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第30話 雪の日

ダイアナとレオンが結婚して、二度目の冬を迎えた。


その年の冬、レオンは王都へ戻らなかった。

アステリアの領事館を開いてから、王都と島を行き来する生活が続いていたが、ようやく大きな交渉が

ひと段落した。

領事館の運営も軌道に乗り、急ぎの案件がなければしばらく島に留まれるようになった。


次の船が出るまで、まだ時間がある。

その間は、アステリアで過ごすつもりだった。


ダイアナは、それを聞いたとき、思いのほか嬉しかった。

もちろん、レオンが島にいること自体は珍しくない。

帰ってくれば、同じ食卓を囲み、仕事をし、夜には二人で暖炉のそばに座る。

けれど、いつも心のどかで、次の出発を意識していた。

王都から手紙が届けば、いつ帰るのかを考える。


領事館からの急ぎの知らせがくれば、予定を調整する。

一緒に過ごせる時間を、どこかで数えていたのかもしれない。


この冬は、その必要がなかった。

雪が降れば、二人で窓の外を眺める。

寒ければ、暖炉のそばで過ごす。

読みかけの本があれば、続きを開く。

そんな当たり前のことを、急がずに楽しめる冬だった。


―

雪が降ったのは、朝食を終えた頃だった。

最初は、細かな白い粒が窓の外を横切るだけだった。

それが次第に大きくなり、港の屋根や石畳をゆっくりと白く染めていく。


ダイアナは窓辺に立ち、外を眺めた。


「今日は、港も静かになりそうね」


背後から、レオンが答える。


「ええ。これほど降れば、小さな船は出さないでしょう」

「見張りの船は?」

「交代の時刻を早めると聞いています。

 無理に沖へ出る必要はありませんから」


ダイアナは振り返った。


「もう報告を受けたの?」

「朝食の前に」

「あなた、いつの間に」

「君がマリーに、今朝のパンは少し焼きすぎだと話している間に」

「……聞いていたの?」

「聞こえていました」


レオンは、何でもないことのように微笑んだ。

ダイアナは少しだけ頬を膨らませた。


「焦げてはいなかったわ」

「ええ。私もそう思います」

「では、どうして黙っていたの?」

「君が料理人を庇うだろうと思ったので」


ダイアナは思わず笑った。

そんなことを話しているうちに、窓の外はすっかり白くなっていた。


今日の予定は、急ぎの会議もなければ、港へ出向く必要もない。

ダイアナは、久しぶりに一日をゆっくり過ごせそうだと思った。


―

午前中、二人は私室の暖炉のそばで本を読んでいた。

ダイアナが選んだのは、遠い国の旅を記した本だった。

山を越え、川を渡り、いくつもの町を訪ねる旅人の記録。


以前、王都からレオンが持ち帰ったものだ。


「この町、覚えている?」


ダイアナが頁を開いたまま尋ねた。

レオンは自分の本から顔を上げた。


「南方の交易都市ですね。

 王都の商人から話を聞いたことがあります」

「いつか行ってみたいわ」

「港の様子も見てみたいですね」

「市場も。どんなものが売られているのかしら」

「香辛料が多いと聞きました。珍しい織物もあるそうです」


ダイアナは、楽しそうに頁をめくった。


「あなたと旅をすると、寄り道ばかりになりそうね」

「それは、君も同じではありませんか?」

「私は、そんなに寄り道しないわ」


レオンは彼女を見た。


「以前、王都の書店で、予定になかった本を三冊も買っていましたね」

「……あれは必要だったの」

「どのように?」

「読んでみたかったから」


レオンは、静かに笑った。


「では、私も同じ理由で寄り道をします」

「そういうところ、すこしずるいわね」

「君に教わりました」


ダイアナは本で顔を隠した。

笑いをこらえきれなかったのだ。

暖炉の薪が、小さく音を立てる。

窓の外では、雪が降り続いている。


レオンは再び本に目を落とした。

けれど、しばらくすると、隣から聞こえていた頁をめくる音が止まった。

見ると、ダイアナは本を開いたまま、何かを考えているようだった。


「どうしました?」

「この旅人、ずいぶん無計画なのね」

「そうですか?」

「ええ。次の町まで何日かかるかも分からないのに、先に宿を出てしまうなんて」

「道中で尋ねれば良いと考えたのでしょう」

「あなたなら、そんなことはしないでしょう?」

「私は、もう少し調べてから出発します」

「でしょうね」


ダイアナは微笑んだ。


「でも、私はこういう旅も好きよ」

「なぜですか?」

「知らない場所で、思いがけないものに出会えるから」


レオンは、その言葉を静かに聞いていた。

自分とは違う考え方。

けれど、そういうところも好きだった。

予定を立て、必要なものを揃え、失敗の可能性を減らしてから動く自分。


その一方で、目の前にあるものに心を動かされ、予定になかった道へ進んでいくダイアナ。


どちらが正しいということではない。

二人で旅をするなら、きっと互いに相手の歩き方を知ることになる。

レオンは、そんな未来を想像した。

そして、もう一度本を開いた。


―

昼食のあと、ダイアナは髪をほどいた。

暖炉の前で長く本を読んでいたせいか、まとめていた髪が少し乱れていた。

いつものように自分で結い直そうとしたが、手を後ろへ回すと、指先が髪に絡まった。


「……あら」


何度か試してみる。

けれど、うまくまとまらない。

その様子を見ていたレオンが、本を閉じた。


「私が結いましょうか」


ダイアナは振り返った。


「あなたが?」

「隣で毎日見ていますから」

「見るのと、やるのは違うわよ」

「それは、やってみなければ分かりません」


あまりに真面目な顔で言うので、ダイアナは笑ってしまった。


「では、お願いしようかしら」


彼女は椅子に座り直した。

レオンは、少し考えてから後ろへ回った。

指先で髪を掬う。

淡い栗色の髪は、思っていたより柔らかかった。


彼は慎重に髪をまとめ始めた。

一度、束が崩れる

もう一度、やり直す。

ダイアナは鏡越しに彼の様子を見ていた。


「……真剣ね」

「動かないでください」

「はいはい」

「今、ほどけると最初からになります」

「分かったわ」


レオンは、少しずつ髪をまとめていった。

何度か指を通し、左右の束を整え、最後に細いリボンで結ぶ。


仕上がりを確認するため、彼は鏡を彼女の前へ向けた。

そこには、いつもより少し不揃いながらきちんとまとめられた髪が映っていた。


「……できたわね」


ダイアナが感心したように言った。


「ええ。何とか」

「思っていたより上手よ」

「それは何よりです」


レオンは安堵したように微笑んだ。

ダイアナは鏡を覗き込み、後ろ髪に手をやった。

少しだけ緩い。

けれど、ほどけるほどではない。


「明日もお願いしようかしら」


レオンは一瞬、驚いた顔をした。


「毎日ですか?」

「嫌?」

「いいえ」


彼は、少しだけ照れたように視線を落とした。


「ただ、もう少し練習が必要ですね」

「では、練習台になってあげる」


二人は笑った。

夫婦になって二年目の冬。

誰かに見せる必要も、記録に残す必要もない、小さな時間だった。


―

午後、雪はさらに強くなった。

窓の外は白く霞み、遠くの灯台も輪郭がぼやけている。


ダイアナは暖炉のそばへ椅子を寄せ、レオンの隣に腰を下ろした。

彼は先ほどから、ときどき咳をしていた。


最初は一度、二度。

本を読んでいる途中に喉を整えるような小さな咳だった。

けれど、しばらくすると、少し長く続くことがあった。


ダイアナは顔を上げた。


「風邪かしら?」


レオンは口元から手を離した。


「どうでしょう。少し喉が乾いているだけかもしれません」

「お茶を淹れましょうか」

「ありがとうございます。ですが、大丈夫です」


そう言いながら、彼は本を閉じた。

ダイアナは、その横顔を見た。

ここ数日、レオンは前より疲れやすくなったように見える。


朝、起きてくるのが遅い日もあった。

食事を残すことも、少し増えた。

階段を上がったあと、手すりに手を置いて息を整えていることもある。


ただ、王都と島を行き来する生活が続いていたのだから、

疲れが溜まっていても不思議ではない。

そう思っていた。


この冬は、ようやく落ち着いて過ごせる。

ならば、少し休めば元に戻るだろう。

ダイアナは、そう考えることにした。


「今日は、もう本を読むのをやめましょう」

「まだ、途中ですが」

「続きは明日でもいいでしょう?」


レオンは、彼女を見た。

その表情に、わずかな戸惑いが浮かぶ。

けれど、すぐに本を閉じた。


「……そうですね」


ダイアナは、暖炉のそばに置いてあった毛布を手に取った。

レオンの肩へかける。

彼は少し驚いたように彼女を見たが、何も言わず、その毛布を受け入れた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


ダイアナは隣の椅子へ戻った。

しばらく、二人とも何も話さなかった。


薪が燃える音。

窓を叩く雪。

遠くで、風が石壁を撫でていく。


レオンは目を閉じていた。

眠っているのかと思ったが、しばらくして、彼が静かに口を開いた。


「……こういう日も、いいですね」


ダイアナは、彼を見た。


「ええ」

「仕事のことを考えずに、一日を過ごすのは久しぶりです」

「あなたは、いつも仕事のことを考えているもの」

「君もでしょう」

「私は頭領だから」

「私も、領事です」


ダイアナは笑った。


「そうだったわね」


レオンも少しだけ笑った。

それから、再び目を閉じた。

ダイアナは、彼の手にそっと触れた。

指先は、いつもより少し冷たかった。

けれど、握り返してくる手には、確かな温かさがあった。


まだ、この時の彼女は知らなかった。

何気ない冬の日の中に、小さな変化が少しずつ積み重なっていることを。

そして、いつか、思い返すことになる、この雪の日の温かさを。


ただ、その日も二人は夫婦として、同じ部屋で同じ時間を過ごしていた。

窓の外には、雪が降り続けていた。

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