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第19話 揺れ

アステリアの南西部には、昔から小さな湾がいくつかある。

島の人間なら、その存在を知っている。

古い海図にも記録されている。


ただし、どの湾も、正式な港として使われてはいなかった。


南西の海は潮の流れが複雑だった。

風向きが変われば、同じ場所でも船の動きが変わる。

海面が穏やかでも、少し沖へ出れば流れが突然早くなる。

岩礁も多い。


そのため、アステリアの船乗り達は昔から南西部を慎重に扱ってきた。

港を作るより、今ある港を使ったほうが安全だった。


けれど、アステリアの交易船は増えていた。

南方との取引も広がっている。

船団が大きくなれば、一つの港だけでは対応できない。


ダイアナは、古い海図を広げながら考えていた。


「新しい港が必要だわ」


エドガーが地図を見る。


「南西部ですか?」

「ええ」

「難しい場所です」

「分かっている」


ダイアナは、海図の南西側に指を置いた。


「だからこそ、一度きちんと調べたいの」


南西部には、昔から船乗りたちが使ってきた細かな航路がある。

潮の流れを読みながら進む、島独自の道。

外部の海図には載っていない。

アステリアが「地図にない島」と呼ばれる理由の一つでもあった。


王都の地図では、アステリアそのものの位置が正確には記されていない。

周辺海域も、実際の航路とは異なるように描かれている。


けれど、島の人間は知っている。

どこに岩礁があるのか。

どの潮なら湾へ入れるのか。

どの風なら沖へ出られるのか。

それは、紙の上の地図だけでは伝えられない知識だった。


「トーマスに頼みましょう」


ダイアナが言った。


「アステリアの海を一番よく知っているもの」


エドガーが頷く。


「承知しました」


―

翌朝。


トーマスは調査船の準備をしていた。

カイルが、トーマスに声をかけた。


「俺も一緒に行っていいか。

 南西部の潮流について、王都海軍の記録と照らし合わせたい」


トーマスは無言だったが、連れて行かないとは言わなかった。


カイルは、船乗りとはいえ、王都の人間だ。

アステリアへ来たのも、レオンの任務に同行するためだった。


それでも、ここへ来てから、アステリアの海を何度も見てきた。

王都の海図にはない潮。

島の船乗りだけが知る航路。

風が変わる前の海の匂い。

そうしたものに、彼は強く惹かれているようだった。


―

出航の日。


空は穏やかだった。

風も安定している。

天候が崩れるという予報はなかった。


調査船は、南西へ向かった。

カイルは甲板から海を見ていた。

手には王都で使っていた海図がある。

その横には、アステリアの古い航海図。


二つを比べる。

アステリアの古い海図には、細かな印がいくつもある。

ただし、それも完全ではない。


「ここから先は、紙より海を見ろ」


トーマスが言った。


カイルが言った。


「ああ」

「海図を信じすぎるな」


カイルは海を見る。

王都で学んだ航海術は、正確だった。

けれど、アステリアの海ではそれだけでは足りない。

島の船乗りたちは、海図に書かれていないことまで知っている。


潮が岩礁へぶつかる音。

遠くの波の色。

雲の動き。

風の匂い。

それらを総合して、海を読む。

カイルは、その感覚を少しずつ理解し始めていた。


「面白いな」


思わず呟く。


トーマスが笑う。


「やっぱり、お前は海が好きだな」


―

昼を過ぎた頃。

風が変わった。

ほんの少しだった。

けれど、トーマスが空を見上げた。


「……戻る準備をする」

「天気が崩れる?」

「予定より早い」


カイルも空を見る。

遠くに黒い雲が広がっている。


「風向きも変わってる」

「そうだ」


二人は船員たちへ指示を出した。

だが、予定より早く、風が強くなった。

波が高くなる。

船体が揺れる。


一度。

二度。

大きく傾く。


「帆を落とせ!」


トーマスの声が響いた。

カイルもすぐに動いた。


「前帆を絞れ!」


船員たちが走る。

船は波を受けながら進んでいく。

カイルは海図を見た。

南西部には、避難できる湾がいくつかある。


「トーマス!」


カイルが叫ぶ。


「西寄りに小さな湾がある!」

「知ってる!」

「入れるか?」

「潮を見ろ!」


カイルは海面を見る。

湾の入り口付近だけ波の向きが違う。


「今なら入れる!」

「舵を切る!」


船が大きく方向を変えた。

波が船体を叩く。

一瞬、視界が白くなる。

それでも、船は湾へ向かった。

狭い入り口を抜ける。


その先では、嘘のように波が弱くなった。

船員たちが安堵の息を吐く。


「……入った」


カイルは周囲を見る。

切り立った岸壁。

深い湾。

風を遮る地形。

古い海図にも記録されている場所だった。


「ここまで安全だとは思わなかった」


カイルが言った。

トーマスが頷く。


「普段は使わないからな」

「港にできる可能性がある」

「俺もそう思う」


二人は湾を見渡した。

嵐が来たからこそ、この場所の価値が分かった。


―

夜。

風が少し弱まった。

船員たちは船室へ戻った。


甲板には、カイルとトーマスだけが残っていた。

トーマスが酒を差し出す。


「飲むか」

「少しだけ」


二人で海を見る。

昼間の荒れた海が嘘のように静かだった。


しばらくして、トーマスが口を開いた。


「カイル」

「何だ?」

「お前、ダイアナのことをどう思っている?」


カイルの手が止まった。


「………」

「答えろ」


カイルは海を見た。

月明りが、波の上で揺れている。

しばらくして、カイルが答えた。


「好きだ」


トーマスは何も言わなかった。

カイルは続けた。


「海と一緒に生きている」


最初は、ただの興味だと思った。

船を見る目。

潮を読む姿。

海の話をするときの表情。

海をただの仕事場として見ていない。


――彼女自身が、アステリアの海そのもののようだ


トーマスが少し笑った。

カイルも笑う。


けれど、その表情はすぐに真剣になった。


「それと」

「何だ?」

「俺は、アステリアの人たちの生き方も好きになった」


トーマスが海を見る。


「海が荒れたら、無理に出ない」

「帰ることを恥じない」

「遠くへ出ても、帰る場所を忘れない」


カイルは続けた。


「王都では、任務を終えることが大事だった」

「ここでは?」

「島に帰る、港に帰る」


その言葉に、トーマスは何も言わなかった。


「俺は、そういう生き方が気に入った」


カイルは自分の手を見た。

海軍にいた頃についた傷。

船乗りとして働いてきた痕跡。


「アステリアの海を知りたい。

 それが、俺がここに来た理由だった。

 知れば知るほど、この海をもっと知りたいと思う」


トーマスがカイルを見る。


「アステリアに残りたいのか?」


カイルはすぐには答えなかった。

答えられなかった。


「それなら、まだ決めなくていい

 海だって、風向きが変われば進路を変える」


カイルは笑った。


「トーマスらしいな」

「船乗りだからな」


二人は静かな海を見た。


―

翌朝。


嵐は過ぎていた。

湾の外へ出ると、海は昨日までとは違う顔を見せていた。

カイルは水深を測り、潮の流れを記録する。

湾へ入るための安全な角度を書き込む。


昨日の嵐が、この場所を教えてくれた。


「ここなら」


カイルが海図へ印をつける。


「避難港として使える」


トーマスが頷く。


「港を作るなら、防波堤も必要だな」

「でも、可能性はある」


カイルは、海を見た。

自分が今、見ているもの。

王都の海図には載っていない。

けれど、アステリアの人々が、長い時間をかけて知ってきた海。

そこに、自分の知識を重ねることができる。

そのことが、不思議なくらい嬉しかった。


―

帰港したのは、予定より一日遅れてからだった。

港にはダイアナがいた。

船が見えた瞬間、彼女の表情が、わずかに緩む。

カイルは、それを見逃さなかった。


船が桟橋に着く。


「おかえりなさい」


ダイアナが言った。


「ただいま」


カイルが答える。


その二つの言葉が、なぜか、心に残った。


誰かが自分の帰りを待っていてくれる。

王都か。

アステリアか。


その二つの場所の間で

自分の心そのものが、静かに揺れていた。





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