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第18話 知らない横顔

その日は、朝から穏やかな一日だった。

王都から届く書状も少なく、港にも大きな問題はなく、七氏族からの急ぎの報告もなかった。


ダイアナは久しぶりに、何の予定もない午後を迎えていた。

とはいえ、何もしないことには慣れない。

結局、砦の中を歩きながら、気になった書棚を整理したり、古い航海記録を眺めたりしていた。


ふと、庭へ続く扉が目に入る。

外は、秋の終わりを思わせる柔らかな陽射しに包まれていた。


少しだけ外へ出よう。

そう思って扉を開ける。


庭の奥、大きな木の下に、古いベンチがある。

普段はほとんど使われていない場所だった。

そのベンチに誰かが座っていた。


ダイアナは足を止めた。

濃紺の上着が、ベンチの背にかけられている。


白いシャツ。

袖は肘のあたりまで無造作に捲られていた。

そして、その人は、本を膝に置いたまま眠っていた。


「……レオン?」


思わず、声が小さくなる。

返事はない。

眠っている。


ダイアナは、しばらくその場から動けなかった。

レオンが昼間に眠っているところなど、初めて見た。


いつもなら、髪はきちんと整えられている。

服にも皺一つなく、背筋はまっすぐ。

本を読むときでさえ、どこか端正な緊張感がある。


けれど、今は違った。

ネクタイは外されている。

襟元が少しだけ開いている。

シャツの袖から伸びた腕も、普段よりずっと無防備に見えた。


風が吹くたび、額にかかった髪がわずかに揺れる。

ダイアナは、なんとなくその横顔を見つめた。

整った顔立ちなのは、もちろん知っている。

これまでに何度も見てきた。

話している時の表情も、考え込んでいる時の目元も、

笑った時に、ほんの少し柔らかくなる口元も。


知っているはずだった。


それなのに、今日は、なぜか視線が離れなかった。


長い睫毛が頬に細い影を落としている。

いつもなら静かな知性を宿している瞳も、今は閉じられている。

眉間にも、わずかな緊張すらない。

少し乱れた髪。

緩んだ襟元。

膝の上に置かれた旅行記。


どれも特別なものではない。


ただ、いつものレオンとは、少し違って見えた。

ダイアナは、その違いが何なのか考えようとして、ふと、自分が長いこと

彼を見ていたことに気づいた。


そっと視線を本へ戻す。


けれど、数行読んだところで、また目が彼へ向かう。

眠っている。

ただ、それだけなのに。

どうしてだろう。


もう一度だけ、と自分に言い聞かせるように見る。


長い睫毛。

穏やかな呼吸。

力の抜けた横顔。


その姿を見ていると、胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かなくなった。

ダイアナは無意識に、自分の指先を握る。

心臓が、いつもより少し早い。


そのことに気づいて、ようやく、視線を逸らした。


――どうして、こんなに気になるのだろう


答えは、まだ分からない。

ただ、いつものように「整った顔立ちの人」だと思ってみていたはずなのに。

今日は、それだけでは済まない何かを感じてしまった。


膝の上に置かれた旅行記のページが、風でふわりとめくれた。

その拍子に、本がずれる。


ダイアナは反射的に手を伸ばした。

落ちる前に、支えようとしたのだ。

けれど、同時に、レオンの指も動いた。

二人の指先が、本の端で触れ合う。


ダイアナの手が止まった。

レオンの睫毛が、わずかに揺れる。

起こしてしまったかと思った。


けれど、まだ眠っている。


ダイアナは、そっと本を戻した。

そのとき、レオンの指が、本の端を抑えるように動いた。

眠ったまま。

無意識の仕草だった。

ダイアナは、なぜか少しだけ笑った。


普段のレオンなら、本が落ちる前に気づいて、きちんと受け止めていたかもしれない。

けれど、今日は、気づかなかった。

それだけのことなのに、妙に親しみを覚えた。


――この人も、こんな風に眠るんだ


そう、思った。



しばらくして、レオンの睫毛が、再び動いた。

今度は、ゆっくりと目が開く。


まだ眠りの中にいるような、柔らかな瞳。

数秒。

焦点が定まらない。

それから、隣にいるダイアナ¥を見つけた。


「……ダイアナ?」


声が、いつもより低かった。

眠気を含んだ、少し掠れた声。


ダイアナの心臓が、大きく跳ねる。


「……ええ」

「いつから、ここに?」

「少し前よ」

「そうでしたか」


レオンは、自分の膝にある本へ視線を落とす。

それから、自分の服装に気づいたらしい。

外したネクタイ。

捲った袖。

背にかけられた上着。


「……眠ってしまったのですね」

「ええ」

「失礼しました。お見苦しいところをお見せしてしまいましたね」

「そんなことないわ」

「そう言っていただけると助かります」


レオンは、少し困ったように微笑んだ。


「休日くらいは、少し気を抜いてもいいかと思っていたのですが」

「十分、気を抜いていたわね」


ダイアナが言う。

レオンは小さく笑った。


「そのようですね」


その笑顔が、また少しだけ、いつもと違って見えた。

ダイアナは慌てて視線を庭へ向ける。


「……今日は、お休みだったの?」

「ええ」


レオンは頷いた。


「久しぶりに予定がありませんでしたので、少し庭で本を読もうと思っていたのですが……」

「眠ってしまった」

「そのようです」

「旅行記でしょう?」

「ええ」


レオンは表紙を撫でた。


「以前から読みたかったものなのです」

「どこの国?」

「南方の国です」


そう言ってから、レオンはダイアナを見る。


「あなたが、行ってみたいとお話されていました」

「……覚えていたの?」

「はい」


あまりに自然な答えだった。


ダイアナは少し驚く。

以前、ほんの何気なく話したことだった。

それを、覚えている。


「よく覚えているのね」

「覚えておきたいことですから」


レオンは、ごく穏やかに言った。


「……そう」


それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。


―

風が吹いた。


今度は、ダイアナの本から一枚のしおりが落ちた。

紙の端が風に煽られ、芝生の上を滑っていく。


「あっ」


ダイアナが立ち上がる。

レオンも同時に立ち上がった。

二人でしおりを追う。


けれど、あと少しというところで、紙が風に押されて方向を変えた。

ダイアナが先に手を伸ばす。

レオンも同時に手を伸ばす。

また、指先が触れた。


今度は、二人とも気づいた。

ダイアナが、ほんの少しだけ手を止める。

レオンも、同じように止まった。


一瞬。

視線が重なる。

近い。

そう思った。


レオンの瞳が、すぐ近くにある。

普段は机を挟んで話すことが多い。

会議の席でも、港でも、一定の距離がある。


なのに、今は、ほんの少し手を伸ばせば届く距離だった。

レオンは、すぐに手を引いた。


「どうぞ」


丁寧な声。

いつもと変わらない。


「……ありがとう」


ダイアナはしおりを受け取った。

ただ、指先に残った感触が、なぜか気になった。


「大丈夫ですか?」


レオンが尋ねる。


「え?」

「少しぼんやりされているように見えました」

「……何でもないわ」

「そうですか」


レオンは、それ以上尋ねなかった。

たが、少しだけ微笑んだ。


二人は、再びベンチへ戻った。

レオンは上着を手に取る。

肩にかける、そして、外していたネクタイを手にした。

いつものように結びなおす。

少しずつ、端正な姿へ戻っていく。


その様子を見ながら、ダイアナは不思議な気持ちになった。


さっきまで、木陰で眠っていた人。

髪が少し乱れて、ネクタイも外して、本を抱えたまま眠っていた人。


今は、いつものレオンに戻っている。

背筋を伸ばし、静かにネクタイを整える。

けれど、ダイアナには、もう少し、違って見えた。


侯爵家の三男。

王都から来た貴族。

交易や外交に詳しい人。


そういう肩書の奥に、本を読みながら眠ってしまう人がいる。

休日には庭で一人、旅行記を読む人がいる。

風でしおりが飛べば、二人で追いかける。

そして、自分が何気なく話したことを、覚えていてくれる。


心の距離が、ほんの少しだけ近くなった気がした。


「今日は、もう少しここにいませんか?」


レオンが言った。


「え?」

「天気もいいですし」


レオンは庭を見た。


「久しぶりに、こうしてゆっくりお話しできそうですから」


ダイアナは彼を見る。

さっきまで眠っていたせいか、いつもの落ち着いた声より、

少しだけ柔らかく聞こえる。


「……ええ」


ダイアナは頷いた。


「そうしましょう」


二人は並んで座った。

今度はさっきより少しだけ近い。


けれど、どちらも、その距離について何も言わなかった。

ダイアナは本を開く。

レオンも旅行記を開く。


しばらく二人とも読んでいた。

静かな時間だった。


やがて、レオンが言う。


「この国には、海辺に古い街があるそうです」

「そうなの?」

「ええ。港の周りに市場があって、朝になると漁師たちが集まるそうです」

「アステリアみたいね」

「少し似ているかもしれません」


レオンは笑った。


「でも、いつか実際に見てみたいと思っています。


ダイアナは彼を見る。


「私も」

「………」

「知らない街を見るのが好きなの」

「知っています」

「またそれ」


ダイアナは笑った。

レオンも微笑む。


ダイアナは、ふと思った。


――この人となら。いつか知らない街を一緒に歩くのも悪くないかもしれない


その考えが浮かんだことに、自分自身が少し驚いた。


―

夕方。


レオンは庭を出ることになった。


「それでは、私は戻ります」

「ええ」

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」


レオンは一度、木の下を振り返った。


「ここは、思っていたより落ち着きますね」

「そうでしょう?」

「ええ」


そして、

「また、ここで本を読んでもいいでしょうか?」

「もちろん」


レオンは少し笑った。


「では、また」

「ええ。またね」


レオンが歩いていく。

ダイアナは、その背中をしばらく見ていた。


濃紺の上着。

整えられた背筋。

静かな歩き方。


やがて、角を曲がって姿が見えなくなる。


庭が、急に広く感じられた。

ダイアナはベンチを見る。

そこには、レオンが座っていた跡が残っている。

膝の上に置かれていた旅行記の記憶。

眠っていた横顔。

長い睫毛。

指先が触れた一瞬。


そして、眠りから覚めたときの、少し低く柔らかな声。


ダイアナはそっと息を吐いた。


「……不思議ね」


誰に言うでもなく呟く。

いつも話している人なのに、今日、初めて知ったことがいくつもあった。


そして、もっと知りたいと思った。

それが何を意味するのか、まだ、分からない。


レオンがいなくなった庭が、少しだけ物足りなく感じられた。

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