第25話 春までの約束
王都行きの船が出航する日の朝。
アステリアの港は、いつもより静かだった。
冬の海を渡る最後の船。
春までの間、王都との定期航路は止まる。
港の船員たちは、慣れた手つきで最後の荷を積み込んでいた。
王都へ運ぶ交易品。
書類の入った箱。
そして、レオンが王都で進める仕事に必要な資料。
ダイアナは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
昨日、二人は、結婚することを決めた。
来年の春。
ギャザリングで。
それなのに、翌朝には、もう別れの時間が近づいている。
「………変な感じね」
ダイアナが呟く。
隣にいたエドガーが海を見た。
「そうでしょうね」
「昨日、結婚を決めたばかりなのに」
「だからこそ、今日の別れが長くかんじるのでしょう」
ダイアナは答えなかった。
ただ、港の向こうにいるレオンを見つめていた。
レオンは、船に積み込まれる荷物を一つずつ確認していた。
王都へ戻る理由は、単純ではなかった。
彼の家族がいる。
侯爵家の三男として、王都で果たすべき役割も残っている。
長くアステリアに滞在していたことで、ヴァレンティス家の仕事にも整理しなければならないものが増えていた。
今回、レオンが自分から王都へ戻ることを決めた最大の理由は、別にあった。
アステリアと王都の間に結ばれた交易協定を、実際に機能させること。
そして、そのために、王都にアステリアの正式な外交拠点を作ることだった。
「領事館を?」
以前、ダイアナが尋ねた時、レオンは頷いた。
「はい」
アステリアは独立した国だ。
けれど、王都には、まだ正式な窓口がない。
交易のたびに使者を送り、商人が個別に交渉し、問題が起きればその都度アステリアから人を呼ばなければならない。
それでは、これから交易が増えたとき、島の負担が大きくなる。
「王都にアステリアの領事館があれば、交易の窓口を一つにできます」
レオンは説明した。
「商人が困ったときにも、アステリア側の人間が対応できます。
外交上の問題が起きても、すぐに島へ知らせることができる」
「それは、アステリアに必要ね」
「ええ」
レオンは海図の上に指を置いた。
「島を守るということは、島の中だけを見ることではありません」
その言葉を聞いたとき、ダイアナは、彼がすでにアステリアの未来を自分の未来として考え始めていることに気づいた。
領事館の設立には、土地が必要だった。
建物も必要。
王都の役人との交渉も必要。
アステリアから派遣する人間の手配も必要になる。
そして、ヴァレンティス家の協力も、ある程度必要だった。
「だから、王都へ戻るのね」
ダイアナが言った。
「はい」
レオンは微笑んだ。
「一度、身の回りを整理してきます」
家族への報告。
王都での仕事の整理。
領事館の準備。
そして、自分がアステリアへ戻ってくるための道を、きちんと整える。
それを終えたら、戻ってくる。
「春には?」
ダイアナが尋ねた。
「春には」
レオンは迷わず答えた。
「ギャザリングに合わせて戻ります」
その言葉を聞いて、ダイアナは少しだけ笑った。
「結婚式があるものね」
「はい」
レオンの表情が柔らかくなる。
「私にとっては、それが一番大切な予定です」
―
出航の時間が近づいた。
船員たちが最後の確認を終える。
レオンも、乗船するために歩き始めた。
その時、
「レオン」
ダイアナが呼んだ。
彼が振り返る。
「はい」
「少し、いい?」
二人は港の端へ移動した。
人の声が少し遠くなる。
冬の海風が、二人の間を吹き抜けた。
昨日までとは、何も変わっていない。
それなのに、婚約を決めたあとでは、同じ距離が少し違って感じられる。
「春まで、会えないのね」
「そうなります」
「長いわ」
「私も、そう思います」
レオンは穏やかに笑った。
「ですが、春になれば会えます」
「……そうね」
ダイアナは頷いた。
「それに」
レオンが続ける。
「王都にいる間も、アステリアのために仕事をします」
「領事館ね」
「はい」
「あなたが提案したんでしょう?」
「ええ」
「春に戻ってきたとき、今より少しだけ、アステリアと王都が近くなっていれば
いいと思っています」
静かな声だった。
そして、
「この島へ戻ってくることを、楽しみにしています」
その言葉に、ダイアナの胸が温かくなった。
レオンは、ふと懐へ手を入れた。
「そういえば」
「何?」
「出航の直前になってしまって、申し訳ないのですが」
小さな箱を取り出す。
ダイアナが目を瞬く。
蓋を開ける。
中には、細身の銀の指輪が入っていた。
中央には小さな石。
その周囲には、よく見ると三本の波の意匠が刻まれている。
「……エンゲージリングです」
ダイアナは、しばらく何も言えなかった。
「昨日、結婚を決めたばかりですから」
レオンは少し困ったように笑った。
「本当は、もう少しきちんと渡したかったのですが」
「十分よ」
ダイアナは指輪を見つめた。
「綺麗」
「気に入っていただけましたか?」
「ええ」
レオンは彼女の手を取り、指輪をそっとはめた。
銀色の指輪が、冬の光を受けて淡く輝く。
「これで」
レオンは指輪を見つめた。
「春まで、少し安心できます」
「どうして?」
「私が戻ってくる場所を、忘れないように」
ダイアナは、思わず笑った。
「忘れるわけないでしょう」
「そうでしたね」
そして、レオンはもう一つ、包みを取り出した。
「もう一つあります」
「まだあるの?」
「はい」
包みを開く。
現れたのは、小さな革張りの栞だった。
そこには、アステリアの三本の波。
そのうち一本だけが少し長く刻まれている。
端には、小さな貝殻。
ダイアナは、指先でそっと触れた。
「これ……」
「作りました」
「あなたが?」
「はい」
レオンは少しだけ目を伏せる。
「以前、一緒に図書室で本を読んだでしょう」
「ええ」
「そのときから」
レオンは栞を見た。
「本を開くたびに、アステリアを思い出せるものがあればと思っていました」
ダイアナの胸が静かに締め付けられる。
「………ありがとう」
「春に戻ったら」
レオンは彼女を見る。
「また一緒に本を読みましょう」
「ええ」
「そして」
少しだけ間を置いて、
「遠い国へ旅をして」
「旅行記を書いて」
ダイアナが笑った。
「年を取るのね」
「はい」
レオンも笑った。
「それを楽しみにしています」
ダイアナは栞を大切そうに握った。
「私も」
―
船から、出航を知らせる鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
レオンが海へ目を向ける。
もう時間だった。
「行かないと」
「ええ」
それでも、二人は、すぐには動かなかった。
レオンが、静かに言う。
「ダイアナ」
「何?」
「春まで」
「ええ」
「待っていてください」
その言葉に、ダイアナは微笑んだ。
「あなたも」
「はい」
「必ず帰ってきて」
レオンは、まっすぐ彼女を見た。
「必ず」
それだけだった。
けれど、それで、十分だった。
レオンが船へ向かう。
ダイアナは、その背中を見送る。
船がゆっくり港を離れていく。
白い帆が冬の風を受ける。
遠ざかる船。
その上にいる、愛する人。
ダイアナは、指にはめられた銀の指輪を見る。
そして、手の中の栞を握りしめる。
春になれば、また会える。
その時、二人は夫婦になる。
今は、それだけで良かった。
港を離れた船は、冬の海へ進んでいく。
ダイアナは、見えなくなるまで、その船を見送った。
やがて、水平線の向こうへ消える。
それでも、彼女の胸の中には、春の約束だけが静かに残っていた。
春になったら、帰ってくる。
それは、別れの言葉ではなく、二人が再び会うための、約束だった。




