8話
子供の頃、家ではいつも一人だった。
父親は仕事で忙しく、家には滅多に帰ってこない。帰ってきたとしても、一日中ソファーに座りテレビを見ていた。
母親は仕事ではないのに、家に居ることが少なかった。後でわかったが、愛人がいてそちらの家に入り浸っていたようだ。
「……」
お腹が空いた私は、キッチンの戸棚を漁っていた。
「食パン……」
袋に残った一枚のみ食パンを取り出して、皿に乗せた。上から、砂糖を振りかけた。
「甘い……」
これ一枚じゃお腹は膨れ無いけど、食べ物があるだけマシだった。
それから、水を飲んでお腹を膨らませる。
扉が開いてお母さんが入ってきた。お母さんは私を見ると眉を顰めた。不機嫌な時のお母さんの顔だ。
「お、お母さん……!」
呼ぶけど、返事が無い。
私はお母さんの手を握った。
「お母さん」
「何? お母さんは忙しいの。邪魔しないで」
お母さんはそう言って、化粧を始めた。化粧を始める時は大抵出掛ける時だ。
ギューとお腹が締め付けられる。それでも、私は口を開いた。
「お腹空いた……」
「適当に食べれば良いでしょ」
「食べ物、無い……」
「はぁ……我儘な子ね」
お母さんは財布から千円札を取り出して、私にくれた。
「それだけあれば大丈夫でしょ。じゃあ」
お母さんはそう言って、家を出ていく。
貰った千円札を財布に入れる。財布を首から掛けて、ポケットにはビニール袋を詰め込んだ。そして、外に出た。
ぐぅーとお腹が空腹を訴える。
スーパーに入り、色々な食べ物が目に入る。千円という金があれば大半は買えるだろう。
甘そうなチョコレートや蜂蜜。試食コーナーで焼けるソーセージの香り。
スーパーは誘惑の宝庫だった。
「……」
私は静かに首を横に振った。
財布の中には千円が入っているが、次にお母さんとお父さんがいつ帰ってくるのかは分からない。
買いたいものがあっても買えないのだ。
私はパンのコーナーに行くと、食パンを手に取った。
レジに並んで私の番が来ると、レジのおばさんが笑った。
「お嬢ちゃん、一人で買い物かい?」
「……は、はい」
もしかして、疑われているのだろうか。
ドクンドクンと心臓が高鳴る。
「偉いね」
私はほっと安堵した。
それから、持ってきたビニール袋に食パンを入れて、外をふらつく。
家にいたら息が詰まる。それよりも、外に出て散歩をする方が好きだった。
公園のベンチに座る。
土曜日だから、人が多い。
ふと、家族が目についた。お父さんとお母さんと小さな女の子。女の子はお父さんの周りを何度もクルクルと回って笑っていた。
「……」
もっと、小さかった頃は、お父さんとお母さんに公園に連れて行ってもらった事がある。手を繋いで、一緒に遊んで。
今は話すことすらまともには出来ない。
「っ……」
女の子と目が合った。私よりも小さな女の子。
女の子は両親の元から離れると、私の元へやってきた。そして、私のことをジーと見つめる。
「……」
居心地が悪くなり、移動しようとした時、私のお腹が鳴った。
「お腹空いてるの……? あげる」
「っ……」
女の子が差し出してきたのは苺ジャムの菓子パンだった。
「貰って、良いの……?」
「うん!」
私は女の子から、パンを受け取った。
「柚子! 何やってるの!」
「あ、お母さん……」
柚子と呼ばれた女の子は母親に抱き抱えられると、私の前から連れ去られた。
「……」
さっきの母親の目、不審者を見るような目だった。
まあ、そうだよね……。
私は自分の姿を見下ろした。
穴は空いていないが、所々汚れている服。袖を捲ると、腕が痩せている事が分かる。
「……」
私は菓子パンの袋を開ける。甘い香りが漂ってきた。
ゴクリと唾を飲み込むと、恐る恐る菓子パンに齧り付いた。
「っ……」
何これ……!
口の中に甘さが広がる。菓子パンを見ると、食べた跡から赤い苺のジャムが溢れようとしていた。
慌てて口をつける。
あっという間に、パンを平らげてしまった。
「美味しかった……」
私は空になった袋を見た後、改めて周囲を見た。
そこにはごく普通の家族の光景があった。
私は持っていない。けど、いつかは……普通の家族は手に入らなくても、ジャムパンを食べられるような普通は手に入れたかった。
それから、一ヶ月後、私は児童相談所に保護されて施設で暮らす事になった。
高校を卒業し、私は小さな物流の会社で倉庫の仕分けをすることになった。
「夢……」
ずいぶんと懐かしい夢を見た。
子供の頃の暗い日常。
私は温かいココアを淹れて、一口飲んだ。
「甘い……」
それから、トースターで食パンを二枚焼く。
トーストに苺ジャムをたっぷりと乗せる。齧り付くと、口の周りに苺ジャムがついた。それを舌で舐めとる。
口の中に広がる甘さ。あの時に食べた菓子パンには及ばないけど、頬を緩ませた。
「幸せ……」
私が欲しいものは既に手に入れていた。
甘いココアを飲む。甘いジャムをたっぷり乗せたトーストを食べる。
当たり前のことが私の欲しいもの。
そして、仕事をする理由は、当たり前の日々を過ごすためだ。




