第六章:白鳥の湖と、エリートスパイの逆堪忍袋
1.イボ痔の告白と、セルゲイの二度目の大爆笑
最強の防壁「インキンタムシ」の前にハニートラップを完全粉砕されたマリアのプライドは、文字通りズタズタに傷ついていた。本国からのプレッシャーもあり、彼女の心には焦りの色が濃くなっていた。
翌日の昼下がり、マリアは用心深く店を抜け出し、闇市跡にあるKGBのアジトへと滑り込んだ。
「……クオリスキー同志。顔色が死人のようだが、例の手帳(機密フィルム)は奪取できたのか?」
待ち受けていたセルゲイが尋ねる。マリアは悔しさに唇を噛み締めながら、蚊の鳴くような声で中間報告を行った。
「……ターゲットにハニートラップを仕掛けましたが、敵は『インキンタムシ』という名の生物学的防護壁を展開。接触に失敗しました」
一瞬の静寂の後。
「……ぶっ、ハハハハハハハハ!!! インキンタムシだと!? あの鬼軍曹が!?」
セルゲイは昨日を遥かに超える大声を上げ、机を叩いて涙を流しながら大笑いした。
「笑い事ではありません、セルゲイ同志!」マリアの青い瞳が怒りでイラッと燃え上がる。
セルゲイはヒィヒィと息を切らしながら、引き出しから「茶色の小瓶」を取り出してなだめるように手渡した。
「悪かった、悪かった。ほら、これは本国の最新医学で作られた超強力な皮膚病の特効薬だ。これを持っていけ」
その夜、食堂「いこい」の狭い夫婦部屋。
マリアは祥二に向き合い、その茶色の小瓶を差し出した。
「……ショージ。これ、インキンタムシの薬よ。使いなさい」
「おや、マリアさん、ありがとう。どこの薬屋で買ったの?」
ショージは無表情のまま、不思議そうに小瓶を見つめる。
「……秘密の米軍ルートよ。余計なことは聞かないで」
マリアが冷酷に言い放つと、ショージは「そうかい、ありがたいな」と全く気にせず、さっそく割烹着の裾から薬を塗り始めた。そして、何気ない調子でこう付け足したのだ。
「マリアさん、マリアさん。今度はイボ痔の薬が欲しいな。最近、ずっと座って芋の皮を剥いてるから、お尻が痛くて困ってるんだよ。」
「…………」
マリアは天を仰ぎ、ただただ呆れ果てた。世界を揺るがす鬼軍曹が、インキンタムシの次はイボ痔である。彼女の精神は早くも限界を迎えつつあった。
2.名曲喫茶のバレリーナ
月曜日、食堂「いこい」の定休日。
マリアは祥二の警戒心を解き、なんとか『黒皮の手帳』の隠し場所を吐かせるため、彼を「カフェ」へと誘い出した。
秋の立川の空を、米軍の大型輸送機が爆音を立てて低空飛行していく。そのけたたましいベースサイドを歩き、二人が入ったのは、当時流行していた重厚な内装の「名曲喫茶」だった。
薄暗い店内には、高級な蓄音機からホルストの『惑星』のレコードが厳かに鳴り響いている。他の客たちは皆、静かにコーヒーを啜りながら音楽に耳を傾けている、知的で静寂な空間だった。
マリアはコーヒーを、祥二はオレンジジュースを注文した。
席に座り、マリアは少し優雅に微笑んでみせた。
「ショージ。こうして二人で出かけるの、初めての『デート』ね」
「デートって、何?」
祥二は丸い坊主頭を傾げ、全くピンときていない様子だった。マリアは引きつりそうになる顔を必死に抑え、冷静に努めた。
「男女が親交を深めるための、特別な時間のことよ」
そこへ、ボーイが注文の品を運んできた。
マリアが上品にコーヒーカップに手を伸ばした、その刹那だった。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……プハァーッ!!!
前方で凄まじい音が響いた。見ると、ショージが運ばれてきたばかりのオレンジジュースを、まるで仕事終わりの冷えたビールか何かのように一気飲みし、空になったグラスを机にドン!と置いたのだ。
(なっ……!?)
マリアは呆気にとられた。
(どこの世界に、デートで女性の目の前でジュースを一気飲みする男がいるのよ……!)
「ボーイさん、おかわりください。」
悪びれもせず、のんびりと注文を追加する祥二。
マリアはこめかみの血管がピキピキと音を立てるのを感じながらも、スパイとしての理性を保ち、席の近くにあったリクエストカードに文字を書き、ボーイに手渡した。
「……チャイコフスキーをお願いするわ」
少しでもロマンチックな空気を作り、祥二の男心を揺さぶろうというマリアの最後の作戦だった。
やがて、スピーカーから美しくも切ない名曲――『白鳥の湖』のメロディが静かに流れ始めた。
その瞬間だった。祥二の体が、ビクンと反応した。
自閉スペクトラム症(ASD)の特性ゆえに、特定の美しい旋律に対して凄まじい集中と衝動を覚えてしまう祥二は、もう周囲の状況が一切目に入らなくなってしまったのだ。
「おや……いい音楽なんだな……」
祥二は突如として、履いていた草履をポーンと脱ぎ捨てた。
そして、白いランニングシャツに半ズボンというマぬけな格好のまま、静まり返る名曲喫茶の中央のフロアへと飛び出していったのだ。
「あ、ちょっと、ショージ……!?」
マリアが止める間も無く、小太りの祥二は、大真面目な顔でバレリーナ気取りのポーズを決め、つま先立ちでクルクルと華麗に(?)踊り始めた。短い手足を優雅に伸ばし、パ・ド・ドゥのステップを踏みながら、喫茶店の机の間をヒラヒラと舞う。
「クスクス……」「おい、なんだあの男は……」
当然、静かに音楽を楽しんでいた周りの客たちからは、一斉に失笑と白い目が注がれる。
しかし、祥二はそんな周囲の冷ややかな空気やデリカシーなど微塵も気にせず、恍惚とした表情で踊り続けている。完全に自分の世界に入り込んでいた。
「…………」
その姿を見た瞬間。
インキンタムシに始まり、イボ痔、一気飲み、そしてこの喫茶店の真ん中での割烹着男のバレエダンス。
これまでマリアが血の滲むような訓練で培ってきた「冷徹なKGBエリートスパイ」としてのプライド、そして限界まで張り詰めていた堪忍袋の緒が、音を立てて完全にぶち切れた。
マリアの青い瞳が、怒りで真っ赤に燃え上がる。
「――いい加減にしなさーーーーいっっっ!!! ショージ!!!!」
名曲チャイコフスキーの調べをかき消すような、マリアの怒天を突く大絶叫が、昭和の立川の喫茶店に凄まじい音量で轟き渡るのだった。
(第六章・了)




