第14話 夢の終わりに
隣の席は空いていた。
昼休みの終わりに、佐倉が早退した、と誰かが言っていた。
今はひとりになれるほうが俺も楽だった。
もはや授業は何も頭に入らなかった。
あまりに考えることが多すぎた。
雪乃さらさ。
考えれば考えるほど、そうだと思い当たった。
そんな馬鹿なと思いたくなった。
そうでないと、もう、頭がおかしくなりそうだった。
グロッキーを、とスマホを見て止めた。
琴葉と下らない話を、と思っても隣に誰も居ない。
相談先がない。
紗雪の言葉。
さらさの引退。
琴葉の告白。
誰にも話せない。
誰にも、話すことじゃない。
俺が考えることだ。
——あんたの言葉で聞かせて
そうだよな、琴葉。
◆◇◆
放課後。
屋上の扉に手をかけた。
たぶん、彼女がいる。
俺は……向き合えるのだろうか。
また、間違えてしまうんじゃないだろうか。
止める間もなく変わっていく。
周りが変わっていく。
俺はもう、安心できる場所に居られない。
居心地の良い夢は、もう、終わっていた。
扉を開けた。
強く風が吹き込む。
外へ出た。
彼女の長い髪が風に弄ばれていた。
俺に気付いて、振り返った。
その瞳は少し赤い。
どこか憔悴しているように見えた。
「……やっぱり、紗雪、なのか……」
「はい。私が“雪乃さらさ”です」
信じられない。
信じたくない。
本人から言われているはずなのに、腑に落ちなかった。
「待っていました。“るーとさん”」
「っ……! “さらさちゃん”……」
普段より高い紗雪の声色。
毎日聴いていた“さらさ”の声。
間違いなかった。
「俺は……ずっと、お前と……話をしていたのか……」
もう、何が正しいのか分からなかった。
ずっと壊れると思って避けていた紗雪。
その紗雪とずっと近くで話をしていた。
俺の中の何が正しいのか分からなかった。
「ごめんなさい」
紗雪は頭を下げた。
深々と下げて……そのまま動かなかった。
俺も、動けなかった。
言葉も出なかった。
また、風が吹き抜けた。
「最初は“るーとさん”が陽斗だと知りませんでした。でも、すぐに気付きました。あなたが大事にしている幼馴染の話をしてくれたときに」
「……あのとき、か……」
紗雪の家に行けなくなった後。
俺が見つけた避難先。
“秘密の場所”で語った言葉だった。
「幼馴染に酷いことをしてしまった、壊れてしまった。そう陽斗が懺悔するのを、私は、ただ知らないふりをして慰めていました。“雪乃さらさ”として」
「…………」
自分まで壊れそうだったあの時。
親身になって聞いてくれたさらさは、確かに俺の救世主だった。
「あなたが如月紗雪に言えないことを……あなたが苦しんでいたことを知りながら、私は雪乃さらさとして隣にいました」
胸の奥がぎしぎしと痛んだ。
紗雪に聞かれたくない言葉があった。
恥ずかしい言葉もあった。
日常の他愛もない出来事もあった。
どれもが……紗雪と知らずに渡していた。
「なんで……なんで、言わなかった。俺がどんな気持ちで話してたのか知ってたんだろ。知ってて黙ってたのか……」
下唇を噛んだ。
心の内を丸裸にされた気分だった。
俺が睨みつけると、紗雪は目を逸らさずに答えた。
「はい」
ただ一言。
それは雪乃さらさの幻影を粉々にした。
「私は……あなたの優しさにも、弱さにも……甘えていました」
紗雪の瞳から涙が零れ落ちた。
それが何の涙なのか、俺には分からなかった。
「ごめんなさい……私は、ずっと……陽斗の心の傍に、居座っていました」
また紗雪は頭を下げた。
俺は……言葉が出てこなかった。
またしばらくそのままだった。
夕暮れが始まっていた。
風は吹かなかった。
「もうひとつ。陽斗に伝えなければならないことがあります」
「……何だよ……」
紗雪が頭を上げた。
その表情は……氷のようで、どこか、覚悟を孕んでいた。
「聞いてください。私は中学のとき、両親が離婚しました」
「……なんだって?」
「両親が話し合って、お父さんが出ていきました。離婚前に、毎日、お父さんもお母さんも、毎日……大きな声で……喧嘩を、して、いて……」
紗雪の声が滲んでいく。
それは、俺の知らない真実。
俺が思い出したくない以上に……彼女は……。
「おい、無理に思い出すな」
「いえ……ぐすっ、聞いてください。あの頃、本当に辛かったんです。毎日、消えてしまいたかった。学校に行けなくなって。でも、陽斗が励ましに来てくれて……」
紗雪が不登校になった理由。
ずっと知らなかった、理由。
「嬉しかったの。ずっと嬉しかった。でも……信じられなかった、の……。お父さん、出ていくのに『ずっと一緒』なんて言って。お母さん、喧嘩してるのに『紗雪は愛してる』って……。私が、大事なら……私を愛してるなら……なんで、なんでバラバラになっちゃうのって……」
紗雪は、ずっと俺を見ていた。
両目を真っ赤にして涙しながら、ずっと、俺を見ていた。
俺はただ、胸をじくじくと痛めながら、そこから目を逸らせない。
「ずっと怖かったの。全部、信じられなくて。陽斗が嬉しくて、怖かったの! だから、お父さんが出ていった日、ぐちゃぐちゃになって、言っちゃったの! 陽斗が来ちゃうから、嬉しくなって、信じたくなって、辛いのって……!!」
声は何とか言葉の響きを保っていた。
紗雪の、さらさの声でなければ、聞き取れなかったかもしれない。
それは鋭利な刃物のように俺の胸に突き刺さっていく。
「陽斗に……ぐすっ、怪我を……させちゃって。私、私、自分が許せなくて。全部、嫌になって、消えちゃいたくて、薬をいっぱい飲んじゃって……」
「紗雪……」
あれは……。
あの言葉は、紗雪の、悲鳴だったのか。
「でも、それは俺が行ったから」
「違います」
「でも」
「違います」
紗雪の視線が強くなった。
強い意志が見えた。
「ごめん、なさい……ずっと陽斗を苦しめて……。私は、ずっと、陽斗の傍に居たかった……。陽斗、あなたは何も悪くない、の。私が、弱かったから……」
紗雪はずっと震えていた。
それでも彼女は止まらない。
「私が、ずっと……あなたにそう思わせてしまったの」
「俺の、せいじゃ、ない……」
紗雪はうなずいた。
それでもまた、俺にしっかりと、真っ赤な目を向けた。
「私、陽斗に会えなくなってから、ずっと真っ暗だった。少しでも明るさが欲しくて、しばらくインターネットで現実逃避してた。そうしたら、VTuberを見つけたの。楽しそうに配信する人たちが明るく見えて……」
「……それで、“雪乃さらさ”を……」
「そう、です。私が逃げ込んだ先でした」
紗雪は、それでもまだ、言葉を紡ぐ。
「明るい声を出していれば、明るくなれる気がしました。皆が楽しんでくれたら、私も楽しい気がしました。だから、私は“雪乃さらさ”になりました。でも、最初は誰も来てくれなくて……」
「……俺、か……」
「はい」
紗雪の言葉は、ひとつひとつ、俺の胸の奥へ積もっていく。
「“るーとさん”が陽斗だって分かったとき、嬉しかったんです。まだ繋がっていられる、傍にいてくれるって……。だから、ずっと、そのままにしたかった、明るく楽しい夢を見ていたかった。私は、夢が終わるのが、怖かったんです……」
ずっと、俺は……。
「俺は、お前の夢の中で、踊らされていたんだな……」
「……っ、はい、そうです……」
紗雪の表情はもう、崩れていた。
眉は歪み、口も歪み。頬はずっと光っていた。
「いつか、陽斗に言わないといけないって、弱いままの私じゃ駄目だって……。だから、ずっと勉強も運動も、全部、全部、頑張ったのに……。ぐすっ……強くなれなかった……あなたには……言えなかったの……」
「…………」
そして彼女は、また頭を下げた。
「ごめんなさい。ずっと、あなたに隠していて、ごめんなさい。許してほしいなんて言いません。ずっと、苦しめてしまって……ほんとうに、ごめんなさい」
強い風が吹いた。
彼女にかける言葉なんて見つからなかった。
「私は、ずっと、間違えていました。だから、佐倉さんをあなたが見ても、何も言えません……」
「……どうして琴葉なんだよ……」
不意に、紗雪が笑った。
すべてを諦めたように、口だけが笑っていた。
「私のことを軽蔑しても良いです。ただ……これだけは知っておいてください」
その言葉が、ただ俺の胸に響いた。
「如月紗雪は、水瀬陽斗が好きです。ずっとずっと。あの頃から、ずっと」
◆◇◆
「来てくれて、ありがとう」
紗雪は、俺の言葉を待たずにそう言い残して背を向けた。
彼女が立ち去る直前。
俺はその背中に「明日、またここで」と告げるのが精一杯だった。
静かに「はい」と答えた紗雪の返事は、ただ細かった。
俺はそのまま動けなかった。
ただ、そこに立ち尽くした。
星空が見え始めて、施錠をする音が聞こえ出したところで、ただ慌てて下校した。
帰宅して、ルーチンのようにやることを済ませて。
自室に戻って。
俺は混乱したまま止まっていた思考を動かした。
琴葉。
さらさ……紗雪。
ふたりは、俺にその心を告げた。
偽りないものを教えてくれた。
俺は……受け取れるのか。
返せるのか。
ちらりとスマホを見た。
もう開こうとは思わなかった。
ずっと、俺が見ないようにしていたもの。
それは正しさに隠した、俺の本心だったのかもしれない。




