第20話 侯爵家の三男
レオンは、最近、自分の中にある変化を持て余していた。
アステリアへ来たばかりの頃は、この島に滞在する理由など、いくらでも作れた。
王都からの命を受けている。
交易路を確認する必要がある。
海域の安全を調べる必要がある。
そして、ダイアナ・アステリアという、興味深い頭領がいる。
それだけだった。
少なくとも、最初は。
けれど、彼女と過ごす時間が増えるほど、レオンの中で、少しずつ理由が変わっていった。
会議で彼女が見せる鋭い判断。
島民の話を聞く時の、柔らかな表情。
海の話をするときに、わずかに声が弾むこと。
本の話になると、普段よりも長く話してくれること。
そして、誰も見ていないところで見せる、ほんの少しの疲れ。
それを知るたびに、もっと知りたいと思うようになった。
彼女が何を考えているのか。
何を大切にしているのか。
何を恐れているのか。
そして、いつか、自分だけに見せる表情があるのなら、それを知りたいと思った。
その気持ちに気づいてしまった頃から、レオンは、ときどき自分の立場を重く
感じるようになった。
侯爵家の三男。
王都の名門貴族、ヴァレンティス家の人間。
それが自分であることを、今まで疑ったことはなかった。
兄たちほど家を背負う立場ではない。
だからこそ、ある程度自由に生きてきた。
けれど、ダイアナと出会ってから、その「自由」が、急に曖昧になった。
自分は王都へ帰る。
いずれ、家から求められる結婚をし、侯爵家の一員として役割を果たし、
そのまま人生を終える。
それが、自分の未来なのだと思っていた。
ところが、今は、アステリアを離れたあとの自分を想像すると、胸の奥に奇妙な空白ができる。
この島を離れた後も、自分はきっと、ここを思い出す。
海を。
港を。
砦を。
そして――ダイアナを。
そのことが、レオンには少し怖かった。
―
ある夕方。
レオンは、執務を終えて交易館を出たところで、エドガーに呼び止められた。
「ヴァレンティス卿」
振り返る。
「少し、お時間をいただけますか」
いつもの落ち着いた声だった。
レオンは頷いた。
「構いません」
エドガーが案内したのは、砦ではなかった。
港から少し離れた、古い石造りの家だった。
大きくはない。
庭も簡素で、飾り気がない。
けれど、玄関をくぐった瞬間、レオンはこの家がただの質素な家ではないことに気づいた。
廊下の壁には、古い剣が飾られている。
柄には、アステリアの三本の波。
その隣には、歴代の頭領の名が刻まれた木版。
古いものから新しいものへ、名前が途切れることなく並んでいる。
棚には、小さな銀杯。
古びた印章。
航海の記録。
頭領から贈られたものだという。
どれも華美ではない。
けれど、長い年月、大切に受け継がれてきたことが分かる。
「代々、頭領家に仕えてきた家です」
エドガーが静かに言った。
「私で十二代目です」
レオンは木版を見つめた。
一人の家臣が仕え、その子がまた仕え、その次の世代も。
そうやって、アステリアの歴史の隣に、この家の歴史が積み重なっている。
「………長いですね」
「はい」
エドガーは、それ以上説明しなかった。
その簡潔さが、かえって印象に残った。
通された居間には、小さな暖炉があった。
二人分の茶が用意されている。
エドガーは向かいに座った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
窓の外から、港の音がかすかに聞こえる。
船のロープが軋む音。
遠くで誰かが笑う声。
アステリアの日常だった。
エドガーが口を開いた。
「ヴァレンティス卿は、アステリアを気に入られましたか?」
突然の問いだった。
レオンは少し考えた。
「………はい」
それは、嘘ではなかった。
「では、ダイアナ様は?」
レオンの指が、茶器の縁で止まった。
エドガーは、それ以上何も言わない。
ただ、静かに待っている。
レオンは、しばらく黙っていた。
「……彼女は」
言葉を探す。
「思っていた以上に、強い方です」
「ええ」
「ですが」
そこで、レオンは視線を落とした。
「強いだけではない」
エドガーは黙って聞いていた。
「誰かのために考え続けている。自分のことを後回しにして」
少しだけ笑う。
「だから、ときどき心配になります」
その言葉を口にして、レオン自身が、気づいた。
「……私は、彼女のことをもっと知りたいと思っています」
静かな声だった。
「仕事だけではなく、一人の人間として」
エドガーは、茶を一口飲んだ。
「そうですか」
それだけだった。
けれど、その目は、何かを確かめるようにレオンを見ていた。
しばらくして、エドガーは立ち上がり、窓辺へ向かった。
「アステリアの頭領には『迎え人』が必要です」
レオンは顔を上げた。
それだけだった。
長い説明はなかった。
けれど、その一言で十分だった。
『迎え人』、単なる夫ではない。
頭領の隣に立ち、島の人々と暮らし、外から来た人間として、この島を理解し、
やがては、その未来を共に背負う者。
ダイアナが頭領である限り、彼女の人生と、アステリアの未来は切り離せない。
つまり、彼女を選ぶということは、彼女だけを選ぶことではない。
アステリアもまた、自分の人生に迎え入れるということだ。
レオンは黙った。
王都に帰れば、自分は侯爵家の三男として生きる。
ヴァレンティス家の人間として、与えられた役割を果たす。
それは、決して不自由な人生ではない。
むしろ、恵まれている。
けれど、今、目の前にあるアステリアの未来を、
ダイアナの隣で生きる未来を想像してしまう。
その瞬間、自分の中に、これまでなかった迷いが生まれた。
「私は」
レオンは、ゆっくりと言った。
「まだ、答えを出せません」
エドガーは振り返らなかった。
「そうでしょうね」
責める声ではなかった。
だからこそ、レオンは続けた。
「彼女に選ばれたいと思っています」
初めて、はっきりと言葉にした。
「ですが」
レオンは目を伏せる。
「私が、彼女に選ばれることだけを望んでいるのか。
それとも………」
そこで言葉が止まった。
エドガーは、何も急かさない。
レオンは、静かに息を吐いた。
「私自身が、アステリアを選べるのか」
その問いは、誰かに向けたものではなかった。
自分自身への問いだった。
エドガーは、しばらく黙っていた。
「それを考える時間は、あります」
静かな声だった。
「ですが、いずれ答えを出す必要はあるでしょう」
レオンは頷いた。
「分かっています」
「ダイアナ様は、誰かに人生を決めてもらう方ではありません」
その言葉に、レオンは、少しだけ笑った。
だからこそ、惹かれたのだと思う。
自分の立場や身分ではなく、一人の人間として向き合ってくれる。
自分の意思を尊重してくれる。
それなのに、彼女の隣に立つ覚悟だけは、自分自身で決めなければならない。
それは、誰かに背中を押してもらえば済むことではなかった。
エドガーの家を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。
港の灯りが遠くに見える。
海風が冷たい。
レオンは足を止めた。
振り返る。
古い家の窓から、暖炉の光が漏れている。
その家には、十二代にわたる仕え人の歴史がある。
誰かの隣に立つことを、代々選び続けてきた家。
その重みを、レオンは初めて、少しだけ理解した。
自分も、何かを選ばなければならない。
侯爵家の三男として生きるのか、それとも、レオン・ヴァレンティスとして生きるのか。
自分が望む人生を選ぶのか。
そして、その人生の中に、ダイアナがいるのか。
アステリアがあるのか。
まだ、わからない。
ただ、一つだけ、はっきりしていた。
以前なら「王都へ帰る」それだけで自分の未来が見えた。
今は、違う。
海の向こうに王都がある。
そして、背後には、ダイアナのいるアステリアがある。
レオンは、静かに海を見た。
「……ここを離れたあとも、私はこの島のことを考えるのだろうか」
小さく、呟く。
答えは、もう分かっていた。
マリー「……エドガー様、静かに見守ろうと仰っていたのに……」




