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第28話 家

王都へ向かう船を見送ってから、数日が過ぎた。


カイルは、港に近い宿を引き払い、トーマスの家へ移ることになった。

きっかけは、トーマスの何気ない一言だった。

住む場所が決まっていないなら、うちへ来ればいい。


それだけの話だった。


カイルは、最初、遠慮した。

トーマスの家は広くはない。長年一人で暮らしてきた家に、他人が加われば不便も増えるだろう。

けれど、トーマスは気にしなかった。


使っていない部屋がある。

食卓に椅子を一つ増やせばいい。

船乗りが一人増えたところで、どうということはない。


そう言って、話を終わらせた。

カイルは結局、その申し出を受け入れた。

自分で選んだ島での暮らしを、ここから初めて見ようと思ったのだ。


―

トーマスの家は、港から歩いてほど近い場所にあった。

石造りの壁に、風雨にさらされた木の扉。

窓辺には古い道具が置かれ、玄関の脇には、使い込まれた長靴が並んでいる。


飾り気はない。

けれど、長く海と共に暮らしてきた人間の家らしい、落ち着いた空気があった。


カイルが荷物を運びこむと、空いていた部屋はすぐに彼のものになった。


衣服を収める箱。

航海用具。

何冊かの本。

折りたたんだ海図。



それらが置かれるだけで、部屋の様子は少し変わった。

翌朝から、カイルは港へ出かける前に家の仕事を手伝うようになった。


薪を割り、傷んだ蝶番を直し、雨漏りしかけた屋根を確かめる。

船の修理なら慣れているが、家の修繕は勝手が違う。

トーマスにやり方を教わりながら、少しずつ覚えていった。


二人で暮らすようになっても、特別なことが増えたわけではない。


朝になれば港へ出る。

日が暮れれば帰る。

食事を取り、翌日の仕事の確認をする。


それだけだった。

けれど、誰かのいる家へ帰るというのは思っていたより悪くなかった。

以前の宿では、仕事が終われば一人だった。

それが、寂しかったわけではない。

一人で過ごすことには慣れていたし、むしろ気楽でもあった。


ただ、今は、帰れば食卓に灯りがあり、トーマスが港の様子を話している。

カイルが何も言わずに座っても、無理に話題を探す必要はない。


時には、二人とも黙ったまま食事を終える。

その沈黙が気まずくないことを、カイルは少しずつありがたく感じるようになっていた。


―

ある朝、カイルは庭先に置かれた大きな木材に気づいた。

乾燥させた船材だった。

長さも厚みも揃っているが、かなりの量がある。


「何を造るんだ?」


尋ねると、トーマスは作業場の奥を顎で示した。

そこには、船の骨組みがあった。

まだ船底の形が見える程度で、外板もすべては張られていない。


それでも、船首の曲線には無駄がなく、船体の幅もよく考えられていた。

カイルは思わず近づいた。

船は、造りかけの姿にこそ、造り手の考えが表れる。


どんな海を進ませたいのか。

どれほどの荷を積むのか。

速さを優先するのか、荒天での安定を重んじるのか。


骨組みを眺めるだけで、様々なことが見えてくる。


「ずいぶん前から造っていたんだな」


トーマスは頷いた。


『海燕号』

それが、この船の名前だった。


トーマスが長年温めてきた計画で、完成すれば、アステリア近海の荒れた海でも安定して

航行できる船になるはずだった。


しかし、建造は途中で止まっていた。

必要な木材も、設計図も揃っている。

船大工たちも、協力は惜しんでいない。

足りないのは、船を完成へ導く時間と、それを支える手だった。


カイルは船体の脇に立ち、設計図を広げた。

図面には、船首の角度や船底の深さ、帆柱の位置が細かく書き込まれている。

余白には、トーマス自身の手で何度も修正した跡があった。


一度で完成させるつもりなど、最初からなかったのだろう。

海を知る者らしい、粘り強い仕事だった。

カイルは図面と実際の骨組みを見比べた。


船首をわずかに調整すれば、向かい風のときの進み方が変わるかもしれない。

ただし、船の重心にも影響する。

簡単には決められなかった。

カイルは図面の端を押さえ、しばらく考え込んだ。


久しぶりに、時間を忘れて船のことだけを考えていた。


―

その日から、カイルは海燕号の建造を手伝うようになった。

朝は港の仕事をこなし、午後には作業場へ戻る。

船大工たちと木材を選び、船体の寸法を確認し、設計を少しずつ見直していく。


時には、トーマスと意見が食い違うこともあった。

長年の経験を持つトーマスは、昔からの造船法をよく知っている。

一方のカイルは、王都の海軍んで学んだ知識や、遠い海域で得た経験を持っていた。


同じ海を知っていても、見てきたものは同じではない。

だからこそ、二人の意見が重なると、新しい考えが生まれることもあった。


船体の形が少しずつ整っていくにつれ、カイルの中にも、これまでとは違う感覚が育っていった。

自分は、ただこの島に滞在しているのではない。

この島で作られる船に、自分の考えが残る。

この港を出ていく船の安全に、自分の仕事が関わる。


若い船乗りたちが海へ出るとき、自分が伝えた知識が彼らを助けるかもしれない。

そうしたことを考えると、アステリアで過ごす時間が、以前よりも確かなものに思えた。


―

ある夕方。

作業場の隅で、トーマスが腰を下ろしていた。

いつもなら、誰よりも先に動き出す男だった。

船材の確認をし、船大工に指示を出し、港を歩き回る。


けれど、その日は長い間、動かなかった。

カイルは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


トーマスは以前より、休む時間が増えている。

階段を上がるときに手すりへ手を置くことも、重い木材を持ち上げる前に一度息を整えることもあった。


本人は何も言わない。

周囲も、必要以上に気を遣わない。


トーマスは、もう若くない。

長年、海の上で風を読み、船を動かしてきた身体にも、少しずつ衰えが表れている。

そのことを、カイルも分かっていた。

しばらくして、トーマスが設計図を手に取った。


完成していない海燕号を、静かに眺める。


「俺が、いつまで港で働けるかわからん」


その声は、いつもより低かった。


カイルは何も言わず、隣に腰を下ろした。

トーマスは図面を膝に置いたまま、続けた。


海燕号を完成させたい。

港の仕事も、若い船乗りたちへの指導も、まだやり残した仕事がある。

だが、これから先、今までと同じように働けるとは限らない。

だからこし、誰かに渡していかなければならないものがある。


舩の造り方。

海の読み方。

嵐の前に見える小さな変化。

そして、遠くへ出た船が、無事に港へ帰ってくるために必要なこと。


それらは、書物に残すだけでは足りない。

実際に海を知る人間が、次の世代へ伝えていく必要がある。


トーマスは、カイルを見た。

長い説明はなかった。


海燕号の完成を手伝って欲しいこと。

海の仕事を少しずつ引き受けて欲しいこと。

若い船乗りたちにも、自分が知っていることを伝えてほしいこと。


必要なことだけを、静かに伝えた。

カイルは、すぐには答えなかった。


その先には、まだ形になっていない未来がある。

自分がこの島に残ると決めた時、考えていたのは、自分の船を持ち、海へ出て

また帰ってくる暮らしだった。


けれど今は、それだけではない。

この島の海を次の世代へ伝えることも、自分が担える仕事なのかもしれない。


カイルは、ゆっくりと設計図を受け取った。


「分かった。最後まで手伝う」


それだけ言うと、図面を広げ直した。

トーマスは、小さく頷いた。


―

それから、家の中にも変化が増えた。

夕食の後、二人で翌日の仕事を確認するようになった。

作業場から持ち帰った設計図が、食卓の端に置かれる。

カイルが航路の話をすれば、トーマスが昔の航路の経験を付け加える。


時には、船の話が長くなりすぎて、食事が冷めることもあった。

それでも、二人とも気にしなかった。


トーマスにとって、カイルはもう、ただ港にやってきた若い船乗りではなかった。

自分の知識を受け取り、異なる経験を持ち込み、海燕号を一緒に完成させようとする相手だった。


カイルにとっても、トーマスは仕事を教えてくれる年長者というだけではなくなっていた。

何も言わずに食卓へ席を用意してくれる人。

自分が迷っているときに、無理に答えを求めない人。


そして、これから先の仕事を一緒に考えられる人。

家族という言葉を、わざわざ口にする必要はなかった。

日々の暮らしの中で、二人の関係は少しずつ、その形に近づいていた。


―

夜。


カイルは自室の窓を開けた。

港の灯りが見える。


海燕号の骨組みは、夜の中では輪郭だけになっていた。

まだ、完成していない。

これから先、手を加えなければならない部分も多い。


けれど、あの船は確かに形になり始めている。

自分も同じなのかもしてない、とカイルは思った。


王都へ戻る道を選ばなかったとき、これから何をして生きていくのか、

すべてが決まっていたわけではない。


ただ、この海で生きてみたいと思った。

今は、その思いが少しずつ具体的な形になっている。


仕事がある。

帰る家がある。

自分の力を必要としてくれる人がいる。


そして、いつか海燕号を完成させ、遠くの海へ出る日が来るだろう。

その航海を終えた時、帰る港は決まっている。


カイルは窓を閉めた。

階下から、トーマスが食器を片付ける音が聞こえた。

明日も、港へ出る。

船を造り、海を学び、島の人々と暮らしていく。


それが、今の自分が選んだ人生だった。

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