第15話 聞いてくれて、ありがとう
琴葉は言った。
——騙していてごめんなさい
紗雪は言った。
——私は、ずっと、間違えていました
涙して、頭を下げて。
彼女らは俺にすべてを差し出した。
怖さも、弱さも、プライドも……恋心も。
それは、どんな洒落た言葉よりも。
それは、どんな耽美な姿よりも。
それは、どんな洗練された行動よりも。
俺には、美しく見えた。
俺は、これまでに、あれほど美しいものは見たことがなかった。
俺は。
俺は、どうなんだろう。
騙していなかったのだろうか。
間違えていなかったのだろうか。
グロッキーには、知恵や言葉を借りた。
琴葉には、日の当たる場所を教えてもらい、現実に引っ張り出してもらった。
さらさには、壊れかけた心の底を預けられた。
紗雪には、間違えないよう距離を置いた。
どれも……。
どれも、彼女らの美しさからは程遠い。
どうして。
どうすればいい。
俺は、どうすればいい。
ただ、夜は更け。
そのうちに日が顔を出した。
俺には何もなかった。
彼女らにはあった、勇気も、強さも……。
俺には何も準備ができなかった。
◆◇◆
「おはよ、陽斗」
「ああ、おはよ、琴葉……」
「また酷い顔。今日も寝てないの?」
「寝られるわけないだろ……」
また何も考えられない状態で登校した俺は、席につくなり机に突っ伏した。
頭の中はずっと沸騰していた。
思考が一周どころか百周まわって、何も考えられていなかった。
「顔色がおかしいよ。知恵熱でもあるんじゃない?」
「むしろ頭がマグマ粥だ」
「あははっ、しんどいんだね」
「おい、お前のことで俺は……」
顔を上げて琴葉を見た。
息が詰まった。
琴葉は——不安げに俺を見ていた。
言葉とは裏腹に、迷える子羊のように、助けてほしそうな顔で。
「なによ」
「……ごめん、なんでもない」
「——そのくらい、悩んでくれてるんだよね」
ぼそりと呟いた琴葉の柔らかいその言葉は、聞かなかったことにした。
琴葉の向こう側に紗雪の姿が見えた。
いつもと変わらぬよう、凛とした姿勢で席についていた。
でも。
いつもなら教科書やノートを眺めている彼女だったが、今日はそうではない。
両手を机の上で組んで、ただその組んだ手を見つめていた。
微動だにせず、ただじっと。
「……紗雪もなのね」
「……ああ」
今度は琴葉の呟きに応じた。
そして俺はまた机に突っ伏した。
「悪い。昼まで寝かせてくれ」
「わかった、おやすみ。便宜は図っておくから」
もう、いつも通りの彼女だった。
◆◇◆
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
昨日よりは寝覚めが良かった。
頭のマグマはすっかり冷えていた。
すぐに皆が昼休みに動き出す。
俺は喧騒の中、声をかけた。
「琴葉、来てくれ」
「ひゃぃっ!」
「……おい」
ぼうっとしていたのか、慌ててがたりと立ち上がった琴葉。
まるで授業中にウトウトしていたところを当てられたみたいだった。
「だ、大丈夫だから、大丈夫。行く、行くから」
忙しなく身体を動かすものだから、引いた椅子が真っ直ぐに机に入らない。
こんな余裕のない琴葉を見るのは初めてだった。
そんな彼女のギャップは、かえって俺を冷静にしてくれた。
俺は彼女を連れて、そのまま昨日の空き教室へ向かった。
「……琴葉、話しても良いか」
「えっ! う、うんうん。大丈夫、大丈夫……」
「お前、どうしたんだよ……」
「あ、あはは、どうしたんだろうね、あたし。ずっと落ち着かなくて……」
挙動不審、という言葉が似合うほどに琴葉はそわそわとしていた。
もちろんそれが俺のせいだということは分かっていた。
不意に、ぱん、という音が聞こえた。
琴葉が自分の頬を両手で叩いた。
「——っし。うん、大丈夫。聞かせて」
「あ、ああ」
何だか答えを伝える雰囲気でもなかった。
でもそれが俺の緊張感を解いてくれていたことは有難かった。
「……琴葉、ありがとう。俺はお前がいなきゃ、ずっと動けないままだった」
言わなきゃと思っていたことは、思ったよりすんなり口から出てくれた。
「後輩にも謝れなかった。紗雪とも話せなかった。公園でひとりだったら、多分駄目だった」
琴葉はじっとこちらを見つめていた。
逃げない、伝えたい。
「俺は、琴葉に救われたんだ。本当にありがとう」
「ううん。あたしも……あんたを助けられて良かった」
彼女は深くうなずいて俺の言葉を受け取った。
「お前と一緒にいると楽だった。気負わずに過ごせたのが俺には良かった。琴葉って呼ぶのも、一緒に帰るのも、シュークリームを食べたのも……嬉しかったよ」
少し笑みを浮かべている琴葉。
思い出してくれているのかもしれない。
「琴葉のこと。ただの友達じゃない。俺にとっては、もうあのときからそれ以上の存在だったよ」
「陽斗……」
胸が痛んだ。
彼女の、その嬉しそうな表情に、胸が痛んだ。
「お前が嫌いなんじゃない。特別だと思う。でも……俺は、まだ、紗雪が気になるんだ」
紗雪の名が出た瞬間、琴葉の表情が消えた。
「あいつとずっとすれ違っていた。ずっとずっと、俺の中で止めてた気持ちがあったことに、気付いたんだ……」
琴葉は……両目に涙を浮かべていた。
それでも、俺は、言い切らないと、いけない。
「だから俺は、紗雪ともう一度向き合う。逃げずに向き合いたいんだ……」
頭を下げた。
彼女は今、どんな表情をしているのか。
それを見ないでも、とうにその痛みは俺に届いていた。
「そっか」
その声はもう震えていた。
「うんうん、分かってた。分かってたよ……あんたも紗雪もずっと我慢してたもんね。そうなる、気が、してた……」
頭を下げた俺の視界。
床の上に、ぽたぽたと雫が垂れた。
「ああ、もう。やだな、痛い、痛いよ。こんなに痛いの、初めて」
顔を上げた。
琴葉は……両手で顔を覆っていた。
「あはは……失恋て、こんなに、痛いんだね……ぐすっ……」
なんて声をかければいい。
俺はどうすれば良いのか分からなかった。
「琴葉……ごめ——」
「駄目!」
ばっと両手を下げて、彼女はぐちゃぐちゃになった顔で俺を睨みつけた。
「それ禁止。この気持ち、あんたには見下させない」
「…………ああ。分かった」
胸が痛かった。涙も出そうだった。
だからこそ、彼女は強いと、美しいと思った。
「答え、ありがと」
「俺も。聞いてくれて、ありがとう」
目を真っ赤にした彼女は、そのまま足早に教室を出ていった。
胸の痛みは重かった。
これが、必要なことだった。
これが、向き合うということだった。
俺は、俺の選択で、琴葉を傷つけたのだ。




