第31話 海を忘れず、故郷を忘れず
二人が結婚して、三度目の夏が来た。
アステリアの海は、明るかった。
朝には漁船が沖へ出て、昼には商船が港へ入り、夕方になると、海面に長い夕日の道が伸びる。
いつもと変わらない夏だった。
けれど、ダイアナは、レオンの変化に気づき始めていた。
最初は、ほんの小さなことだった。
朝食を残すようになった。
階段を上がったあと、息を整える時間が長くなった。
本を読んでいる途中で、目を閉じたまま動かなくなることが増えた。
以前なら、疲れているのだろうと思った。
王都との往復が続いた時期もあった。
仕事が立て込めば、夜遅くまで書類を読んでいることもある。
だから、少し休めば戻るのだと思っていた。
けれど、ある朝。
レオンが庭から戻る途中、石段の手前で足を止めた。
「レオン?」
ダイアナは振り返った。
彼は手すりに片手を置き、俯いていた。
「どうしたの?」
「……少し、息を整えているだけです」
そう答える声は、いつもと変わらなかった。
けれど、額には汗が浮かんでいる。
夏の朝とはいえ、まだ日差しは強くない。
ダイアナは彼のそばへ寄った。
「部屋へ戻りましょう」
「もう少しで落ち着きます」
「ええ。だから、ゆっくり行きましょう」
彼は何か言いかけたが、結局黙って頷いた。
ダイアナは彼の腕に手を添えた。
以前は、彼が自分の歩幅に合わせてくれることが多かった。
今は、自分が彼の歩幅に合わせている。
それだけの違いなのに、胸の奥に、冷たいものが残った。
―
島の医師を呼んだのは、その数日後だった。
診察は長くかかった。
医師はレオンの呼吸を確かめ、脈を取り、これまでの症状について一つずつ尋ねた。
咳が始まった時期。
夜に熱が出ることがあるか。
食事の量。
眠りの様子。
レオンは、問われたことに淡々と答えた。
ダイアナは隣で、その言葉を聞いていた。
自分の知らない症状が、いくつもあった。
夜中に咳で目を覚ますこと。
以前より食欲が落ちていること。
胸の奥に痛みを感じる日があること。
どうして話してくれなかったのか、問い詰めたい気持ちはあった。
けれど、医師の前では何も言えなかった。
やがて診察を終えた医師が、ダイアナに目を向けた。
「少し、お話があります」
その声に、彼女の指先が冷たくなった。
―
医師は、応接間で静かに告げた。
「この島で出来る処置には限りがあります」
ダイアナは黙って聞いていた。
「王都には、こうした病を詳しく診ている医師たちもおります。
できることが、まだあるかもしれません」
「王都へ行けば、良くなるのでしょうか」
医師はすぐに答えなかった。
「確かなことは申し上げられません」
その言葉が、何よりも恐ろしかった。
「ですが」
医師は続けた。
「今なら、まだ長い船旅に耐えられる可能性があります。
これ以上体力が落ちる前に、王都で診てもらうべきです」
ダイアナは膝の上で手を握った。
王都。
アステリアから船で一週間はかかる。
海が荒れれば、さらに時間がかかる。
レオンを一人で行かせることなど考えられなかった。
「私も行きます」
医師が頷く。
「それがよろしいでしょう」
―
その夜。
ダイアナは、レオンの寝室で荷造りを始めた。
必要な衣服。
薬草を包んだ小袋。
彼が読みかけていた本。
そして、机の引き出しから取り出した革張りの小さな栞。
三本の波が刻まれた、レオン手作りの栞だった。
ダイアナはそれをしばらく見つめてから、本の間に挟んだ。
「王都へ行くの?」
レオンが寝台から尋ねた。
「ええ」
「仕事は?」
「エドガーに任せるわ」
「……君が、すべてを置いていく必要はありません」
ダイアナは手を止めた。
「置いていくのではないわ」
彼のそばへ行き、寝台の端に腰を下ろす。
「任せるの。私が戻るまで、島を守ってもらうのよ」
「君がいなければ、皆が困るでしょう」
「私がいなくても、アステリアは動くわ」
ダイアナは、彼の手を握った。
「でも、今のあなたを一人で王都へ行かせることはできない」
レオンは彼女を見つめた。
その目に、申し訳なさが浮かぶ。
「……すみません」
「謝らないで」
ダイアナは、彼の指をそっと包んだ。
「あなたの妻なのだから」
―
出発の前日。
エドガーが、必要な書類をすべて整えてくれた。
氏族会議の予定。
交易の報告。
港の防衛に関する指示。
ダイアナが不在の間、エドガーが判断できる範囲も明確に定めた。
「島のことは、私にお任せください」
「お願いするわ」
「お二人が戻られるまで、滞りなく進めます」
ダイアナは頷いた。
エドガーは、レオンのいる部屋へ視線を向けた。
「レオン様も、どうかご無理をなさらずに」
「ありがとうございます、エドガー」
レオンは微笑んだ。
その笑顔を見て、エドガーは一瞬だけ言葉を失った。
何かを言おうとしたのだろう。
けれど、結局は静かに頭を下げただけだった。
ダイアナは、その様子を見ていた。
誰も、まだ諦めていない。
医師も。
エドガーも。
そして、自分も。
王都へ行けば、何かが変わるかもしれない。
そう信じたかった。
―
王都への船旅は、厳しかった。
夏の海は冬ほど荒れてはいなかったが、レオンの身体は、以前のように揺れに耐えられなかった。
船室で横になっている時間が長くなった。
食事も、ほんの少ししか取れない。
時折、咳が続き、呼吸を整えるために目を閉じる。
ダイアナは片時も彼のそばを離れなかった。
水を用意し、毛布を掛け直し、医師から預かった薬を飲ませる。
夜、レオンが眠ったあとも、彼女は彼の呼吸を確かめていた。
眠っている顔は穏やかだった。
それでも、息が浅くなるたびに目が覚めた。
「……お願い」
暗い船室で、小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、間に合って欲しかった。
―
王都に着くと、すぐに医師のもとへ向かった。
詳しい診察が行われ、いくつもの処置が試された。
薬を変え、食事を工夫し、安静に過ごす。
ダイアナは医師の指示を一つずつ守った。
レオンが少しでも食べられれば喜んだ。
咳が落ち着いた夜には、ようやく眠れる気がした。
けれど、良くなったと思う翌日には、また熱が出る。
少し歩けるようになったかと思えば、次の日には寝台から起き上がることさえ難しくなる。
医師たちは懸命に診てくれた。
できることを探し、薬を調え、何度も様子を確かめた。
それでも、レオンの身体は、少しずつ弱っていった。
ある夕方。
診察を終えた医師が、ダイアナに告げた。
「今後の見通しは、厳しいと言わざるを得ません」
ダイアナは、医師の顔を見つめた。
「……治る可能性は?」
「出来る限りのことは続けます。
ですが、今のところ、はっきりとした回復の兆しは見られません」
それ以上、何も聞けなかった。
医師が部屋を出て行く。
ダイアナは、しばらくその場に立っていた。
王都まで来た。
ここなら、できることがあると思った。
この人を助けるためなら、どこへでも行くつもりだったのに。
それなのに、何も変えられないのだろうか。
初めて、そう思った。
―
その夜。
レオンは、窓辺の椅子に座っていた。
身体を起していられる時間が、少しだけ戻っていた。
ダイアナが部屋へ入ると、彼は顔を上げた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
いつもの言葉。
けれど、その声を聞くと、ダイアナの目が熱くなった。
彼女は彼の隣に座った。
しばらく、二人で窓の外を見ていた。
王都の街には、夕暮れの灯りが灯り始めている。
「ダイアナ」
「何?」
「……アステリアに帰りたいです」
彼女の呼吸が止まった。
レオンは窓の外を見つめたまま、静かに続けた。
「海が見たい」
「……ええ」
「港の鐘を聞きたい。朝、船が出て行く音も」
彼は少し笑った。
「君と暮らしている家へ帰りたいです」
ダイアナは、彼の横顔を見つめた。
王都へ来るとき、二人は治療を受けるために来た。
少しでも長く生きられるように。
再び元気になって、アステリアへ帰るために。
けれど、今、レオンが望んでいるのは、別のことだった。
残された時間はどれほどなのか、彼自身にも分からないのだろう。
それでも、帰りたいと言った。
自分が生きてきた場所へ。
自分が愛した人がいる場所へ。
ダイアナは、彼の手を握った。
「帰りましょう」
レオンが振り返る。
「……いいのですか」
「ええ」
彼女は、涙をこらえながら微笑んだ。
「アステリアへ帰りましょう。
あなたの見たい海を、一緒に見に行きましょう」
レオンは目を閉じた。
その表情から、わずかに力が抜けた。
「……ありがとう」
もう、治療を諦めたわけではない。
奇跡を願う気持ちが消えたわけでもない。
ただ、彼が帰りたいと願う場所を、これ以上遠ざけたくなかった。
―
王都を発つ日は、数日後に決まった。
医師は、旅が身体に負担をかけることを告げた。
それでも、レオン自身が帰郷を強く望んでいること、そして今ならまだ船に乗れる可能性があることを考え、準備が進められた。
ダイアナは必要なものだけをまとめた。
薬。
衣服。
水。
そして、レオンの本。
本の間には、あの栞が挟まっている。
出発の朝。
レオンは馬車へ乗る前に、一度だけ王都の屋敷を振り返った。
長く過ごしたわけではない。
それでも、ここで過ごした時間も、二人の人生の一部だった。
ダイアナは彼の腕を支えた。
「行きましょう」
「ええ」
二人は、港へ向かった。
帰りの船は、ゆっくりとアステリアへ向かった。
レオンの体調は、日ごとに悪くなっていった。
食事を口にできない日が増えた。
咳が長く続き、眠っていても時折苦しそうに眉を寄せた。
ダイアナは、彼の手を握り続けた。
船室の窓から海が見えると、レオンは顔を向けた。
「……きれいですね」
「ええ」
「この海を、君と見られて良かった」
ダイアナは返事ができなかった。
彼は、それ以上何も言わなかった。
ただ、海を見つめていた。
ダイアナは彼の肩に毛布を掛け、隣に座った。
その手を握る。
指先は、以前より細くなっていた。
それでも、まだ温かかった。
数日後。
見張り台から、島影を知らせる声が響いた。
アステリアだった。
ダイアナは甲板に出ようとしたが、レオンの手が彼女の袖をつかんだ。
「……一緒にみたいです」
彼女はすぐに振り返った。
「もちろん」
船員たちに手伝ってもらい、レオンを甲板へ連れていく。
水平線の向こうに、見慣れた山の形が浮かんでいた。
白い砂浜。
高い灯台。
そして、風にはためく銀の三本波。
レオンは、長い間その景色を見つめていた。
「……帰ってきましたね」
「ええ」
ダイアナは彼の手を握った。
「帰ってきたわ」
船が岸に着く。
ロープが結ばれる。
板が渡される。
レオンは、ダイアナに支えられながらゆっくりと陸へ降りた。。
その足が、アステリアの地面に触れた瞬間、彼は、目を閉じた。
潮の匂い。
風の音。
遠くで鳴る港の鐘。
すべてが、そこにあった。
「……ただいま」
レオンが、小さく言った。
ダイアナは彼の腕を支えたまま、涙をこらえた。
「おかえりなさい、レオン」
彼は、ほんの少し笑った。
それが、彼女に見せた最後の穏やかな笑顔になるとは、その時のダイアナは、まだ知らなかった。
―
夏の終わり。
レオンは、再び自分たちの家で暮らし始めた。
けれど、以前のように庭を歩くことはできなかった。
ほとんどの時間を、寝室か、海の見える居間で過ごした。
島の医師が通い、薬を調え、できる限りの世話を続けた。
ダイアナは、頭領としての仕事を再び引き受けながら、毎日レオンのそばにいた。
朝には窓を開ける。
海風を部屋へ入れる。
彼が望めば本を読む。
食事ができれば、一緒に食べる。
眠れない夜には、手を握っている。
特別なことは、何もなかった。
ただ、二人で過ごした。
ある日。
レオンが、机の上の本を指した。
「その本を……取っていただけますか」
ダイアナは本を手に取り、彼に渡した。
本の間から、手作りの栞が滑り落ちそうになる。
彼女は、それをそっと押し戻した。
「この栞、まだ使っているのですね」
レオンは微笑んだ。
「ずいぶん古くなったわ」
「君が大切にしてくれてるから、まだ使えます」
ダイアナは、栞の端を指でなぞった。
三本の波。
一本だけ、少し長い波。
二人で本を読み、遠い国を旅し、いつか一緒に旅行記を書こうと約束した日のことを思い出す。
その未来を、彼女はまだ諦めたくはなかった。
けれど、レオンの目は、以前よりもずっと静かだった。
「ダイアナ」
「何?」
「ここへ帰ってこられて、よかった」
ダイアナは、彼の手を握った。
「……ええ」
「君と、ここで暮らせて良かったです」
「私もよ」
声が震えた。
レオンは、それを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
―
秋の始まり。
朝の風が、少し冷たくなった。
海の色も、夏とは違っている。
ダイアナは、いつものように窓を開けた。
潮の匂いが部屋へ入ってくる。
レオンは、寝台で静かに眠っていた。
その呼吸が、以前より浅いことに、ダイアナは気づいていた。
彼女は隣に座り、手を握った。
「レオン」
返事はない。
「今日は、海がきれいよ」
いつものように話しかける。
「あとで、一緒に見ましょうね」
彼の指先が、かすかに動いた。
ダイアナは、その手を両手で包んだ。
「……約束したでしょう」
遠い国を旅すること。
本を読むこと。
旅行記を書くこと。
年を重ねていくこと。
二人で交わした約束は、まだ胸の中に残っている。
叶わなかった未来を思うと、息ができないほど苦しかった。
それでも、二人が過ごした時間まで失われるわけではない。
「私は、ここにいるわ」
ダイアナは、彼の手に自分の手を重ねる。
「ずっと、あなたのそばにいる」
窓の外では、アステリアの旗が風に揺れていた。
海を忘れず、故郷を忘れず。
それは、アステリアの人々が代々受け継いできた言葉だった。
遠くへ出た者も、故郷を離れた者も。
いつか帰りたいと思った時に、帰って来られる場所を守るための言葉。
レオンは、王都の治療を経て、最後に自分の帰りたい場所を選んだ。
そして、ダイアナはその願いを叶えた。
彼が愛した海。
彼が暮らした家。
彼が人生を共にした妻。
それらに囲まれて、彼はアステリアへ帰ってきた。
秋のある日。
夜明け前から続いていた呼吸が、静かに止まった。
ダイアナは、しばらく彼の手を握ったまま動かなかった。
窓の外では、海が波打っている。
港では、朝の鐘が鳴り始めた。
一度。
二度。
三度。
いつもと変わらない、アステリアの朝だった。
「……レオン」
ダイアナは、彼の名を呼んだ。
もう、返事はなかった。
涙が頬を伝った。
声を上げて泣くことはできなかった。
ただ、彼の手を握りしめた。
彼は帰ってきた。
最後に望んだ場所へ。
そして、ダイアナの人生には、彼と過ごした三年余りの時間が残された。
暖炉のそばで読んだ本。
雪の日に結ってもらった髪。
旅の話。
何気ない朝。
手作りの栞。
銀の指輪。
そして、海を見ながら交わした約束。
彼がいなくなっても、それらは消えない。
ダイアナは、ゆっくりと顔を上げた。
窓の向こうには、どこまでも続く海がある。
「……おかえりなさい、レオン」
今度は、返事を期待せずに。
彼が帰ってきたことを、確かめるように。
「あなたは、ちゃんと帰ってきたわ」
ダイアナは、彼が愛したアステリアの海を、静かに見つめていた。




