第15話 風向き
トーマスは、最近、港で妙なものを見るようになった。
船でもない。
天気でもない。
ましてや、魚でもない。
――ダイアナだった。
正確には、ダイアナが、港へ来る回数が増えた。
「今日も来たか」
船の点検をしていたトーマスは、遠くから歩いてくる姿を見つけた。
頭領らしい外套。
いつもの髪。
いつもの歩き方。
別に、何も変わっていない。
……ように見える。
だが、
「カイルは?」
最初の一言が、それだった。
トーマスは眉を上げた。
「船の向こうだ」
「そう」
ダイアナは、それだけ答えて港を見渡す。
普通なら、頭領が船の点検に来ることなど珍しくない。
交易の確認。
港の設備。
船団の状況。
仕事はいくらでもある。
だから、トーマスは何も言わない。
ただ、最近は、仕事の話が終わったあとも、ダイアナがすぐに帰らない。
「ところで」
ダイアナが言う。
「この船、帆を変えたの?」
「前のやつが傷んだからな」
「そう」
それだけならいい。
そこから、
「この木材は?」
「北側の森から持ってきた」
「へえ」
「この前より強度がある」
「そうなのね」
……まだいい。
問題は、カイルが戻ってきたあとだった。
「ダイアナ」
「カイル」
それだけ。
二人とも、特別嬉しそうな顔をするわけではない。
けれど。
ほんの少しだけ、声が変わる。
トーマスは、それを聞き逃さなかった。
海の男は、風向きの変化には敏感なのだ。
人の声の変化にも、案外敏感である。
「ここ少し見てくれ」
カイルが船体を指す。
ダイアナが近づく。
「どこ?見せて」
「この辺だ。木材が少し傷んでる」
「本当ね。思ったより傷んでそうね」
二人が並んで船体を見る。
トーマスは少し離れたところで腕を組んだ。
何を見ている。
船か。
木材か。
それとも、互いの顔か。
「………」
トーマスは、心の中で小さく息を吐いた。
まだ本人たちは気づいていないらしい。
―別の日。
ダイアナが港へ来た。
「カイルは?」
「海に出た」
「そう」
「用事は?」
「特にないわ」
「………」
トーマスは黙った。
「何?」
ダイアナがこちらを見る。
「いや」
「何か言いたそうね」
「別に」
「そう?」
「ああ」
トーマスは、視線を海へ戻した。
すると、遠くから小型船が戻ってくるのが見えた。
カイルだ。
ダイアナも気づいた。
その瞬間、ほんの少しだけ、彼女の姿勢が変わった。
背が伸びる。
顔が海へ向く。
そして、船が近づいてくるにつれて、表情が柔らかくなる。
トーマスはそれを見た。
見てしまった。
「……なるほどな」
「何が?」
ダイアナが振り返る。
「いや、風向きが変わった」
「そう?」
「ああ」
トーマスは頷いた。
「南から北へ」
「……変なこと言うわね」
ダイアナは呆れたように言った。
トーマスは笑った。
――わかりやすいのは、お前の方だ。
だが、口は出さない。
―
カイルが船を降りてくる。
「戻った」
「お疲れ様」
ダイアナが言う。
「何かあった?」
「いや。予定より少し潮が早かった」
「そう」
「お前は?」
「私は別に」
「そうか」
それだけ。
たった、それだけなのに、トーマスには分かる。
カイルは、ダイアナがここにいることを知って、少しだけ
安心している。
ダイアナも、カイルが戻ってきたことを確認して、ようやく
肩の力を抜いている。
二人とも、何も言わない。
だからこそ、よく分かる。
「………」
トーマスは、少しだけ笑った。
これは、まだ始まったばかりだ。
―その日の夕方。
カイルが船の帆を畳んでいるいる時、トーマスは隣に立った。
「最近、ダイアナが港によく来るな」
「そうか?」
カイルは帆から目を離さない。
「そうだ」
「仕事だろ」
「そうかもな」
トーマスは頷いた。
「今日は、お前が海に出ている時に来たぞ」
カイルの手が、一瞬止まった。
「……そうか」
「嬉しかったか?」
「何が?
「何でもない」
トーマスは笑った。
カイルは怪訝そうにこちらを見る。
「爺さん」
「何だ」
「最近変じゃないか?」
「お前に言われたくない」
「俺は普通だ」
「そうか」
トーマスは頷いた。
そして、少し離れたところにいるダイアナを見る。
彼女は、港の帳簿を見ている。
けれど、カイルが何か言うと、顔を上げる。
そして、笑う。
トーマスは思った。
――まあ。こいつなら
ダイアナが頭領であることを忘れさせるのではなく、
頭領であることを知ったうえで、一人の女としても、
ちゃんと隣にいてやれる。
それなら、悪くない。
ただ、トーマスには一つだけ気になることがあった。
ダイアナもカイルも、自分たちが少しずつ変わっていることに、
まだ気づいていない。
いや、気づきかけているのかもしれない。
だから、トーマスは何も言わない。
海と同じだ。
潮が変わるとき、無理に船を動かす必要はない。
風が吹けば、帆を張ればいい。
それまでは、待てばいい。
「トーマス」
ダイアナの声がする。
「何?」
「帰らないの?」
「ああ」
トーマスは立ち上がった。
「帰るところだ」
「カイルも?」
「まだ船の片づけをしている」
「そう」
ダイアナは、少しだけ港を振り返った。
その視線の先に、カイルがいる。
トーマスは何も言わず歩き出した。
そして、心の中だけで呟く。
――まあ、こいつなら。
ダイアナの隣にいても、悪くない。
海風が吹いた。
港の帆が、パタンと音を立てる。
トーマスは空を見上げた。
「……風が変わったな」
誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた。
けれど、その顔は、少しだけ嬉しそうだった。




