第22話 覚悟
アステリアに、冬の気配が近づいていた。
空は薄く曇り、水平線は白い霧に滲んでいた。
港に吹く風も冷たい。
船員たちは厚手の上着を着こみ、早朝から帆や索具の点検をしている。
冬が来れば、海は荒れる。
北から吹き下ろす風が強くなり、潮の流れも変わる。
そうなれば、王都へ向かう船を安全に出すことは難しい。
だから、冬を迎える前に最後の船が出る。
今年も、その時期が近づいてきた。
「王都行きの船は、二週間後です」
執務室で、エドガーが告げた。
ダイアナは窓の外を見た。
港では、冬支度を始めた船が並んでいる。
「二週間……」
「はい」
短い言葉のあと、部屋には静かな時間が流れた。
二週間。
それは、思っていたより短かった。
―
その日の午後。
レオンは、交易館の窓辺に立っていた。
机の上には、王都から届いた書状がある。
冬を前に、一度戻るようにという知らせ。
以前なら、迷うことなく、帰る準備をしていただろう。
けれど、今は違った。
窓の外を見る。
港。
船。
海。
アステリアで過ごした時間。
いつの間にか、この景色を失いたくないと思うようになっていた。
そして、もうひとつ、ダイアナの姿が浮かぶ。
彼女が海を見る時の横顔。
ふとした瞬間に見せる笑顔。
自分に向けられる、飾らない言葉。
それらを思い浮かべると、王都へ戻ることが、以前とは違う意味を持つようになった。
レオンは、机の上の書状を閉じた。
そして、エドガーのいる砦の執務室へ向かった。
―
「エドガー殿」
「ヴァレンティス卿」
レオンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「以前、尋ねられましたね」
エドガーが顔を上げる。
「何を選ぶのか、と」
「はい」
「決めました」
それだけだった。
エドガーは、レオンの顔を見た。
「戻らないおつもりですか?」
「まだ、決まったわけではありません」
レオンは少しだけ視線を落とす。
「ただ」
一度、息をつく。
「もし、ダイアナが私を選んでくれるなら」
そこで言葉を切った。
「私は、アステリアに残ります」
エドガーは何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
レオンは窓の外へ目を向けた。
「初めてです」
「何がでしょう」
「家のためでも、仕事のためでもなく」
ほんのわずかに、表情が柔らかくなる。
「自分がどう生きたいのかを考えて決めました」
それは、侯爵家の三男としてではない。
外交官としてでもない。
ただ、レオンという一人の人間としての決断だった。
「ダイアナ様には?」
「これから、伝えます」
エドガーは、それ以上尋ねなかった。
ただ、
「そうですか」
とだけ答えた。
―
その日の夕方。
エドガーは港へ向かった。
冬を前にした港は、少しずつ静かになっている。
船員たちは忙しい。
けれど、その忙しさの中には、夏とは違う緊張があった。
出る船。
残る船。
冬を越すために陸へ上げられる船。
それぞれが、自分の行き先を決めている。
港の奥で、トーマスが船体の点検をしていた。
「トーマス!」
「エドガーか」
エドガーは、彼の隣に立った。
「ヴァレンティス卿が、決められました」
トーマスの手が止まる。
「何を?」
「二週間後の船で王都へ戻るかどうかを」
「……そうか」
「ダイアナ様に、気持ちを伝えるそうです」
トーマスはしばらく海を見ていた。
エドガーは続ける。
「もし、ダイアナ様がヴァレンティス卿を選ばれれば」
一拍おいて
「ヴァレンティス卿は、迎え人としてこの島に残るつもりです」
トーマスは何も言わなかった。
ただ、遠くの海へ目を向けた。
冬の海は、もう夏のような青さを持っていない。
灰色の雲の下で、静かに波を繰り返している。
「……あの二人なら」
トーマスが、ぽつりと言った。
「うまくやるだろうな」
エドガーは彼を見た。
「そう思いますか」
「たぶんな」
それ以上は言わない。
けれど、長年ダイアナを見てきたトーマスは分かることがあった。
ダイアナは、レオンの話を良く聞く。
彼が何気なく口にしたことまで覚えている。
二人で話している時だけ、彼女の表情が少し柔らかくなる。
レオンが島のことを語れば、ダイアナは嬉しそうに耳を傾ける。
そして、何より、彼女はレオンのことを、もっと知りたいと思っている。
それは、ただの信頼とは、少し違うように見えた。
トーマスは、まだ本人がその違いに気づいていないことも知っていた。
「ダイアナは」
静かに言う。
「たぶん、レオンを選ぶ」
エドガーは何も答えなかった。
ただ、その言葉を否定する理由もなかった。
―
少し離れた場所で、カイルが船の帆を確認していた。
トーマスは、しばらくその背中を見ていた。
やがて、
「カイル」
「ん?」
カイルが振り返る。
「お前はダイアナに言わなくていいのか」
カイルの手が止まった。
風が、帆を小さく揺らしている。
「……何を?」
「分かってるだろう」
カイルは海へ目を向けた。
しばらく何も言わなかった。
「レオンは、言うらしい」
「ああ」
「二週間後には、船が出る」
「知ってる」
「それでも?」
カイルは、少しだけ笑った。
「ダイアナが誰といても幸せなら、それでいい」
トーマスは黙った。
カイルは、船体に手を置く。
「俺が口を出して、迷わせたくない」
「………」
「ダイアナは自分で決めるだろ」
その声には、諦めではなく、静かな覚悟があった。
トーマスは海を見た。
欲しいものを前にしても、相手の手から奪おうとしない。
ダイアナがどう生きたいのかを優先する。
だからこそ、トーマスは少しだけもどかしかった。
「お前は、それで後悔しないのか」
カイルは答えなかった。
かわりに、冬の海を見つめていた。
「……後悔するかもしれない」
やがて、静かに言った。
「でも、ダイアナが幸せなら、それでいい」
トーマスは、それ以上何も言わなかった。
ただ、カイルの肩を一度だけ叩いた。
―
夜。
ダイアナは、一人で海を見ていた。
冬の初めの海は、静かだった。
波は低い、けれど、沖へ出れば、もう風は強い。
港には、いつもより多くの灯りがともっている。
冬を越すための準備をする人々。
船を陸へ上げる者。
最後の航海へ向けて荷を積む者。
誰もが、「これから」を考えて動いている。
ダイアナは、海を見ながら思った。
二週間。
それだけの時間しかない。
レオンが帰るかもしれない。
カイルも、この島を離れるかもしれない。
今まで、二人がここにいることを、どこか当然のように思っていた。
けれど、冬が来れば、海は人を遠くへ連れて行く。
そして、帰って来られるのは、春になってからかもしれない。
ダイアナは、胸元で手を組んだ。
自分は、誰に、この島に残って欲しいのだろう。
誰と、これから先の海をみたいのだろう。
海の向こうには、まだ、何も見えない。
けれど、その先には、誰かの未来が待っている。
そして、自分の未来も。
ダイアナは、しばらく海を見つめていた。
やがて、静かに目を閉じる。
逃げるように決めるのではなく、
誰かに決められるのではなく、
自分自身でこの先の人生を選ぶために、残された二週間を大切に使おうと思った。




