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第32話 空いた椅子

レオンが亡くなってから、一年が過ぎた。


アステリアの季節は、いつも通り巡った。

秋が終わり、冬が来た。

春には港に新しい船が入り、夏には交易が盛んになった。


七氏族の会議は定期的に開催され、周辺国との交渉も続いていた。

ダイアナは、頭領としての仕事を休むことなく続けていた。


誰かが決断を求めれば答えを出す。

意見が分かれれば、それぞれの話を聞く。

港の問題が起きれば現地へ足を運び、島の将来に関わることは、何度でも考え直した。


レオンが亡くなったからと言って、アステリアの時間が止まるわけではない。

彼女が守らなければならないものは、今もここにある。


だから、ダイアナは働いた。

朝は早く起き、食事を済ませ、執務室へ向かう。

夕方まで書類を読み、会議に出席し、必要があれば夜も仕事を続けた。


以前と変わらない生活だった。

ただ、その中に一つだけ、どうしても元に戻らないものがあった。


レオンがいない。


―

その日、ダイアナはエドガーと新しい貿易案を検討していた。

机の上には、北方諸国との交易量をまとめた書類と、いくつかの航路図が広げられている。


北方の港は冬の閉鎖期間が長い。

アステリアを経由することで輸送を安定させられるが、船団の護衛費用と港の使用量をどう調整するかが問題だった。


「この条件では、北方の商人に負担が偏りすぎるわね」


ダイアナは書類に目を落とした。


「ええ。ですが、こちらの負担を増やしすぎれば、港の修繕費を確保できなくなります」


エドガーが別の書類を差し出す。


「航路の一部を共同で管理する案もございます」

「共同管理…」


ダイアナは海図を引き寄せた。

しばらく、二人で数字と航路を照らし合わせる。

やがて、ダイアナは一本の航路を指でなぞった。


「ここを北方の商船に優先的に使わせて、その代わりに修繕用の木材を

 定期的に提供してもらうのはどうかしら」


エドガーは海図を覗き込んだ。


「悪くない案です。ただ、木材の品質と量について、もう少し条件を定める

 必要があります」

「そうね。船大工たちにも確認しておきたいわ」


ダイアナは書類の余白に、必要な確認事項を書き留めた。

それから、何気なく口を開いた。


「レオン、あなたならどう思う?」


声に出した瞬間、ペンが止まった。

部屋は静かだった。

窓の外から、港で働く人々の声がかすかに聞こえる。

エドガーは何も言わなかった。

ダイアナは、ゆっくりと顔を上げた。


向かいの席は空いている。

そこに座っていた人は、もういない。


彼なら、きっと航路図を引き寄せ、条件のどこに問題があるのかを一つずつ確かめただろう。

すぐに賛成することはない。

反対するなら、理由を示す。

そして、別の方法がないか、最後まで考える。


ダイアナは、そんな彼の姿をあまりにも自然に思い浮かべていた。

一緒に仕事をした時間は、決して長くはなかった。

それでも、彼の考え方は、彼女の中に残っている。


「……そうだったわね」


小さく呟いた。

エドガーは、静かに書類を整えた。


「少し、休憩になさいますか?」

「いいえ。大丈夫よ」


ダイアナは再びペンを持った。


「この案は、もう少し検討しましょう。

 木材の条件を調えれば、十分に実現できると思うわ」

「承知しました」


話は続いた。

必要な項目を確認し、次の会議の日程を決め、書類をまとめる。

ダイアナは最後まで、頭領としての仕事を進めた。


けれど、机の向かい側が空いていることを、その日ほどはっきりと意識したことはなかった。


―

昼食の時間になった。

ダイアナは執務室を出て、食堂へ向かった。

食卓には、いつものように食事が用意されていた。

焼いた魚。

野菜のスープ。

パン。


マリーが、彼女の席に皿を置く。


「お嬢様、今日は温かいうちに召し上がってくださいね」

「ええ。ありがとう、マリー」


ダイアナは椅子に腰を下ろした。

食卓には、もう一脚の椅子がある。

レオンが使っていた椅子だった。


彼と、ここで一緒に食事をした。

王都での出来事を話すこともあった。

港で見かけた珍しい船について、レオンが意見を述べることもあった。

時には、食事の後も二人で席を立たたず、読みかけの本について話し込んだ。


彼は、魚料理の味付けについて、時折控えめな感想を口にした。

ダイアナが少し濃い味に仕上げた日は、何も言わずに食べながら、次の一口までにわずかな間があった。

その間を見つけて、ダイアナが笑う。


そんなこともあった。

今は、何も起こらない。

食事は温かく、いつもどおり美味しい。

窓からは海が見える。

食堂には人の気配もある。


それなのに、ダイアナは、ときどき視線を向かい側へ向けてしまう。

空いた椅子を見るたび、そこにいた人の姿を思い出す。

そして、もうそこに戻ってくることはないのだと、改めて知る。


彼が亡くなった日から、何度も繰り返してきたことだった。

それでも、慣れることはなかった。

ダイアナは、スープを口に運んだ。

食べ終えると、マリーが皿を下げに来た。


「お食事、お口に合いましたか?」

「ええ。とても美味しかったわ」

「よかったです」


マリーは、空いた席に一度だけ目を向けた。

それから、何も言わずに食器を片付けた。

ダイアナも何も言わなかった。

二人の間に、慰めの言葉は必要なかった。


―

午後、ダイアナは自室へ戻った。

少しだけ休むつもりだった。

窓辺の椅子に腰を下ろす。


海は穏やかだった。

遠くに船が見える。

白い帆が風を受け、ゆっくりと港へ向かっていった。

以前なら、レオンと一緒に眺めていた景色だった。


彼は船を見つけると、どこの港から来たのか、積み荷は何かと考えることがあった。

ダイアナは、そんな彼の話を聞くのが好きだった。

自分が当たり前だと思っていた海を、彼は別の角度から見ていた。

同じ景色でも、見る人が違えば、そこから生まれる考えも違う。


レオンと暮らすようになってから、ダイアナは何度もそのことを知った。

彼と話すことで、今まで見落としていたものに気づくこともあった。

彼がいなくなった今も、その影響は残っている。


新しい航路を考えるとき。

他国との条件を検討するとき。

本を読むとき。


ふとした瞬間に、彼ならどう考えるだろうと思う。

けれど、もう答えは返ってこない。

ダイアナは窓の外を見つめた。

海は、今日も変わらずそこにある。


彼が愛した海。

二人で見た海。

彼が最後に帰りたいと願った海。


その景色が今も続いていることが嬉しきくもあり、苦しくもあった。


―

夕方。


ダイアナは、レオンの寝室へ入った。

一年が過ぎても、部屋の中には彼の気配が残っていた。


机の上には、使い慣れたペン。

棚には、読み終えた本と、まだ読んでいない本。

窓辺には、海を見るための椅子。


そして、寝台の脇の小さな卓には、一冊の本が置かれていた。

読みかけのまま、閉じられている。

ダイアナは、その本を手に取った。

二人で読んでいた本だった。

レオンは途中まで読み進めていた。

ある夜、続きを読もうとしたところで、咳が止まらなくなった。


ダイアナは本を閉じ、彼の背中をさすった。

その日は、彼が眠るまでずっとそばにいた。


本の続きは、また明日にしよう。

そう思っていた。

明日が来れば、続きを読める。

二人で、また同じ時間を過ごせる。

あの頃は、そう思っていた。

ダイアナは、本を開いた。


挟まれていたのは、三本の波が刻まれた栞だった。

レオンが作ってくれたもの。


ダイアナは栞を抜き取り、掌に載せた。


「……あなた、まだ続きを読んでいないわね」


声は、小さかった。

返事はない。

彼はもう、ここにはいない。

それでも、ダイアナは本を閉じ、栞を挟み直した。

元の場所へ戻す。

いつか、続きを読もうと思った。

今はまだ、一人で読む気にはなれなかった。


―

夜。


ダイアナは執務室に戻った。

机の上には、翌日の会議に必要な書類が並んでいる。

明日も仕事がある。

明後日も。

来週も。

アステリアは、これからも続いていく。

ダイアナは椅子に座り、書類を一枚ずつ確認した。

ときどき、ペンを止める。

考えを整理し、文章を直し、必要な指示を書き込む。

レオンがいた頃と、同じ仕事だった。

けれど、仕事を終えて顔を上げた時、彼の声が聞こえることはない。

夕食に時間になっても、向かいの椅子は空いたまま。

夜、寝室へ戻っても、隣の寝台に彼の姿はない。


朝になれば、また一日が始まる。

ダイアナは、その繰り返しの中で生きていた。


悲しみが消えたわけではない。

ただ、悲しみを抱えたまま、やるべきことを続けている。

頭領として、レオンを愛した一人の女性として。


窓の外で、灯台の光が海を照らしていた。

白い光が遠くまで伸びる。


消える。

また光る。


ダイアナは、机の上の書類を閉じた。

それから、静かに呟いた。


「……おやすみさい、レオン」


返事はなかった。

それでも、明日の朝にはまた窓を開ける。

海を見て、仕事へ向かう。

彼が愛したアステリアを、これからも守っていく。


レオンのいない日々は続いていく。

何もかもが変わってしまったわけではない。


ただ、食卓の椅子が一つ、空いている。

それだけのことが、今も、どうしようもなく寂しかった。

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