第33話 静かな圧
最初に変わったのは、人々の言葉ではなく、沈黙だった。
ダイアナが氏族長たちとの会議を終え、席を立とうとした時、いつもならすぐに始まる雑談が、その日はなかなか始まらなかった。
誰かが何かを言いかけ、隣の者と目を合わせて口を閉じる。
ダイアナが振り返ると、皆、何事もなかったかのように書類をまとめ始めた。
彼女はその理由を尋ねなかった。
レオンが亡くなってから一年。
服喪の期間が明けたことは、島の人々にとって、一つの区切りだったのだろう。
けれど、それはダイアナにとって、悲しみが終わったという意味ではなかった。
彼のいない生活を続けることには、少しずつ慣れていた。
頭領としての判断を下し、人々の相談に応じ、島の将来を考える。
そうした務めを果たすことはできる。
ただ、自分の人生について、次の一歩を考えることは出来ずにいた。
周囲の人々は、その沈黙を別の意味に受け取り始めていた。
―
数日後、北方から届いた商船の積み荷を確認していたダイアナのもとに、エドガーが数通の書状を
持ってきた。
どれも、丁寧な挨拶から始まるものだった。
交易の拡大を望む商会からの申し入れ。
近隣諸国の貴族からの親書。
そして、ダイアナの今後について、遠回しな言葉で意向を尋ねるもの。
彼女は一通ずつ目を通し、最後の書状を机に置いた。
「縁談ね」
「はい」
エドガーは淡々と答えた。
「服喪の期間が明けたことが、外にも伝わったようです」
「ずいぶん早いこと」
ダイアナの声には怒りよりも疲れが滲んでいた。
「先方は、アステリアとの関係を深めたいのでしょう。
婚姻によって、その結びつきを確かなものにしていと考えているようです」
「交易の話に、私の結婚を持ち込む必要はないわ」
「おっしゃる通りです。
条件の合わない申し入れは、こちらから断ることができます」
エドガーは一度言葉を切った。
「ただ、すべての申し入れを断り続けることが、今後も最善とは限りません」
ダイアナは顔を上げた。
エドガーは、机の上に別の書状を置いた。
「問題は、島の外との関係だけではございません」
彼が何を言おうとしているのか、ダイアナには分かった。
レオンは、子を残さずに亡くなった。
それは二人の望みとは関係なく、今のアステリアが抱える現実だった。
頭領の血筋をどうつなぐのか。
次の世代を誰が担うのか。
氏族長たちは、いつかその問題を取り上げなければならない。
「後継のことね」
「はい」
ダイアナは、窓の外へ目を向けた。
港には、船が一隻停泊している。
船員たちが荷を運び、倉庫へ向かっていた。
いつもと変わらない光景だった。
「分かっているわ。考えなければならないことだというのは」
「頭領として、十分にお考えになっていることは承知しております」
エドガーは、彼女の言葉を遮らなかった。
「ですが、周囲は、ダイアナ様が今後どのようにお考えになるものか知りたがっています。
何も決まっていない状態が長く続けば、憶測が生まれます。
島の外からも、内側からも」
ダイアナは返事をしなかった。
彼らが心配しているのは、アステリアの将来なのだろう。
頭領の夫を迎え、次の世代へつなぐこと。
それは、彼女一人の願いだけで決められることではない。
けれど、次の夫を迎えるという言葉を聞くたびに、レオンと過ごした日々が胸に浮かんだ。
彼と暮らした時間は短かった。
それでも、彼女はあの時間を、これからも続いていく人生の始まりだと思っていた。
遠い国を旅し、二人で本を読み、年を重ねていく。
その未来が失われたことを、まだ自分の中で整理できずにいる。
「今は、これ以上の返事を出来ないわ」
「承知しております」
エドガーは書状を整えた。
「先方には、現時点では婚姻について検討する段階にないと伝えます。
ただし、今後も同様の申し入れが届くことは避けられないでしょう」
「ええ。分かっているわ」
ダイアナは書類に手を伸ばした。
「島のことを先に進めましょう。
交易案の修正が残っているわ」
エドガーは一礼し、仕事の話に戻った。
それ以上、再婚については口にしなかった。
―
けれど、話題は少しずつ広がっていった。
会議のあと、年長の氏族長たちが残って話し合うことが増えた。
商人たちの間では、商会を通して遠方からも縁談が来ている、という噂まで交わされるようになった。
誰も、ダイアナを責めてはいなかった。
彼女がレオンを愛していたことも、彼の死を深く悲しんでいることも、島の人々は知っている。
だからこそ、表立って再婚を求める者は少なかった。
代わりに、誰かが遠回しに口にする。
頭領も、そろそろ先のことを考えなければならない。
島の将来のために、迎え人を迎えることは必要なのではないか。
その言葉は、もっともらしく、正しかった。
だから、ダイアナは簡単に退けられなかった。
彼女は頭領である。
自分の悲しみだけを理由に、島の将来に関する問題をいつまでも先送りにすることはできない。
しかし、誰かを迎えるということは、
空いた席に人を座らせることではなかった。
共に暮らし、考えを交わし、互いの人生を引き受けることだ。
レオンを迎えた時、彼女はその意味を知った。
そして今、もう一度それを考えるにはまだ心の準備ができていなかった。
―
夕方、エドガーは再びダイアナの執務室を訪ねた。
今度は、書類を持っていなかった。
「ダイアナ様。
少し、お話ししたいことがございます」
ダイアナはペンを置いた。
「何かしら」
長年、彼はダイアナのそばで島の政務を支えてきた。
彼女が迷っている時も、怒っている時も、必要以上に言葉を重ねることはなかった。
今回も、すぐには話し始めなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「次の夫を迎えることについて、一度お考えになってはいかがでしょうか」
ダイアナは、彼を見つめた。
その言葉を、いつか誰かから聞くことになるとは分かっていた。
それでも、実際に告げられると、胸の奥に重いものが沈んだ。
「……あなたも、そう思うのね」
「はい」
エドガーは目を逸らさなかった。
「島の将来を考えれば、次の世代について道筋をつける必要がございます。
頭領の夫となるものがいれば、島の外との関係も安定させやすくなります」
「私一人では、アステリアを守れないと?」
「いいえ」
返事は、すぐだった。
「頭領としてのあなたを疑ったことはございません」
エドガーは、言葉を選ぶように一度視線を落とした。
「ですが、アステリアは、あなた一代で終わる島ではございません」
ダイアナは黙っていた。
その言葉が正しいことを、彼女自身が誰よりも知っていたからだ。
「……レオン様が亡くなられてから、まだ一年です」
エドガーの声が、わずかに低くなった。
「お悲しみが癒えるには、もっと時間が必要でしょう。
私も、それは理解しております」
ダイアナは、机の端に置かれた書状に目を落とした。
「それでも、ということね」
「はい」
エドガーは頷いた。
「すぐに決断していただきたいのではありません。
ただ、次の迎え人を迎えるという選択肢を、初めから閉ざさないでいただきたいのです」
彼自身、レオンを好ましく思っていた。
仕事に誠実で、アステリアの独立性を尊重し、ダイアナを一人の人間として扱った男だった。
彼がダイアナと結婚した時、二人なら良い夫婦になると思った。
実際、二人は幸せだった。
短い時間ではあったが、互いを選び、共に暮らし。未来を望んでいた。
だからこそ、レオンを亡くしたダイアナの悲しみが、どれほど深いものか分かっていた。
この話をすることに、ためらいがなかったわけではない。
それでも、誰かが言わなければならなかった。
「……考えておくわ」
ダイアナは、ようやく答えた。
それ以上のことは言わなかった。
エドガーも、それ以上は求めなかった。
彼は一礼し、執務室を出て行った。
扉が閉じる。
ダイアナは、しばらく机を見つめていた。
―
窓の外では、夕暮れが海を染めていた。
ダイアナは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
再婚。
次の迎え人。
後継。
どれも、頭領として無視することのできない言葉だった。
けれど、今の彼女には、それらを自分の人生として考えることが難しかった。
レオンと過ごした日々は、まだ遠い過去になっていない。
食卓の空いた椅子を見るたび、彼を思い出す。
寝室の本を開けば、読みかけの頁が残っている。
仕事の相談をしようとして、彼がもういないことに気づく。
そんな日々の中で、新しい夫を迎える未来を思い描くことは出来なかった。
それでも、エドガーの言葉は残っていた。
アステリアは、あなた一代で終わる島ではない。
海の向こうには、まだ見ぬ国々がある。
そこから届く書状は、これからも増えるだろう。
島の人々の期待も、簡単には消えない。
彼女が何も決めずにいる限り、誰かが決めようとするかもしれない。
ダイアナは、窓辺を離れ机へ戻った。
縁談の書状には、まだ返事を書いていない。
彼女は一通ずつ、それらを封筒に戻した。
今すぐ答えを出すつもりはなかった。
けれど、考えなくて良いことでもない。
頭領として、向き合わなければならない問題だった。
そして、いつか。
一人の女性としても、答えを出さなければならないのかもしれない。
机の上には、レオンの使っていたペンが残っていた。
ダイアナはそれを手に取り、しばらく眺めたあと、元の場所へ戻した。
窓の外で、灯台の光が海を照らし始めていた。
アステリアの夜が来る。
そして、ダイアナは頭領として、その朝を迎えなければならなかった。




