第26話 誓い
ダイアナは、元気な赤ん坊だった。
生まれたときから声が大きく、よく泣き、よく笑った。
少し目を離せば寝台の上で手足をばたつかせ、抱き上げれば小さな指でマリーの服をぎゅっと握った。
「この子は、きっと大物になりますよ」
そう言って笑ったのは、まだ若かった頃のマリー自身だった。
あれから、ずいぶん長い年月が流れた。
両親を失い、頭領となり、島の未来を背負うようになったダイアナ。
幼い頃の面影を残しながらも、いつしか誰よりも頼もしい女性へと成長していった。
そのダイアナが、今日、花嫁になる。
マリーは、支度を終えたダイアナの姿を見つめながら、胸の奥にこみ上げるものを
そっと飲み込んだ。
本当に大きくなられた。
そして、今日、ダイアナは、自分の意思で選んだ人と新しい人生を始めるのだ。
―
春のアステリアは、海から目覚める。
冬の間荒れていた波は穏やかになり、港には久しぶりに多くの船が集まっていた。
帆柱には色鮮やかな旗が掲げられ、船体には新しく磨かれた木の艶が戻っている。
朝の風には、潮の匂いに混じって花の香りがあった。
砦へ続く石畳には、春の花と貝殻が飾られていた。
島の女たちが編んだ花輪が門を彩り、子どもたちは拾い集めた白い貝殻を道の両側へ並べている。
それぞれの氏族の旗が、丘の上ではためいていた。
その中央には、群青の布地に銀の海鷲と三本の波を描いたアステリアの旗が掲げられていた。
今日はギャザリングの日。
七氏族が集まり、島の未来について話し合う日である。
けれど今年は、それだけではなかった。
アステリアの頭領が、夫を迎える日でもあった。
―
ダイアナは、窓辺に立っていた。
母から受け継いだ銀の髪飾りが、まとめた淡い栗色の髪に淡く光っている。
首元には海鷲を象ったペンダント。
左手の薬指にはレオンから贈られた銀の指輪があった。
飾り立てすぎない、アステリアらしい花嫁姿だった。
深い青の衣装には、銀糸で三本の波が刺繍されている。
その一本だけが、わずかに長い。
アステリアの海を表す、古くからの意匠だった。
ダイアナは指輪に触れた。
冬の別れ際、レオンがくれたもの。
そして、もう一つ。
本の間に挟んである手作りの栞を思い出す。
三本の波と小さな貝殻。
彼が自分の手で作ってくれた。
ささやかな贈り物。
思い返せば、二人の始まりは本だった。
知らない島について知ろうとした男と、島の外の世界を知る男に興味を持った女。
本を通して言葉を交わし、少しずつ互いを知り、やがて離れていても相手を思うようになった。
そして、今。
その人が、約束通り帰ってきた。
春になったら帰ってくる。
レオンは、そう言った。
ダイアナは窓の外を見た。
海は明るく、空は澄み渡っている。
今日という日が来たことが、まだ信じられないほど嬉しかった。
―
婚礼の儀は、海を見下ろす古い石造りの礼拝堂で行われた。
礼拝堂の壁には、アステリアの歴史を伝える古い織物が掛けられている。
祭壇の奥には大きな窓があり、その向こうには青い海と、港に並ぶ船の帆が見えた。
天井から吊るされた小さな銀の鐘が、春風に揺れている。
祭壇の前には、七氏族から持ち寄られた七つの石が置かれていた。
それぞれ異なる色と形をしているが、一つの円を描くように並べられている。
アステリアでは、結婚は二人だけの約束ではない。
互いの人生を尊重し、共に歩むと誓うこと。
そして、島の人々の輪の中へ新しい家族を迎えること。
それが、婚礼の意味だった。
レオンは祭壇の前に立っていた。
濃紺の礼装には、銀の海鷲が刺繍されている。
王都で身に着けていた華やかな装いとは違い、飾りは控えめだった。
それでも、その姿には気品があった。
けれど、ダイアナが礼拝堂へ入ってきた瞬間。
レオンの表情が、ほんの少し変わった。
彼女が歩いてくる。
花の飾られた石畳を進み、集まった人々の間を通り、祭壇へ向かってくる。
レオンは目を離せなかった。
美しいと思った。
けれど、それだけではなかった。
彼女はここにいる。
自分が帰ってきたかった場所に。
自分がこれから生きていきたいと思った島に。
そして、自分が人生を共にしたいと願った人が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
ダイアナが隣に立つ。
二人の視線が重なる。
彼女は微笑んだ。
レオンも、いつもの穏やかな微笑みを返した。
その一瞬だけで、ダイアナには十分だった。
―
司祭が、二人の前に立った。
外からは、波の音が聞こえている。
集まった人々は静まり、礼拝堂には春の光が満ちていた。
ダイアナはレオンの手を取った。
司祭が誓いの言葉を問いかける。
ダイアナはレオンを見つめた。
「はい」
声は、迷いなく響いた。
レオンもまた、彼女を見つめて答えた。
「はい」
その声は静かだった。
けれど、そこには確かな意思があった。
司祭は二人の手を重ね、七つの石を見渡した。
そして、レオンをアステリアの家へ迎えることを告げた。
レオンは深く頷いた。
彼はアステリアを自分の故郷として生まれたわけではない。
けれど、自分の意志でここへ戻ってきた。
そして、これからも戻ってきたいと思っている。
それは、誰かに命じられたからではなかった。
彼自身が選んだ人生だった。
ダイアナは、重ねた手に少しだけ力を込めた。
レオンもまた、その手を握り返した。
―
礼拝堂の扉が開かれると、春の光が二人を包んだ。
外で待っていた人々から、歓声が上がる。
港の船員たちは帽子を掲げ、鍛冶場の男たちは大きな声で祝福した。
子どもたちは花びらを撒き、年老いた船乗りたちは互いの肩を叩きながら笑っている。
トーマスは、いつものように大きな声で何かを言い、ロバートにたしなめられていた。
エドガーは少し離れた場所から、満足そうに二人を見守っている。
マリーは、目元をそっと押さえた。
ダイアナは笑っていた。
頭領として、島の人々に向ける笑顔とは少し違う。
肩の力が抜け、心から嬉しそうな笑顔だった。
レオンが隣にいる。
そのことが、ただ嬉しい。
祝福の声を受けながら、二人はゆっくりと歩いた。
レオンは、島の一人ひとりに目を向け、丁寧に礼を返していた。
彼を迎える人々の顔には、警戒も遠慮もなかった。
彼はもう、外から来た貴族の客人ではない。
ダイアナの夫として、アステリア家の一員として、この島の未来を共に考える人として
迎えられていた。
ダイアナは、その光景を見て胸がいっぱいになった。
自分が大切にしてきた島を、レオンも大切にしてくれる。
そして島の人々も、レオンを受け入れてくれる。
それ以上に望むものは、なかった。
―
宴が始まると、大広間には音楽と笑い声が満ちた。
長い食卓には、春に獲れた魚、焼いた肉、香草を添えた料理、焼き立てのパンが並ぶ。
大きな杯には島の酒が注がれ、各氏族の代表が次々と二人のもとへ祝福を伝えに来た。
窓は開け放たれ、海風が花の香りを運んでくる。
いつもなら、宴の最中でもダイアナは島の人々の様子に気を配っていた。
誰が誰と話しているか。
何か困っているものはいないか。
次の会議に持ち越すべき話はないか。
けれど、今日は違った。
レオンが隣にいる。
誰かが声を掛ければ、二人で応じる。
笑いが起これば、一緒に笑う。
それだけで、こんなにも心が満たされるのだと、ダイナは初めて知った。
やがて、音楽が変わった。
踊りの曲だった。
レオンが、静かに手を差し出す。
ダイアナはその手を取った。
正式な踊りは得意ではない。
何度教わっても、足運びを間違えることがある。
それでも、レオンは急かさなかった。
彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと導いてくれる。
ダイアナは笑った。
レオンも笑った。
二人が踊る姿を見て、周囲から温かな拍手が起こる。
その音を聞きながら、ダイアナは思った。
この人となら、
知らない場所へ行くことも、
新しいものを学ぶことも、
思い通りにならない日々も、
きっと、楽しみに変えていける。
これから先、どんな人生が待っているのかはわからない。
けれど、この人と共に歩いていく。
それだけは、はっきりしていた。
―
夕暮れが近づいた頃。
二人は、宴を少しだけ抜け出した。
港を見下ろす丘の上。
そこからは、アステリアの海が一望できる。
空は淡い金色に染まり、海面には長い光の道が伸びていた。
遠くでは、船の帆が風を受けて揺れている。
ダイアナは、レオンの隣に立った。
銀の指輪が、夕日に照らされて小さく光る。
今日という日を、どれほど待ち望んでいたのだろう。
レオンが春に帰ってきたとき、その姿を見た瞬間の喜び。
祭壇の前で手を握ったときの温かさ。
誓いを交わした瞬間。
島の人々の祝福。
そのすべてが、胸の中に重なっていた。
ダイアナは、そっとレオンの腕に手を添えた。
レオンは、その手に自分の手を重ねる。
二人はしばらく、何も言わずに海を見ていた。
言葉にしなくても、伝わるものがある。
同じ景色を見ている。
同じ場所に立っている。
そして、これからも一緒に歩いていく。
ダイアナは静かに微笑んだ。
人生には、こんな日があるのだ。
心から幸せだと思える日。
大切な人が隣にいて、愛する故郷が目の前にあり、祝福してくれる人々の声がまだ耳に残っている日。
何かを失う心配もせず、明日のことを恐れず、ただこの瞬間を喜べる日。
ダイアナは、レオンの手を握った。
この人と出会えて良かった。
この人を選んで良かった。
そして、今日を迎えられて良かった。
春の海に、夕日が沈んでいく。
アステリアの旗が、風にはためいていた。
群青の布地。
銀の海鷲。
三本の波。
『海を忘れず、故郷を忘れず』
ダイアナは、隣にいるレオンを見上げた。
彼もま、穏やかな笑顔で彼女を見つめていた。
その笑顔を見て、ダイアナは思った。
今日という日を、きっと一生忘れない。
自分の人生で、いちばん幸せな日として。
そして二人は並んで丘を下りていった。
祝福の灯りが待つ、アステリアの家へ。




