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第11話 あなたが、来るから

 空を見上げていた。

 始まったばかりの夕焼けはどこか急かしてくる。


 少し風が強かった。


 琴葉がどうして俺にお節介するのか。

 それが分からないわけじゃない。

 でも、俺は踏み込めない。


 俺から近寄れば琴葉も駄目にしてしまうかもしれない。

 そんなはずはない、と思う。

 紗雪と琴葉は違う。

 でも、俺にはそれを試す勇気も持てなかった。


 背中は押された。

 それでも、俺がここから逃げなかったのは自分の意思だ。

 だというのに、どうにも居心地が悪かった。


 ばたん、と扉が閉じる音がした。

 紗雪だった。

 長い髪が風に遊ばれて、少し鬱陶しそうだった。


「悪い、急に」

「いえ……驚きました」


 紗雪は何か言いたげだった。けれど、それきり黙った。


「少し話してもいいか」

「はい」


 今日、何度かの目が合った。

 いつもの冷たさはそこになかった。


「この前。服を見てくれたの、助かった」

「それはもう聞きましたよ」

「うん。でも、ちゃんと言いたかった」


 派手が好きじゃない俺のことを分かってくれていたこととか。

 言いたいことは浮かんでくる。

 言葉が続かない。

 喉で詰まっていた。


 紗雪は落ち着かないように何度も髪を触っていた。

 その癖はまだ治っていないようだった。


「俺は……お前と話すと、何を言っても間違える気がする」


 紗雪の顔がこわばった。


「でも、それでずっと何も言わないのも違うと思ったから……」

「……はい」


 じっと、俺を見て。

 ぎこちなく笑みを浮かべたように見えた。


「私は……」


 紗雪が何かを言いかけた。

 その口は言葉を紡ごうとして、そのまま閉じてしまう。

 そして小さく首を振った。


 強い風が吹き抜けた。

 風音に負けじと、俺は声を少し強めた。


「中学のときのこと。あれから俺は、触れないでいた」


 紗雪はうなずいた。聞いてくれている。


「でも、触れないままで済む話じゃなかった」


 喉が詰まる。

 言葉が重い。

 でも、引っ張り出せた。


「ずっと、謝らなきゃいけないと思ってた。紗雪……なんて謝ったらいいんだ。ごめん」


 触れたくはない。

 また間違えてしまったかもしれない。

 でも、言えた。

 俺は、この壁を越えられる。


「ごめんじゃ済まないかもしれない。でも、ごめん」

「…………」


 頭を下げる。

 屋上がほんのり赤い。

 どこか、普通じゃないように思えた。


「水瀬君。謝らないでください」


 細い声だった。

 生徒会長の凛とした声はどこにもなかった。


 もう、踏み込んでしまったのか。

 背筋が冷えた。

 でも、これは、言わないと。


「俺が行ったから紗雪は駄目になったんだよな。俺が近付いたから、お前は……」

「違います」


 俺には、どこか非難めいて聞こえた。

 彼女は霧の先にいるようだった。


「じゃあ、何が違ったんだ」


 俺は聞きたかった。

 本当に違うなら、あれは何だったというのか。


 紗雪は落ち着きなく、左右に瞳を振って——

 

あなたが、来るから(・・・・・・・・・)……!」


 瞬間、俺の中の何かが砕けた。

 青ざめた彼女の顔を見た。



◆◇◆



 あるときから急に塞ぎ込んだ幼馴染。

 不登校気味になって挨拶もできなくなった。

 だから俺は毎日、放課後になると彼女の家へ足を運んだ。


 彼女はいつも、部屋で泣いていた。

 いつもキラキラとした笑顔を浮かべていたその顔が沈み込んでいた。

 何を話しかけてもずっと暗かった。

 早く元に戻ってほしかった。


 どう励まして良いか分からなかった俺は、いつも当たり障りのない言葉をかけた。

 そうやって寄り添えばいつかまた微笑んでくれると思っていた。


 だけど——


「もう、来ないで」

「陽斗が優しいことを言うから……!」


 突然、暴れ出してしまった彼女をどう宥めて良いのか分からず——


「あなたが、来るから……!」


 涙を流して、必死の形相で、彼女が投げつけた何か。

 それが俺の額に当たった——


 その後のことはよく覚えていない。

 いつの間にか自宅に連れ戻され、自室で呆然としていた。


 数日間、彼女は学校に来ることはなかった。

 そして、救急搬送されたという話だけを聞いた。


 俺が、彼女を、壊した。



◆◇◆



 陽斗の表情が能面のようになった。


「……そっか。やっぱり、俺だったんだな」


 違う……!


「あ、いや、違う、今のは……!」

「違わないだろ」


 陽斗は笑っていた。


「悪い。無理に話そうとして」


 諦観。拒絶。

 それが何かを覆い隠すための笑みだということはすぐに分かった。


 その笑みに隠された痛みが。

 陽斗に渡してしまった、あの時の痛みが、見えてしまった。


 お腹の底が抜けたように力が抜ける。

 ひゅっと声が出なくなった。

 全力で否定しなければいけないのに、動けなかった。


 陽斗はそのまま踵を返して、がちゃりと扉を開けた。


「お願い、聞いて……」


 私のその掠れた声は、強かった風にかき消されてしまった。


「違う、違うの、そうじゃないの……」

 

 私は、また、陽斗を……。

 私は……。


 あなたが嫌だったんじゃない。

 あなたが来るから嬉しかった。

 あなたが来るから信じたくなった。


 あなたが来るから、言わなきゃいけなくなった……。

 なのに私は、また、同じ言葉で……。


 脚の力が抜けて、視点が低くなった。

 ただただ、風がうるさかった。



◆◇◆



 五分。

 十分。

 それだけかけて降りた段数は六十段。

 ちょうど屋上から三階まで。


 足が重くて仕方がなかった。

 未練がましいったらありゃしない。

 思わず自分を笑った。

 

 でも、これで良いの。

 あのままじゃ何かがおかしくなっていた。

 だから、これで良いの。


 何度目か、自分に言い訳を重ねたところで。

 ばたん、と勢いよく扉が閉まる音が響き渡った。

 それと同時に階段を駆け下りる音。


 近付いてくる足音に振り返る。

 飛び降りるように現れた陽斗と目が合った。


「——陽斗、あんた……」


 薄暗い廊下。

 焦燥感に駆られた、思い詰めたような、泣きそうな表情。

 彼はあたしを見て、一瞬、躊躇した後、脱兎のごとく駆け出した。


「待って! 待ってってば!」


 男子の脚は速い。

 短距離走には自信があったのに、すぐに引き離される。


 必死に追いかけた。

 下足箱で靴を履き替える時点で、もう彼は校門にいた。

 でも、あたしに止まる選択肢はなかった。


「ほっとけるわけ、ないでしょ!!」


 走った。

 ただ、走った。

 

 あたしに出来ることは、ただ、彼をひとりにしないこと。

 ただの衝動でしかない。

 でもあたしにはそうするしかなかった。


 どうして。


 どうして、あんたは、そんな苦笑いで誤魔化すような顔をしていたの!

 そんな顔、見たくないの!!


「いた……!!」


 全力で走った先。

 あのシュークリームを食べた公園の片隅。

 夕闇に沈む樹の下に、彼の姿があった。




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