ。
彼がどんな暮らしを望んでいるのか、私が何を求めているのか、
もう少し確かめたいことがあるから」
「承知いたしました」
エドガーは、それ以上踏み込まなかった。
ダイアナは窓の外へ目を向けた。
もう一度会うことに、異論はなかった。
ヴィクトルは、頭領として考えれば、十分に信頼できる相手だった。
それでも、彼との未来を想像しようとすると、どこかに空白がまだ残る。
その空白を埋めるものが何なのか、ダイアナには分からない。
ただ一つ、彼女は気づいていた。
今日、自分の未来について考えようとしたとき、最初に思い浮かんだのは、
縁談相手のヴィクトルではなかった。
港にいる、いつものカイルだった。
そのことを、彼女は誰にも話さなかった。




