第23話 告白
王都の外交団が、本格的な冬を迎える前に最後の船でアステリアを発つまで、残された時間は一週間となった。
その夜、砦では、交易協定の成立を祝う宴が開かれていた。
長い交渉の末、王都とアステリアの間で、新たな交易協定が正式に結ばれた。
冬の海が閉ざされる前に、今年最後となる王都に向けた船が出る。
それを見送る宴でもあった。
大広間には、七氏族の代表者たちが集まっていた。
アルヴェイン家。
グレンモア家。
ハイランド家。
ローウェン家。
ベルフォード家。
マーレン家。
カルディア家。
それぞれの家の紋章を身に着けた者たちが酒を酌み交わしている。
港の船員たちも、商人たちも、王都から来た外交団も、皆それぞれの場所で笑っていた。
音楽が流れている。
暖炉には大きな火が燃えている。
冬の夜だというのに、大広間は、人の熱気で暖かかった。
ダイアナは、次々に声を掛けられていた。
笑顔で答えながら、ダイアナの視線は、ときどき人混みの向こうへ向かっていた。
レオン。
王都から来た外交団の筆頭として、今夜も何人かの商人や七氏族長たちと話をしている。
落ち着いた表情。
丁寧な言葉、いつものレオンだった。
けれど、数日前に、エドガーから聞いた言葉が、ダイアナの胸の奥に残っていた。
――もし、ダイアナが私を選んでくれるなら
私はアステリアに残ります
まだ、本人から直接聞いたわけではない。
だからこそ、気になっていた。
そのとき、背後から声がした。
「ダイアナ」
振り返る。
レオンだった。
「少し、お時間をいただけますか?」
「今?」
「はい」
その声は穏やかだった。
けれど、いつもより、ほんの少しだけ緊張が混じっている。
ダイアナは頷いた。
「分かったわ」
二人は、大広間を出た。
廊下を歩く。
宴の音が少しずつ遠くなる。
階段を上がる。
向かった先は、図書室だった。
ダイアナは扉の前で足を止めた。
「ここ?」
「はい」
レオンが扉を開ける。
静かな部屋。
高い本棚。
古い航海記録。
暖炉の火。
窓の向こうには、夜の海が広がっている。
ここは、二人にとって、特別な場所だった。
最初に会った場所ではない。
けれど、互いを少しずつ知るようになった場所。
言葉を交わし、本を読み、海について話した。
そして、初めて、互いを名前で呼んだ場所でもある。
ダイアナは、部屋の中へ入った。
レオンが後ろで扉を閉める。
宴の音が、完全に遠くなった。
「どうしたの?」
レオンはすぐには答えなかった。
窓辺へ歩いていく。
そこから見える港には、いくつもの灯りが浮かんでいる。
本格的な冬を前に、船は少ない。
けれど、灯台の光は、いつも通り海を照らしていた。
「この部屋へ来ると」
レオンが静かに言った。
「最初の頃を思い出します」
「最初の頃?」
「私は、アステリアのことを何も知りませんでした」
ダイアナは少し笑った。
「今も、知らないことは多いでしょう」
「ええ」
レオンも微笑む。
「ですが、以前とは違います」
「何が?」
レオンは本棚を見る。
「知りたいと思うようになりました」
海のこと。
島の歴史。
人々の暮らし。
ダイアナは黙って聞いていた。
レオンは、少しだけ息を吸った。
「あなたのことも」
その言葉に、ダイアナの胸が、小さく揺れた。
「レオン?」
彼は振り返った。
いつもの穏やかな目。
けれど、今夜は、その奥に隠しているものが見える気がした。
「私は、王都へ戻ることができます」
「ええ」
「侯爵家にも、私の仕事があります」
「知っているわ」
「戻れば、これまでと同じように暮らせるでしょう」
そこで、レオンは一度、目を伏せた。
「けれど」
静かに、
「今は、それを望めなくなりました」
ダイアナは息を止めた。
レオンは続けた。
「アステリアを離れることを考えると」
窓の外を見る。
「何か、大切なものを置いていくような気がするのです」
ダイアナは何も言わなかった。
レオンが、ゆっくり彼女を見る。
「私は、この島で生きていきたい」
その言葉は、思っていたより、ずっと静かだった。
けれど、ダイアナの胸には、はっきり届いた。
「……アステリアで?」
「はい」
「どうして?」
レオンはすこしだけ迷った。
それから、飾ることなく言った。
「あなたと一緒にいたいからです」
ダイアナの目が揺れる。
レオンは、もう視線を逸らさなかった。
「この島を知るほど」
「あなたと話すほど」
「ここで過ごす時間が増えるほど」
少しずつ、言葉が慎重に重なっていく。
「私は、自分がどこで生きたいのかを考えるようになりました」
「そして」
レオンの声が、わずかに低くなる。
「私は、あなたの隣で生きたいと思っています」
ダイアナは、しばらく何も言えなかった。
胸の奥に、驚きと、嬉しさと、戸惑いが同時に押し寄せてくる。
レオンが、こんなことを言うとは思っていなかった。
いや、どこかで、分かっていたのかもしれない。
それでも、実際に言葉にされると、簡単には受け止められなかった。
「……私と?」
「はい」
「この島で?」
「はい」
短い答えだった。
迷いはなかった。
ダイアナは、ゆっくり息を吐いた。
「レオン」
「はい」
「私に、返事を求めているの?」
レオンは少しだけ目を細めた。
「……はい」
それから、静かに付け加える。
「ただ、今すぐでなくて構いません」
ダイアナは彼を見る。
「では……いつ?」
レオンは窓の外へ目を向けた。
港の向こう。
王都へ向かう船が停泊する場所。
「王都行きの船が出るまでには」
一週間。
それだけ。
ダイアナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
一週間後、レオンは王都へ帰る。
その船に乗れば、彼はこの島から離れる。
もし、彼を選ばなければ、きっと、二人の道は別れる。
そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……分かったわ」
それだけ答える。
レオンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ、返事はしていないでしょう?」
ダイアナが少し困ったように笑う。
「そうでした」
レオンも、ほんの少し笑った。
「失礼しました」
その笑顔を見て、ダイアナの胸が、また揺れた。
―
大広間では、まだ宴が続いていた。
カイルは、マーレン家の船大工たちと話していた。
冬の修繕。
来年の冬。
新しい航路。
いつも通りの話だ。
けれど、ふと、大広間の扉が開いた。
先に出てきたのはダイアナだった。
その少し後ろに、レオンがいる。
二人とも、何も話していない。
それなのに、カイルは、何かが変わったことに気づいた。
ダイアナの表情。
レオンの目。
二人の間にある、ほんのわずかな距離。
宴に戻ってきた二人は、以前と同じように、それぞれの人々のもとへ戻っていった。
けれど、カイルには分かった。
今夜、二人の間には、何かが置かれた。
まだ答えでもない。
約束でもない。
ただ、一つの気持ちが、言葉になって、互いの間に残されたのだ。
カイルは、手にしていた杯をゆっくり置いた。
海の向こうでは、冬の風が吹いている。
一週間後、王都へ向かう船が出る。
そして、ダイアナは、その前に答えを出さなければならない。
カイルは、もう一度だけダイアナを見る。
彼女は笑っている。
その笑顔の奥に、今までにはなかった迷いがある。
カイルは、それ以上見なかった。
ただ、静かに視線を海へ戻した。
冬の海は、遠くまで、暗く広がっていた。




