第29話 風波
ダイアナとレオンが結婚して、一年が過ぎた。
アステリアの春は、忙しさと共にやってきた。
レオンはアステリアと王都を行き来する生活が続いていた。
王都にアステリアの領事館を開いてから、役人と交渉を重ねる、交易の取り決めを整え、
領事館に届く陳情を処理し、島から持ち込まれた問題を王都の制度に照らして解決する。
アステリアに戻れば、今度は島の商人たちが彼を待っている。
船の修理費用。
交易税の見直し。
王都から届いた新しい規則への対応。
レオンが不在の間に積み上がった書類は、帰ってきたその日から彼の机を埋め尽くした。
それでも、彼は仕事を嫌がらなかった。
領事館を設けたのは、自分自身の提案だった。
アステリアが外の世界と関わりながら、独立した国として生きていくために必要だと考えたからだ。
ただ、その仕事が想像していた以上に多かった。
そして、ダイアナの仕事もまた、増えていた。
このところ、アステリア近海で海賊船や正体の分からない船が目撃されるようになった。
商船を装った船。
夜間に島の周囲を航行する船。
港へ近づきながら、呼びかけにも応じず、突然進路を変える船。
いずれも、ただちに敵と断定できるものではない。
だが、見過ごすわけにもいかなかった。
見張りの配置を見直し、船団の巡回を増やし、商船の航路を確認する。
ダイアナは毎日のように報告を受け、判断を下していた。
二人とも、以前より忙しくなった。
そして、忙しさは、時に夫婦の間にも入り込んだ。
―
その朝、ダイアナは執務室で一通の報告書を読んでいた。
北東の海域で、正体不明の船が確認されたという。
船影は二度目撃されている。
一度目は夜明け前。
二度目は、その翌日の夕方。
どちらも、アステリアの巡回船が近づくと沖へ離れていった。
「また……」
ダイアナは報告書を机に置いた。
敵意があるのか。
ただ航路を探っているだけなのか。
判断するには情報が足りない。
そこへ、レオンが入ってきた。
王都から戻ったばかりだった。
外套を脱ぎ、手袋を机に置くと、彼はダイアナの前に一枚の書類を差し出した。
「王都から、海域の安全について問い合わせが届いています」
「安全について?」
「北方の商会が、アステリア近海で不審船を見たそうです。交易船の護衛を増やせないかと」
ダイアナは書類を受け取った。
「こちらでも、確認しているわ。巡回船を増やすつもりよ」
「それは、分かっています。ただ、現在の船数では、すべての航路を十分に守るのは難しいでしょう」
「だから増やすと言っているの」
レオンは一瞬、言葉を止めた。
「……増やすにしても、乗組員の確保と費用の問題があります」
「費用のことなら、私も考えているわ」
「では、王都から一部の護衛船を派遣してもらう案はどうでしょう?」
ダイアナの手が止まった。
「王都の船を?」
「期間を限定すれば、アステリアの負担を減らせます」
「その代わり、王都の船がこの島の海を巡回するのね」
「安全を守るためです」
「アステリアの安全は、アステリアが守るわ」
声が、少しだけ強くなった。
レオンは表情を変えなかった。
「その方針に異論はありません。
ただ、島の船だけでは対応しきれない場合も考えるべきです」
「まだ、対応できないと決まったわけではないでしょう」
「ええ。ですが、手遅れになってからでは遅い」
その言葉に、ダイアナは顔を上げた。
レオンは、彼女を見ていた。
冷静で、穏やかで、いつもと変わらない顔。
けれど、今のダイアナには、その言葉が少し違って聞こえた。
自分の判断を信用してないのだろうか。
アステリアの海を知らない人間に、島の防衛を任せるつもりなのだろうか。
そんな考えが、次々と浮かんだ。
「あなたは、私たちだけでは守れないと思っているの?」
レオンの眉が、わずかに動いた。
「そういう意味ではありません」
「でも、今の言い方ではそう聞こえるわ」
「ダイアナ。私は可能な手段を検討すべきだと」
「私だって、考えているわ」
沈黙が落ちた。
窓の外では、港の鐘が鳴っていた。
レオンは、机の上の報告書に視線を落とした。
それから、静かに言った。
「……分かりました。まずは、現在の巡回計画を確認しましょう」
ダイアナは、すぐには返事をしなかった。
レオンはそれ以上、自分の案を押し通そうとはしなかった。
書類を一枚取り上げ、内容を確かめる。
その横顔を見ながら、ダイアナは胸の奥に小さな引っ掛かりを覚えた。
まただ。
この人は、こういう時に引く。
自分が納得していないことを察すると、それ以上は言わなくなる。
以前なら、単に冷静な人なのだと思っていた。
けれど、夫婦になって一年。
今では、その沈黙の意味が少しだけ分かる。
レオンは、彼女の判断を尊重している。
同時に、彼女を怒らせたくないとも思っている。
そして、自分の言葉が彼女を傷つけたことに気づいている。
それでも、言いたいことがなくなったわけではない。
ただ、今はこれ以上話しても、互いに本当に伝えたいことから離れてしまう。
そう、判断して、引いたのだ。
そのことに気づいた瞬間、ダイアナの胸が少し痛んだ。
彼は、まだ何か言いたかったのだろう。
自分が、その機会を奪ってしまったのかもしれない。
―
昼食の席でも、二人はいつもより口数が少なかった。
レオンは王都での交渉について話し、ダイアナは午後に予定されている巡回船の報告を確認していた。
食事は温かいうちに食べる。
以前、レオンが彼女に何度も言っていたことだった。
けれど、その日は二人とも、料理が冷めかけていることに気づかなかった。
「午後は、北側の見張り台へ行くのですか?」
レオンが尋ねた。
「ええ。船員たちと話してくるわ」
「私も同行しましょう」
ダイアナは顔を上げた。
「あなたは領事館の報告をまとめるのでしょう?」
「それは夕方でもできます」
「疲れているでしょう。戻ったばかりなのに」
「問題ありません」
その答えに、ダイアナは少しだけ眉を寄せた。
「無理をする必要はないわ」
「無理をしているつもりはありません」
「でも、あなたはいつもそう言うでしょう」
レオンは、手にしていた杯を置いた。
「……君も、同じことを言いますよ」
「私は本当に大丈夫なの」
「私もです」
二人は、しばらく見つめあった。
そして、ほとんど同時に視線を逸らした。
ダイアナは、思わず息を吐いた。
こんなことで、また言い合いになりかけている。
相手を心配しているだけなのに、その気持ちをどうして素直に受け取れないのだろう。
レオンも、同じことを考えていた。
彼女が無理をしているように見えた。
だから、そばにいたかった。
けれど、彼女には彼女の仕事がある。
自分が同行することを望んでいるとは限らない。
それを分かっているからこそ、彼は強く言えなかった。
「……では、私は領事館の仕事を進めておきます」
レオンが静かに言った。
ダイアナは、少しだけ顔を伏せた。
また、引いた。
今度は、彼が心配されている側だった。
それでも、彼は自分の意見を押し通そうとはしなかった。
ダイアナは、食卓の向こうにいる夫を見た。
自分が心配していることを、彼は分かっている。
けれど、心配されることを素直に喜べないところもある。
それは、ダイアナ自身も同じだった。
「……レオン」
呼びかけると、彼が顔を上げた。
「午後、少しだけ一緒に来てくれる?」
レオンは、一瞬だけ目を見開いた。
「私でよければ」
その答えに、ダイアナは小さく笑った。
「あなたがいいの」
今度は、レオンが言葉を失った。
やがて、彼は穏やかに微笑んだ。
「では、ご一緒します」
―
午後。
二人は北側の見張り台へ向かった。
海から吹く風は冷たかったが、空は良く晴れていた。
見張り台では、船員たちが交代で沖を監視している。
ダイアナは報告を受け、レオンは海図と照らし合わせながら航路を確認した。
二人の仕事は、思っていた以上に嚙み合った。
ダイアナは海の変化や、島の船員たちの感覚をよく知っている。
レオンは、船影の位置や報告の時刻を整理し、相手の行動に一定の規則性がないか調べていた。
「この船は、北東から来ているように見えます」
レオンが海図を指した。
「でも、二度目は南へ向きを変えているわ」
「ええ。こちらの巡回船を確認した後、進路を変えた可能性があります」
「何かを探っているのかしら?」
「その可能性はあります。ただ、まだ断定はできません」
ダイアナは頷いた。
「では、明日は巡回船を一隻、少し離れた位置に置きましょう。
直接追うのではなく、相手がどこへ向かうかを見るの」
レオンは、しばらく考えた。
「……それなら、王都の船を入れる必要はありませんね」
ダイアナは彼を見た。
レオンは、少しだけ笑っていた。
「まずは、君の案で進めてみましょう」
その言葉に、ダイアナは先ほどの会話を思い出した。
彼は、意見を変えたわけではない。
王都の船を使う案が、完全に必要なくなったわけではない。
ただ、今は彼女の考えを試す価値があると判断したのだ。
そして、その判断を口にすることに、もうためらいはなかった。
ダイアナは、彼の隣に立った。
「ありがとう」
「何がです?」
「私の考えを聞いてくれて」
レオンは、少しだけ目を細めた。
「君の考えを聞くのは、当然のことです」
その答えは、いつもと同じだった。
けれど、今は、その言葉の意味が以前より深く分かる気がした。
レオンは、ダイアナの夫である前に、彼女を一人の頭領として尊重している。
そして、ダイアナもまた、レオンを夫であると同時に、優れた外交官として信頼している。
その二つを、どう両立させるのか。
まだ、二人とも答えを探している途中だった。
―
帰り道。
夕日が海を赤く染めていた。
ダイアナは、隣を歩くレオンを見上げた。
「今朝は、ごめんなさい」
レオンは足を止めた。
「何についてですか?」
「あなたの提案を、きちんと聞く前に怒ってしまったこと」
レオンは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「私も、少し急ぎすぎました。
君が島の海をどれほど大切にしているか、分かっていたつもりだったのですが」
「分かっていたでしょう?」
「ええ」
「それでも、心配だったのね」
レオンは、わずかに笑った。
「……そうですね」
ダイアナも笑った。
「私も、あなたが心配だったのよ」
「わかっています」
「本当に?」
「ええ。ですから午後は同行しました」
その答えに、ダイアナは思わず笑った。
「あなた、そういうところは少しずるいわ」
「そうでしょうか」
「ええ」
レオンは、それ以上言い返さなかった。
けれど、彼の手がそっと伸びてきて、ダイアナの手に触れた。
彼女も、その手を握り返した。
朝の言い合いが、なかったことになるわけではない。
二人の考えが、急に同じになるわけではない。
それでも、こうして、少しずつ分かり合っていける。
それが、夫婦として過ごすということなのかもしれなかった。
―
夜。
執務室には、まだ灯りが残っていた。
レオンは領事館へ送る書状をまとめ、ダイアナは巡回船の配置を記した報告書を確認していた。
二人とも、仕事はまだ終わっていない。
けれど、机の端には、温かい茶が二つ置かれていた。
レオンが先に淹れたものだった。
ダイアナが顔を上げると、彼は書類から目を離さずに行った。
「冷めないうちにどうぞ」
「あなたもね」
「ええ」
短いやり取り。
それだけで、十分だった。
窓の外では、灯台の光が海を照らしている。
沖には、まだ不審船がいるかもしれない。
王都には、片付けなければならない仕事が残っている。
明日になれば、また意見が食い違うこともあるだろう。
それでも、二人は同じ部屋にいた。
同じ海を守ろうとしていた。
そして、互いの手の届く場所にいた。
結婚して一年。
二人は、ようやく知り始めていた。
愛することと、共に生きることは、同じではない。
けれど、違いを知ることは、離れる理由ばかりではない。
相手が何を大切にしているのか。
何を恐れているのか。
なぜ、ある瞬間に言葉を止めるのか。
そうした小さなことを知っていくたびに、二人の間には、夫婦としての時間が積み重なっていく。
アステリアの海は、いつも穏やかとは限らない。
風が変われば、波が立ち、時には船の進路を見失うこともある。
それでも、海を知る者は、風が止むのを待ち、潮の流れを読み、また進み始める。
レオンとダイアナも、そうしていくのだろう。




