第21話 秋の終わり
秋の終わりが、アステリアの海に静かに訪れていた。
夏のあいだ、眩しいほど青かった海は、いつの間にか深い色を帯びている。
朝の空には薄い雲が広がり、水平線はかすんでいた。
港へ続く坂道には、赤や金に染まった葉が落ちている。
風が吹くたび、枝に残っていた葉が一枚、また一枚と舞い落ちた。
夏なら朝から聞こえていた船員たちの声も、今は少ない。
冬の荒れた海が近づいていることを、島の人々は誰より早く知っていた。
船大工たちは、船体の傷んだ個所を確かめている。
漁師たちは、冬の海へ出るための道具を整えている。
港の倉庫には、これから始まる長い季節に備えて、食料や薪が運び込まれていた。
島全体が、静かに冬を迎える準備をしている。
ダイアナは、砦の窓辺に立っていた。
冷たい風が、少し開けた窓から入り込む。
淡い栗色の髪が頬にかかる。
彼女はそれを指で払って、海を見つめた。
――季節が変わる。
毎年、同じことが起きる。
春が来て、
夏になり、
秋を迎え、
そして冬が来る。
変わらないはずの営みだった。
けれど、今年の秋は、なぜか少し違って見えた。
海の色も、風の冷たさも、木々の葉が落ちていく音さえも。
何かを静かに告げているような気がする。
ダイアナは、自分でも気づかないまま、胸に手を当てた。
そこには、このところ、時折感じる戸惑いがあった。
理由は、まだ分からない。
ただ、季節が変わるように、自分の中でも、何かが少し変わり始めている。
そのことだけは、もう、気づかない振りができなくなっていた。
―
その日の午後。
ダイアナは港へ向かった。
冬支度の進み具合を確認するためだった。
坂道を下る。
乾いた葉が靴の下で小さく音を立てる。
海から吹く風は、もう秋の名残をほとんど残していなかった。
港へ近づくにつれて、人の声が増えていく。
船大工たちが木材を運び、若い船員たちが帆を畳み、倉庫の前では冬の備蓄を
数える者たちが帳面を広げている。
ダイアナは一人、一人に声をかけながら歩いた。
いつものことだった。
冬の前には確認することが多い。
食料。
薪。
船の状態。
港の設備。
見張りの交代。
何ひとつ、特別なことではない。
けれど、港の中央まで来たところで、ダイアナは、ふと足を止めた。
少し離れた船の上に、カイルがいた。
若い船員に指示を出している。
風向きを確認し、帆の状態を見て、船体の傷を指で確かめている。
その横顔には、いつもの明るさがなかった。
海を知っている人間だからこそ、冬の海の厳しさも知っているのだろう。
「………」
ダイアナは、しばらくその姿を見ていた。
カイルがふと顔を上げる。
こちらを見る。
目が合った。
ほんの一瞬、彼が笑った。
それだけだった。
けれど、ダイアナの胸の奥に、ふっと温かいものが広がった。
ただ、それだけのことなのに、なぜか安心した。
自分でも少し不思議だった。
彼が港にいること。
いつものように船に触れていること。
海を見ていること。
そんな姿を確認しただけで、胸の奥にあった小さな緊張がほどけていく。
ダイアナは、そこで初めて気づいた。
最近、自分は港へ来るたびに、彼の姿を探している。
無意識に、当たり前のように。
それに気づいた瞬間、なぜか、少しだけ落ち着かなくなった。
「……何を考えているのかしら」
小さく呟く。
自分でも答えは分からない。
ただ、カイルがいれば、少し安心する。
それだけ。
そう思っておけばいい。
少なくとも、今は。
―
その日の夕方。
執務室へ戻ると、机の上に数冊の本が置かれていた。
エドガーが王都から取り寄せたものだった。
交易路に関する記録。
古い航海記。
そして、遠い国々を旅した者の記録。
ダイアナは一冊を手に取った。
革張りの表紙。
少し古びた紙。
ページを開くと、知らない土地の風景が綴られている。
雪に覆われた北の街。
大きな川を渡る橋。
異国の市場。
見たことのない植物。
知らない言葉。
ダイアナは椅子に座り、読み始めた。
しばらくは夢中になった。
けれど、ある一節で、手が止まる。
旅人が、遠い異国の港について書いていた。
「この港には、朝になると東から船が入り、夕方には西へ向かう船が出る。
人々は海の向こうにある土地を知らなくても、船が戻ってくることを信じている。」
ダイアナは、その文章をもう一度読んだ。
そして、ふと、レオンならこの一節をどう思うだろう。
そんな考えが浮かんだ。
――また。
ダイアナは本を閉じた。
なぜ、自分はそう思ったのだろう。
レオンなら。
彼なら、この文章を読んで何を感じるだろう。
交易のことを考えるかもしれない。
港の仕組みについて興味を持つかもしれない。
旅人が見た景色について、何か面白い意見を言うかもしれない。
それとも、いつものように、少し考えてから静かに笑うのだろうか。
「………」
気づけば、ダイアナは、窓の外を見ていた。
交易館のある方向。
その建物は、夕暮れの中で静かに佇んでいる。
レオンは今頃、あそこで仕事をしているのだろうか。
そう思った瞬間、胸が、ほんの少しだけ早く鳴った。
ダイアナは眉を寄せた。
カイルの時とは違う。
カイルを見ると、安心する。
レオンを思い浮かべると、なぜかもっと知りたくなる。
話をしたくなる。
彼なら何を考えるのか。
何を面白いと思うのか。
どんな本を好むのか。
どんな場所へ行きたいと思うのか。
考え始めると、次から次へと、知りたいことが浮かんでくる。
それが、少し不思議だった。
「……どうして?」
問いかけても、答えはない。
ダイアナは再び本を開いた。
けれど、数行読んだところで、また窓の外へ視線が向いた。
今度は、自分でも笑ってしまった。
「私、何をしているのかしら」
―
秋は、ゆっくりと終わりへ近づいていた。
朝。
港の屋根に霜が降りるようになった。
昼間の海はまだ穏やかでも、夕方になると、風が急に冷たくなる。
島の人々は、厚手の上着を着るようになった。
砦の暖炉にも、火が入る日が増えていく。
ダイアナの生活の中に、二人の存在がすっかり馴染んでいた。
朝、港へ行けばカイルがいる。
交易館へ行けば、レオンと顔を合わせることがある。
食事の席で、二人の話を聞くこともある。
誰かと話しているとき、ふと、その二人が思い浮かぶことも増えた。
以前なら「王都から来た客人」だった。
今は違う。
二人とも、アステリアの日常の一部になっている。
それが、ダイアナにとって、一番大きな変化だった。
客人なら、いつか帰る。
そう思っていた。
けれど、いつからだろう。
二人が帰るという未来を考えると、少しだけ胸がざわつくようになった。
―
ある日の夕方。
三人は偶然、港で顔を合わせた。
カイルは船から降りるところだった。
レオンは港の倉庫から出てきたところ。
ダイアナは港の帳簿を確認していた。
「寒くなりましたね」
レオンが言った。
「ええ」
ダイアナが答える。
カイルが空を見る。
「明日は風が強くなる」
「分かるの?」
ダイアナが尋ねる。
「海の匂いが変わった」
レオンが少しだけ笑った。
「あなたは、本当に海のことになると詳しいですね」
二人のやり取りを聞きながら、ダイアナは思わず笑った。
この光景も、もう、珍しくない。
自分は、その二人の間に立っている。
それが、なぜか自然だった。
けれど、自然だからこそ、怖くなった。
このまま時間が過ぎれば、二人がアステリアにいることが当たり前になる。
そうなった時、自分は、何を選ぶのだろう。
―
夜。
ダイアナは、一人で海辺へ出た。
秋の終わりの海は、昼間よりずっと暗い。
夏の夜なら聞こえていた虫の声も少なく、波の音だけが、静かに続いている。
月明りの下、海は銀色に揺れていた。
ダイアナは岩に腰を下ろした。
冷たい風が頬を撫でる。
「……冬が来るわね」
誰に言うでもなく呟く。
冬が来る。
季節が変わる。
そして、自分も、何かを変えなければならないのかもしれない。
これまで、「迎え人」という言葉は、遠い未来の話だった。
頭領になったばかりの頃は、いつか必要になるだろう、その程度だった。
けれど、今は違う。
目の前に、二人の男がいる。
一人は、海を知り、自分が気づかないうちに安心できる存在になっていた。
もう一人は、本を読み、静かに考え、話すたびに、もっと知りたいと思わせる。
どちらも、自分の人生に入り込んでいる。
そして、島の人々も、そのことに気づき始めている。
「……どうしたいの、私」
海は答えない。
ただ、波が寄せて、静かに引いていく。
ダイアナは、膝を抱えた。
島のために、頭領として、正しい選択をすることはできる。
けれど、自分の人生について、正しい答えがあるのだろうか。
誰を迎え人にするべきか、ではなく、誰と生きたいのか。
その問いに変わった瞬間、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
ダイアナは目を閉じた。
まだ、答えはない。
カイルを見れば、心が落ち着く。
レオンを見れば、胸が少し騒がしくなる。
それが、何を意味するのか。
まだ、名前をつけられない。
ただ、もう「いつか考えればいい」とは思えなかった。
秋が終わる。
冬が来る。
季節が変わるように、自分の人生も少しずつ、次の季節へ向かっている。
ダイアナは立ち上がった。
冷たい風に髪を揺らされながら、もう一度、海を見る。
そして、砦へ戻る道を歩き始めた。
その背中を、秋の終わりの風が、静かに追いかけていた。




