第17話 小さな変化
図書室で、二人が名前を呼びあった日から、数日が過ぎた。
アステリアの毎日は、何も変わっていないように見えた。
朝になれば港の鐘が鳴る。
船が出て、荷が運ばれ、砦では七氏族から届いた書類が積み上がる。
ダイアナはいつも通り執務室にいて、島のことを考えている。
レオンも交易館で、王都や周辺国から届く書状を整理している。
二人の仕事も、暮らしている場所も、何ひとつ変わっていない。
けれど、エドガーは、ほんの小さな違いに気づいていた。
それは、ダイアナの声だった。
「レオン」
書類を確認している途中、ふと、彼女がそう口にした。
交易に関する報告書の中に、レオンが書いた注釈を見つけたときだった。
以前なら「ヴァレンティス卿が」そう呼んでいた。
それが、今は「レオンが」と、自然に名前が出る。
本人は、特に意識していないようだった。
けれど、その名前を口にしたあと、ほんの一瞬だけ、ダイアナの表情が柔らかくなる。
エドガーは、その変化を見逃さなかった。
大きな変化ではない。
誰かに指摘されれば、本人はきっと否定するだろう。
ただ名前を読んだだけ、それだけのことだと。
けれど、人との距離は、そういう小さなことから変わっていく。
―
レオンのほうにも、同じような変化があった。
以前より、砦に来る回数が少し減った。
仕事が忙しくなったわけではない。
むしろ、交易館での仕事は以前より効率よく進んでいる。
それなのに、用件がなければ、砦へ足を運ばなくなった。
エドガーには、その理由が分かっていた。
レオンは、慎重になっている。
図書室で、ダイアナと名前を呼びあった日。
その日を境に、自分の中にある感情を、以前より強く意識するようになったのだろう。
だから、近づきすぎないようにしている。
自分の気持ちを、ダイアナに押し付けないために。
彼女が心地よいと思っている距離を壊さないために。
それは、レオンらしい変化だった。
誰かを想うことを覚えたからといって、すぐに、その人の人生へ踏み込もうとしない。
むしろ、相手の意思を尊重するために、一歩引く。
エドガーは、そんな彼の不器用さを少しだけ好ましく思った。
そして、同時に、これまで自分の望みを後回しにしてきた男が
初めて自分自身の感情を持て余していることを微笑ましくも思っていた。
―
マリーも、ダイアナの変化に気づいていた。
図書室から戻ってきた日の夕方、ダイアナは、いつもより静かだった。
疲れているようにも見えた。
けれど、不機嫌ではない。
むしろ、何かを思い出しているような、そんな柔らかな表情をしていた。
食事の席でも、ふとした瞬間に、口元が緩む。
そして、自分でもそれに気づくと、何事もなかったように料理へ視線を戻す。
マリーは何も尋ねなかった。
お嬢様が話したいと思った時に話せばいい。
昔から、それがマリーの考えだった。
幼い頃のダイアナも、嬉しいことがあれば、自分から話しに来た。
反対に、悲しいことがあれば、しばらく一人で抱えてから、ようやく口を開いた。
だから、今も待つ。
その夜、ダイアナの部屋へ食事を運んだとき、机の上に、一冊の本が置かれているのが見えた。
図書室の本だった。
表紙を見ただけで、マリーには、それがどんな本なのかわかった。
旅行記。
最近、ダイアナが良く読んでいる種類の本。
けれど、その本には、細い紙片が何枚か挟まれていた。
印をつけた個所があるらしい。
以前のダイアナなら、気になった本を一人で読み、面白かったとしても
それを誰かと共有することはあまりなかった。
けれど、今は、本を読むことそのものではなく
「この話を誰かと話したい」
という気持ちが、少しずつ生まれているように見えた。
それが、誰なのか、マリーには、もう分かっていた。
―
数日後。
マリーは廊下でレオンとすれ違った。
彼は一冊の本を持っていた。
それほど厚くない。
古い革張りの本。
王都から持ってきたものだろう。
レオンは、普段ならそのまま通り過ぎる。
けれど、その日は、ほんの少しだけ歩みを緩めた。
マリーは気づいた。
彼が、その本を大切そうに抱えていることに。
そして、その本を持って向かっている先が図書室であることにも。
何も聞かない。
マリーは、静かに道を譲った。
レオンも小さく会釈をして通り過ぎる。
その背中を見送って、マリーは思った。
きっと、あの本は、ただ読むための本ではない。
誰かに読んで欲しい本なのだ。
―
午後。
図書室には、柔らかな光が差し込んでいた。
高い窓から入る光が、長い本棚の間に細い帯を作っている。
埃が、その光の中でゆっくりと舞っている。
静かな部屋。
紙と革と木の匂い。
ページをめくる小さな音。
その中で、ダイアナは一冊の旅行記を読んでいた。
しばらくして、隣の机に、一冊の本が置かれた。
顔を上げる。
レオンだった。
彼は何も言わず、本の表紙をダイアナの方へ向けた。
王都で出版された旅行記。
アステリアから遠く離れた国の港町について書かれている。
ダイアナは表紙を眺め、それから、レオンを見た。
彼は少しだけ目を伏せていた。
以前なら、彼女は、ただ礼を言って受け取っただろう。
けれど、今は違う。
本を手に取り、ページを開く。
最初の数行を読む。
それだけで、自分が好きそうな本だと分かった。
そして、レオンが自分の好みを覚えていたことも。
ダイアナは小さく笑った。
「ありがとう」
その声に、レオンも、ほんの少し笑う。
それだけだった。
けれど、二人の間には、以前にはなかったものがあった。
一冊の本。
名前で呼ぶこと。
また話したいと思うこと。
それだけの、小さな変化。
―
その日の夕方。
エドガーは執務室で、レオンから届いた書類を整理していた。
一枚。
また一枚。
几帳面な文字が並んでいる。
いつも通り、無駄がない。
けれど、最後のページの端に、小さな追記があった。
交易とは関係のない一文。
――先日の旅行記について、またお話しできればと思います。
エドガーは、その一文をしばらく見つめた。
そして、何も言わずに書類を閉じた。
―
夜。
マリーはダイアナの部屋を片付けていた。
机の上には、昼間、レオンから渡された旅行記がある。
その隣には、ダイアナが以前から読んでいた本。
二冊、並んで置かれている。
マリーは、その光景を見て、ほんの少しだけ笑った。
昔、幼いダイアナは、本を読んでいるときだけは、誰にも邪魔されたくない顔をしていた。
今は違う。
本を通して、誰かと時間を分け合おうとしている。
それが、マリーには嬉しかった。
誰を選ぶのか。
いつ選ぶのか。
まだ分からない。
カイルもいる。
レオンもいる。
どちらも、ダイアナにとって大切な人になりつつある。
だからこそ、マリーは何も決めつけなかった。
ただ、ダイアナが、誰かと一緒にいることで、自分の世界を少し広げていくこと。
それだけを、静かに見守っていた。
―
翌朝。
エドガーとマリーが、偶然同じ廊下を歩いていた。
二人とも、何かを考えるような顔をしていた。
先に口を開いたのは、マリーだった。
「エドガー様……」
「何でしょう」
「最近、お嬢様の様子が少し変わられましたよね」
エドガーは、すぐには答えなかった。
やがて、
「私も、そう思っていました」
二人は歩みを止めた。
窓の外には、朝の港が見える。
船が一隻、ゆっくりと港を出ていく。
「本を読む時間が増えました」
マリーが言う。
「それだけではありません」
エドガーが続ける。
「ヴァレンティス卿の名前を口にされることが増えました」
マリーが小さく笑う。
「やはり」
「マリーも気づいていましたか」
「はい」
マリーは少しだけ目を細めた。
「お嬢様が『レオン』と呼ばれるときの声が、以前と違います」
エドガーは頷いた。
「ヴァレンティス卿も、同じでしょう」
「そうなのですか?」
「以前より慎重になっています」
「どうしてでしょう」
「近づきたいからこそ、近づき過ぎないようにしているのでしょう」
マリーは、少し考えた。
「不器用な方ですね」
「ええ」
二人とも小さく笑った。
それから、マリーが静かに尋ねる。
「……エドガー様は、どう思われますか?」
エドガーは窓の外を見た。
朝の海。
光を受けた波。
その向こうに、アステリアの未来がある。
「まだ、何も決まっていません」
「はい」
「ですが」
エドガーは穏やかに続けた。
「以前より、ダイアナ様が楽しそうなのは確かです」
マリーは頷いた。
「私もそう思います」
二人は、それ以上は言わなかった。
どちらがいい。
どちらを選ぶべき。
そんな話ではない。
ダイアナの中に、少しずつ、新しいものが生まれている。
それを、二人とも感じ取っていた。
そして、その小さな変化を、急かすことなく、邪魔することなく、見守る。
それが、長くダイアナを見てきた二人にできる一番のことだった。




