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第24話 出航

出航の前日。


アステリアの港は、朝から慌ただしかった。

冬の海が本格的に荒れる前に、王都へ向かう船を出さなければならない。


船員たちは最後の積み荷を確認し、帆を調べ、食料と水を積み込んでいる。

港の空には、薄い雲が広がっていた。

風は冷たい。

濃い海の底に、冬の気配が沈んでいる。


砦の中でも、出航を前にした準備が進んでいた。


王都へ戻る者たちの荷物。

外交文書。

交易品。

そして、レオンの私物。


けれど、ダイアナは朝からほとんど仕事に手をつけられずにいた

机の前に座っても、書類を開いても、文字が頭に入ってこない。


窓の外を見れば、海がある。

港を見れば、船がある。

その先には、明日、出ていく人がいる。


マリーは、そんなダイアナを何も言わずに見守っていた。

朝食を運び、昼には温かい飲み物を置く。


けれど、

「お嬢様、どうなさったのですか」


とは聞かなかった。

聞かなくても分かっている。


レオン。

そして、カイル。


二人のどちらを選ぶのか、ダイアナ自身が、答えを出せずにいる。

夕方になっても、ダイアナは窓辺に立ったままだった。

マリーは少し離れた場所で、静かに食器を片付けていた。


やがて、ダイアナが口を開く。


「……マリー」

「はい」

「私、少し出てくるわ」


マリーは手を止めた。


「どちらへ?」


ダイアナは答えなかった。

ただ、少し迷ったあと、


「港へ」


そう言った。

マリーは、それ以上何も尋ねなかった。


「お気をつけて、お嬢様」

「ええ」


ダイアナは外套を羽織った。

そして、砦を出た。


―

港へ向かう道は、夕暮れの冷たい風が吹いていた。

海辺の草は、枯れ始めている。

丘の木々もすっかり葉を落とし、枝の間から灰色の空が見える。

港に近づくにつれて、人の声が増えていく。


船員たちの掛け声。

木箱を運ぶ音。

ロープが軋む音。


明日の出航を前に、港全体が動いていた。

その中に、カイルがいた。

外交船の最後の確認をしている。

ダイアナは少し離れた場所から、その姿を見つめた。


いつもと変わらない。

船の状態を確かめ、船員に指示を出し、必要なところへ自分で手を伸ばしている。

ダイアナが近づくと、カイルが振り返った。


「ダイアナ」

「少し、いい?」

「もちろん」


二人は港の端まで歩いた。

夕暮れの海は、静かだった。


「明日、王都へ向かう船が出るでしょう?」

「ああ」

「あなたは…………帰るの?」


カイルはすぐには答えなかった。

海を見た。

遠く、水平線は薄い霧に霞んでいる。


「まだ決めていない」


その言葉に、ダイアナの胸が小さく揺れた。


「帰らない可能性もあるの?」

「ああ」

「どうして?」


カイルは少し考えた。


そして、


「アステリアの海が好きになったから」


それだけだった。

それ以上、何も言わない。

ダイアナは、彼を見た。


「王都に戻れば、あなたには家もあるでしょう」

「ある」

「海軍へ戻る道も?」

「あると思う」

「それでも」


カイルは海を見た。


「ここの海をもっと知りたい」


波が岸壁へ寄せてくる。

静かな音。


「冬の海も」


カイルは続けた。


「うるさいトーマスもいるしな」


ダイアナは、思わず笑った。


「そうね」

「だから」


カイルは海を見たまま言った。


「もう少し、ここにいたい」


その言葉には、ダイアナへの想いを直接語るものは何もなかった。

けれど、それで十分だった。


カイルは、誰かに選ばれたわけではなく。自分自身の意思でアステリアに残りたいと思っている。

そのことが、ダイアナにははっきり分かった。


「……そう」


それだけ言う。

カイルは彼女を見る。


「どうした?」

「ううん」


ダイアナは首を横に振った。


「ありがとう」

「何が?」

「教えてくれて」


カイルは少しだけ笑った。


「それだけでいいのか?」

「ええ」


ダイアナも笑った。


「今日は、それでいいの」


それ以上、二人は話さなかった。

ダイアナは、もう一度だけ海を見た。

そして、


「じゃあね、カイル」

「また明日」

「ええ」


その言葉を最後に、ダイアナは港を離れた。

カイルは、その背中を見送った。

何かを尋ねることも、引き留めることもなかった。

ただ、彼女が自分のところへ来てくれたことを静かに胸の中へ残した。


―

日が沈み切る前。

ダイアナは交易館へ向かった。

足取りは、速かった。

自分でも理由が分からない。

ただ、もう迷っている時間はないと思った。


交易館の窓には、まだ明かりが灯っている。

扉を開ける。

受付のものが驚いた顔をしている。


「頭領?」

「レオンは?」

「執務室におります」


ダイアナは礼を言うことも忘れ、そのまま廊下を進んだ。

扉の前で、一度だけ足を止める。

中から紙をめくる音がする。


小さく息を吸う。

そして、扉を叩いた。


「どうぞ」


聞きなれた声。

ダイアナは扉を開けた。

レオンが机に向かっていた。

明日の出航を前に、最後の書類を整理しているのだろう。


彼は顔を上げた。


「ダイアナ?」


驚きが、その目に浮かぶ。


「どうしました?」


ダイアナは答えなかった。

部屋へ入り、扉を閉める。

レオンは立ち上がった。


「何かありましたか?」

「……レオン」

「はい」


その声を聞いた瞬間、ダイアナの胸に、これまでの時間が一気に蘇った。


初めて出会った日。

図書室。

本を挟んで話した時間。

アステリアの海を一緒に見たこと。

何気ない会話。

静かな笑顔。


そして、今夜、この人は明日帰るかもしれない。

そのことを考えた時、ダイアナはようやく自分の答えを言葉にできた。


「あなたを選ぶわ」


レオンの表情が止まった。


「………」

「私は」


ダイアナはゆっくり息を吸った。


「あなたと一緒に生きていきたい」


レオンの目が揺れた。


「ダイアナ……」

「一緒に本を読みたい」


声が少し震える。

けれど、もう止めなかった。


「いつか遠い国に二人で旅をして」

「その土地で見たものを、一緒に旅行記にして」

「そして」


ダイアナは、ほんの少し笑った。


「年を取っていきたい」


レオンは何も言わなかった。

ただ、彼女を見つめている。

長い沈黙の後、


「……私で、いいのですか」

「あなたがいいの」


その答えに、レオンは目を伏せた。

息を吐く、長い間、胸の奥に抱えていたものがようやく解けたようだった。


「ありがとうございます」


ダイアナは少し笑った。


「お礼を言われることではないでしょう?」

「そうですね」


レオンも笑った。


けれど、その目には安堵の色が浮かんでいた。

それを見て、ダイアナの胸も熱くなる。

レオンは、しばらく迷うようにダイアナを見ていた。


そして、静かに尋ねる。


「……ダイアナ」

「何」?

「あなたを抱きしめても、いいですか?」


その問いに、ダイアナは一瞬、目を見開いた。

それから、ゆっくり頷いた。


「ええ」


レオンが一歩近づく。

そして、壊れものに触れるように、そっと彼女を抱きしめた。

強くはない。

けれど、離したくないという気持ちが、腕の中に静かに滲んでいた。

ダイアナは、彼の胸元に頬を寄せた。


聞こえる。

速い鼓動。

自分のものと同じくらい。


レオンの手が背中に触れる。

それだけだった。

言葉はなかった。


二人は長い間、ただ、抱きしめあっていた。


やがて、レオンが小さく息を吐く。


「……夢のようです」

「夢じゃないわ」

「はい」


レオンは目を閉じた。


「分かっています」


その声には、今までにないほどの安堵があった。


―

その夜。


交易館を出たダイアナは、一人で砦へ戻った。

夜の海が見える。

港では、明日の出航を待つ船が、静かに揺れている。


王都へ帰る船。

そして、この島に残るかもしれない船。


そのどちらも、明日になれば動き始める。

ダイアナは、海を見つめた。


今日、一人の男が、自分の気持ちを伝えた

そして、自分も、一人の男を選んだ。

頭領としてではない。

島のためでもない。

ただ、ダイアナという一人の女性として、自分が生きたいと思う未来を選んだ。



部屋へ戻ると、マリーが待っていた。


「お嬢様」

「ただいま」

「……はい」


マリーは、ダイアナの顔を見た。

何も聞かなかった。

けれど、その表情を見れば、もう分かっていた。


「良かったですね」


その一言だけ。

ダイアナは小さく笑った。


「ええ」


窓の外では、アステリアの海が、静かに夜を迎えていた。

明日、冬の最後の船が出る。


けれど、ダイアナの人生には、今日新しい航路が開かれた。

二人が結婚することを決めた日。


それは、アステリアの冬の始まりとともに、静かに

二人の未来が始まった日でもあった。



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