第27話 凪
出航当日。
王都へ出航するために、外交船の準備が整えられていた。
冬の最後の船だった。
帆はすでに張られ、甲板では船員たちが出航の準備を進めている。
港には、王都へ戻る者たちを見送る人々が集まっていた。
カイルは、少し離れた岸壁に立ち、船を眺めていた。
乗ろうと思えば、まだ間に合う。
王都には家族がいる。
かつて海軍で共に働いた仲間もいる。
戻れば、これまでの経験を生かして仕事を見つけることもできるだろう。
戻る場所がないわけではなかった。
それなのに、船を目の前にすると、帰ったあとの暮らしが、どこか遠いものに感じられた。
カイルは、海へ目を向けた。
アステリアに来たばかりの頃、この島は一時的な滞在先に過ぎなかった。
任務を終えれば王都へ戻る。
それが、当然だと思っていた。
けれど、ここで過ごすうちに、少しずつ変わっていった。
朝の港に響く鐘の音。
潮の流れを読みながら船を出す時間。
船大工たちと木材の具合を確かめ、船体の造りについて話し込むひととき。
仕事を終えたあと、馴染みの顔と交わす何気ない言葉。
いつの間にか、そうした日々が自分の暮らしになっていた。
海へ出れば、帰ってくる港の景色が思い浮かぶ。
そのことに気づいたのは、いつだっただろう。
カイルは、ゆっくり息を吐いた。
自分は、この島を気に入っている。
海だけではない。
この島で生きる人々も、ここで任される仕事も、自分の手で何かを築いていける暮らしも。
そして、ダイアナが、この島にいることも。
彼女を思えば、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
選ばれたのは自分ではなかった。
それでも、彼女が自分の意志でレオンを選んだことを、悔やませたいとは思わなかった。
ダイアナには、ダイアナの人生がある。
彼女を大切に思う気持ちと、自分がどこで生きたいかということは、同じではない。
その二つを、ようやく別々に考えられるようになっていた。
「乗らないのか」
背後から声がした。
振り返ると、トーマスが立っていた。
カイルは再び船へ目を向けた。
「……まだ、間に合うな」
「そうだな」
トーマスは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、カイルの隣に立ち、同じ船を眺めていた。
―
出航を知らせる鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
船員たちが最後の確認を終え、岸壁に渡されていた板が引き上げられる。
係留ロープが外された。
船体が、ゆっくりと岸を離れていく。
カイルは動かなかった。
風を受けた帆が膨らみ、船首が沖へ向きを変える。
甲板には、こちらへ手を振る者の姿もあった。
港に残る者たちが、それに応える。
やがて船は、港の外へ進んでいった。
カイルは、その姿を見送った。
王都へ戻れば、別の人生があったはずだ。
懐かしい街で、かつての仲間と再会し、以前と同じように海の仕事を続けることもできただろう。
それを失う寂しさが、まったくないわけではない。
けれど、船が小さくなっていくにつれて、胸の奥にあった迷いが、少しずつ静まっていった。
決断を先伸ばしにしていた間、心の中では何度も二つの未来を行き来していた。
戻るべきか。
残るべきか。
どちらを選べば後悔しないのか。
けれど、今はもう、答えを探す必要がなかった。
自分は、この島に残る。
誰かに引き留められたからではない。
ダイアナのそばにいたいという気持ちだけではない。
自分が、この海で生きたいと思ったからだ。
カイルは、遠ざかる船を見つめたまま、わずかに口元を緩めた。
船影はやがて、水平線の向こうへ消えていった。
「……行ったな」
トーマスが静かに言った。
「ああ」
カイルは短く答えた。
その声には、先ほどまでの迷いがなかった。
―
船が見えなくなっても、カイルはしばらく岸壁に残っていた。
港では、すでに次の仕事が始まっている。
若い船員がロープを運び、船大工たちが修理の予定を確認していた。
沖では漁船が帰港し、岸壁には荷が運び込まれている。
いつもと変わらない、アステリアの一日だった。
カイルもまた、その日常へ戻っていく。
腕を振るえる仕事がある、
覚えたい技術も、伝えたい経験もある。
これから先、自分の手で築いていけるものがある。
王都を離れることで失うものばかりを考えていたが、残ることで得られるものも確かにあった。
「仕事に戻るか」
トーマスが言った。
カイルは頷いた。
「ああ」
二人は港の奥へ歩き出した。
その途中、カイルは一度だけ海を振り返った。
風は弱く、波は穏やかだった。
けれど、海がいつまでもこのままでいるわけではない。
風向きが変われば、波は立つ。
季節が巡れば、海は荒れる。
自分も、これから先、迷うことがあるだろう。
この島に残ったことを、難しいと思う日も来るかもしれない。
それでも、迷った末に自分で選んだ道なら、選んでいける。
カイルは再び前を向いた。
王都へ向かう船は、もう見えない。
けれど、自分がこれから帰ってくる港は、目の前にある。
その朝、カイルの心に、静かな凪が訪れていた。




