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第16話 図書室

アステリアの砦には、古い図書室がある。

大広間や執務室から少し離れた、静かな一角。

厚い石壁に囲まれたその部屋へ入ると、まず目に入るのは、天井近くまで届く巨大な書架だった。


濃い色の木で作られた棚が、長い回廊のように何列も続いている。

高い位置にある本を取るための木製の梯子。

長い年月を重ねた机。

細長い窓から差し込む午後の光。

その光の中を、細かな埃がゆっくりと舞っている。


古い革の匂い。

乾いた紙の匂い。

木の匂い。


何代もの人間が触れてきた本が持つ、独特の静かな匂い。


王都の大きな図書館にも負けないほどの本が、ここには収められていた。

けれど、その多くは、王都のように整然と分類されているわけではない。


海図。

航海記。

交易記録。

異国の地誌。

古い法律書。

薬草についての書物。

七氏族それぞれの記録。


そして、ダイアナの父が残した航海日誌。

母が若い頃に読んでいた旅行記。

祖父母の代から受け継がれてきた手紙。

この図書室そのものが、アステリアの歴史だった。


ダイアナにとって、ここは本を読む場所であると同時に、

家族から受け継いだものが眠る場所でもある。


父が海図を広げていた机。

母が窓辺で本を読んでいた椅子。


幼いころのダイアナが、背伸びをして本を取ろうとして落とした小さな木箱。

棚の一角には、父の筆跡で書かれた分類札が残っている。


その字を見るたび、ダイアナは、両親がまだここにいるような

気がすることがあった。


だから、この場所へ来る時だけは、自然と足音が静かになる。


今日も、ダイアナは一冊の本を探していた。


「確か、この辺りだったと思うのだけれど……」


古い航海記。

アステリア周辺の海流について書かれた記録だった。

指先で背表紙を追っていく。


そのとき、書架の向こうから人の気配がした。


誰かがいる。


ダイアナは少しだけ、顔を上げた。


長い机の向こうに、一人の男が座っている。

レオンだった。

数冊の資料を広げ、何かを書き留めている。


細いペンを持つ指。

紙へ落とされた視線。

いつものように姿勢が整っている。


けれど、一つだけ、ダイアナは気づいた。


レオンが、時々髪に触れている。


考え込むとき。

少し迷ったとき。

指先で前髪を軽く払う。

そして、何事もなかったように手を戻す。


本人は気づいていないらしい。


「ヴァレンティス卿」


声をかける。

レオンが顔を上げた。


「……アステリア殿」


その瞬間、彼の手が、また髪へ触れた。

ダイアナは少し笑った。


「何を調べているの?」

「古い航路についてです」


レオンは机の上の資料を示した。


「エドガー殿から、いくつか資料をお借りしています」

「エドガーから?」

「はい」


その中に、一冊の古い本がある。


深い茶色の革表紙。

角は擦れている。

何度も開かれた跡があった。


「それは?」

「旅行記です」


ダイアナの目が輝いた。


「旅行記?」

「ええ」


レオンは本を手に取った。


「西方の港町を巡った商人が書いたものです。

 ずいぶん古いものですが、港の様子が詳しく残されています」

「面白そう」

「かなり面白いですよ」


いつもより、レオンの声が少し柔らかい。

ダイアナは気づいた。

この人は、本の話になると、少し雰囲気が変わる。

普段は落ち着いていて、必要なことだけを話す。


けれど、今は、本を持つ手も、ページをめくる指も、

少しだけ楽しそうだった。


「どんな話?」


ダイアナが尋ねる。

レオンは本を開いた。


「最初に訪れた港で、著者は市場の魚について延々と書いています」

「魚?」

「ええ」

「旅行記なのに?」

「本人にとっては、それが一番印象的だったのでしょう」


ダイアナが笑う。


「それ、少し分かるわ」

「アステリア殿も?」

「ええ。知らない土地へ行ったら、その土地の食べ物を知りたいもの」


レオンが少し目を細める。


「では、旅行先では市場へ?」

「必ず」

「意外です」

「どうして?」

「頭領なら、まず政治や港を見るものかと」

「それも見るわ」


ダイアナは笑った。


「でも、人が何を食べているかを見れば、

 その土地の暮らしが分かるでしょう?」


レオンの手が止まった。


「……なるほど」

「何?」

「私も同じことを考えていました」


二人は顔を見合わせた。

そして、どちらからともなく笑った。


そこからだった。

話が止まらなくなった。



旅行記に書かれた港の話。

異国の市場。

遠い国の祭り。

海を越えた交易。

知らない土地の風景。


「この著者は、港を少し美化していると思うわ」


ダイアナが言えば、


「私もそう思います」


レオンが答える。


「滞在が短すぎる」

「ええ。実際に暮らす人間の視点が抜けています」

「でも、旅人だから見えるものもあるでしょう」

「確かに」


二人の考えは同じではない。

だからこそ、面白かった。

気づけば、レオンは資料を忘れていた。

ダイアナも、探していた本のことを忘れていた。


窓から差し込む光が、少しずつ机の上を移動していく。

それでも、二人は話していた。


「……こんなに話したの、久しぶりだわ」


ダイアナが笑う。


「私もです」


レオンはそう答えた。


そして、無意識に、また髪へ触れた。

ダイアナがそれを見る。


「レオン」


言ってから、止まった。

静かな図書室に、自分の声だけが残った。


レオンも、動きを止めた。

ダイアナ自身が驚いている。

今まで「ヴァレンティス卿」、そう呼んでいた。


それなのに、なぜか、今は自然に「レオン」と呼んでしまった。


「……今」


レオンが静かに言う。

ダイアナの頬が少し熱くなる。


「ごめんなさい」

「謝らないでください」


レオンは微笑んだ。

けれど、緊張した時のように、また髪へ触れた。

ダイアナは、それを見てしまった。


「あなた、緊張すると髪を触るのね」

「……そうですか?」

「ええ」


レオンは自分の手を見る。


「気づいていませんでした」

「今も触っているわ」

「………」


レオンは、少し困ったように笑った。

その表情が、ダイアナには、今までよりもずっと近く感じられた。


「それなら」


レオンが、少しだけ言葉を選ぶ。


「私も、ダイアナと呼んでも?」


胸の奥が小さく跳ねた。

ダイアナは彼を見る。

少しだけ間をおいて。


「いいわ」


レオンの表情が柔らかくなる。


「ありがとう」

「こちらこそ」


二人は、また笑った。

それだけだった。

何も特別なことは起きていない。


ただ、名前の呼び方が変わっただけ。


けれど、ダイアナには、それが、思っていた以上に大きなことのように感じられた。


「じゃあ……また、この旅行記の続きを聞かせて」

「もちろん」


レオンは本を閉じた。


「次は、別の旅行記もお見せします」

「あなたが王都から持ってきた本?」

「ええ」

「楽しみだわ」

「では、明日」

「約束ね」

「はい」


二人は図書室を出た。

長い書架の間を並んで歩く。

高い窓から差し込む夕方の光が、二人の影を古い木の床へ長く伸ばしていた。


扉の前で、ダイアナが振り返る。


「またね、レオン」


レオンは一瞬だけ目を細めた。


「ええ。また、ダイアナ」


その呼び方を聞いたとき、ダイアナは、ほんの少しだけ笑った。

まだ、恋だとは思っていない。

レオンも、自分の胸の奥にあるものを、まだ、言葉にはしていなかった。


ただ、この日、図書室で過ごした時間は、二人にとって初めて「頭領」と

「王都の貴族」という肩書を忘れて過ごした時間だった。


受け継がれてきた本に囲まれ、遠い国の話をし、同じところで笑い、

同じものに興味を持つ。


その中で、一人の女性と一人の男として、ほんの少しだけ互いの距離が近づいた。

そして、誰もいなくなった図書室には、古い本の匂いと傾いた夕方の光だけが残っていた。

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