第七章:乳バンドと、深夜の鉄拳制裁
1.喫茶店の狂犬と、古参兵の幻影
「――いい加減にしなさーーーーいっっっ!!! ショージ!!!!」
名曲喫茶の静寂を切り裂いたマリアの大絶叫。その瞬間、踊っていた祥二の動きがピタリと止まった。
振り返ったマリアの青い瞳は、怒りで爛々と輝き、まるで獲物を狙うハブのように鋭く、冷酷に祥二を射すくめていた。
その瞬間、祥二の脳内を、激しい雷鳴のような衝撃が駆け巡った。
自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ祥二にとって、「激しい怒りの視線と大音量」は、一瞬にして過去の最も恐ろしい記憶の引き出しを強制的にこじ開けるトリガーだった。
一九四一年、マレーの過酷な戦場。あるいはハルビンの凍てつく冬。炊爨兵として必死に飯を炊いていた祥二を、毎日のように理不尽に殴り飛ばしていた大日本帝国陸軍の恐ろしい先輩兵たちの姿が、マリアの美しい顔に重なったのだ。
「……ッ!!!」
祥二の全身に鳥肌が立ち、冷や汗が滝のように噴き出す。
彼はポーンと脱ぎ捨てた草履のことも忘れ、喫茶店のど真ん中で、裸足のままガチガチと音を立てて直立不動の姿勢を取った。そして、肺の底から、当時と全く同じ大音量の軍隊ボイスで絶叫した。
「申し訳ありませんでした!!! 古参兵殿!!! 上等兵殿!!! 自分は、二度と同じ過ちを繰り返しません!!!」
「……え?」
今度はマリアが唖然とする番だった。
静まり返っていた名曲喫茶の店内に、祥二の悲壮感あふれる軍隊の謝罪が響き渡る。一瞬の静寂の後、周囲の客たちからは「わははは!」「なんだあの男は!」「軍隊返りか!」と、ドッと大きな笑い声がこだました。
「う、うう……」
祥二はバツが悪そうに、顔中から脂汗をだらだらと流しながら、のそのそと草履を拾って席に戻ってきた。マリアは頭を抱え、ただただ深い溜め息をつくしかなかった。
2.高級ハニートラップと、最後のビンタ
その夜、食堂「いこい」に帰宅した後。
マリアは自室で、固い決意を固めていた。
(今日という今日は、もう絶対に許さない。あの手帳を奪い、こんなカオスな潜入任務、一刻も早く終わらせてみせるわ……!)
焦りとプライドの傷に燃えるマリアは、セルゲイから渡された長期活動用のトランクを激しく漁った。中から取り出したのは、KGBが誇る最高峰のハニートラップ用装備――黒いレースが施された、妖艶なフランス製の下着だった。当時の日本ではお目にかかれない、大人の女性の魅力を極限まで引き出す芸術品である。
マリアはそれを身につけると、意を決して、祥二が寝ている隣の布団へと音もなく滑り込んだ。
暗闇の中、マリアの豊満で美しいボディラインが、フランス製レースの隙間から妖しく浮かび上がる。
気配を察して目を開けた祥二は、無表情のまま、目の前にいるマリアの姿をじっと見つめた。その澄んだ瞳が、驚きに変形していく。
「あ……」と、祥二は小さく声を漏らした。
マリアは、ついに自らの美貌がこの堅物(元鬼軍曹)の理性を完全に破壊したのだと確信し、うっとりとした表情で、彼の次の言葉を待った。
祥二は真っ直ぐにマリアの胸元を見つめ、感極まったように、のんびりとこう言ったのだ。
「美しい……。僕、初めて見たよ。……これが、噂に聞く『乳バンド』かぁ……」
「…………」
乳バンド。
一九五四年当時の日本において、まだ一般に普及していなかった「ブラジャー」というハイカラな下着を、労働者たちがそう呼んでいた俗称である。
マリアが命がけで仕掛けた至高のフランス製官能トラップは、祥二のあまりにも実直で、あまりにもデリカシーのない「乳バンド」という四文字のド直球ワードの前に、一瞬にしてただの『珍しい下着の展示会』へと成り下がってしまった。
ピキッ、とマリアの脳内で、何かが完全に弾け飛ぶ音がした。
「――この、大バカ者がーーーーっっっ!!!」
パチーーーーン!!!!!
静まり返った「いこい」の二階の部屋に、マリアが全体重を乗せて放った、強烈無比なビンタの音が凄まじい風切り音とともに炸裂した。
「あうっ!」と短い悲鳴を上げて吹っ飛ぶ小太りの祥二。
フランス製の下着姿で額に青筋を立てて激怒するKGBの美女スパイと、頬を真っ赤に腫らしながら「なんで殴られたんだろう……?」と涙目で首を傾げる白いランニングシャツの男。
二人の、一ミリも噛み合わないまま極限までこじれた熱い夜は、こうしてバイオレンスな音を立てて更けていくのだった。
(第七章・了)




