第五章:立川の熱い夜、あるいは最強の防壁
1.父親の気遣いと、初めての銭湯
食堂「いこい」の夜の営業が終わり、片付けが済んだ頃。
父親の源蔵が、珍しく小綺麗に上着を羽織って勝手口へ向かった。その顔には、ニヤニヤとした、いかにも「新婚の若い二人」に気を使っている親父の表情が浮かんでいた。
「よし、マリアちゃん、祥二。俺はこれからちょっと閉店後の付き合いで外へ出かけてくるわ。駅前で、美味いおでんでも食べてくる。……戸締まりを忘れるなよ、祥二。鍵はしっかり閉めろよ。いいな?」
源蔵はショージに何度も目配せをしながら、夜の立川の街へと消えていった。
「おや、お父う、おでんかい? 行ってらっしゃい。」
ショージは父親の「気遣い」の意図など一ミリも理解せず、いつも通り無表情にのんびりと見送った。だが、マリアの冷戦脳はここでも火を吹いていた。
(……フッ、父親をわざと外出させて、私とショージを二人きりにする作戦ね。私に『手帳』を盗む隙を与え、そこを現行犯で押さえる、あるいは――私を完全に『カメオカの女』にするための包囲網だわ……!)
張り詰めた空気の中、祥二が「マリアさん、お風呂に行こう」とケロリと言った。
二人は着替えを持って、近所の銭湯へと向かった。
マリアにとって、日本の銭湯は初めての経験だった。
男湯と女湯を分ける高い壁、富士山のペンキ絵、そして並んで湯船に浸かる下町の女たちの賑やかな声。湯上がりに脱衣所で長髪の金髪を拭きながら、マリアは心からの感動を覚えていた。
「……暖かいし、さっぱりするわ。日本のトイレットは最悪(※当時の汲み取り式)だけれど、この『オフロ』の文化は素晴らしいわね。シベリアの寒さに比べたら、天国だわ」
ロビーで合流すると、祥二が冷えた牛乳瓶を二つ買って待っていた。
「はい、マリアさん。お風呂上がりはこれが一番だよ。」
二人で腰に手を当てて牛乳瓶をグイッと飲み干し、夜風に吹かれながら帰宅する。その姿は、傍から見ればどこからどう見ても、仲睦まじい新婚夫婦そのものだった。
2.しんせいの煙と、ちょろい罠
「いこい」に戻り、源蔵の言いつけ通りに戸締まりを済ませた二人は、茶の間に座り込んだ。
マリアは、セルゲイから渡されたあの紙袋からロシア製ウォッカを取り出し、祥二が厨房から持ってきたスルメを肴に、静かに飲み始めた。
トクトクトク、と湯呑みに注がれた強いウォッカを、祥二はのんびりとした顔で平然と飲み干していく。
(……この男、意外に酒に強いわね。さすがはコタバルの鬼軍曹……アルコールで脳を麻痺させるのは無理か)
マリアが値踏みするような目を向けると、祥二はズボンのポケットから、当時労働者たちに愛されていた大衆タバコ『しんせい』の箱を取り出した。
不器用な手つきで一本をくわえ、小さな木箱のマッチをシュッと擦る。
パッと赤い火花が散り、祥二の坊主頭を照らした。
吸い殻に火をつけ、紫煙をふうっと美味そうに吐き出す祥二の横顔には、戦後を生き抜いてきた男の、独特の渋みと凄みが漂っていた。
(……間違いないわ)と、マリアは確信した。
(この揺るぎない佇まい……こいつには肉体的な『折檻(拷問)』は一切効かない。どれだけ痛めつけても口を割らないタイプよ。……ならば、ルートは一つ。軽いハニートラップで、男としての欲を刺激して口を割らせるのが一番よ。幸い、あのうるさい父親は飲みに出かけていないわ。今夜がチャンスよ……!)
マリアは青い瞳に妖艶な光を宿し、長髪の金髪をわざと肩から流しながら、祥二の隣へジリジリと潜り込んだ。そして、吐息が届くほどの距離で、甘く、囁くように言った。
「ねえ……ショージ。今夜は私たちにとって、初めての夜よ? ……お父様もいないわ。一緒に、二人きりで、寝るのよ……?」
ド直球の誘惑。
これには、さすがの祥二も驚きを隠せなかった。パチパチと目を丸くし、タバコを持つ手を止めてマリアを凝視している。
(フッ……。勝ったわ。どんなに鍛え上げられた軍人でも、若い女にこう迫られれば理性を失うもの。ちょろいわ、ショージ……! さあ、私の腕の中で溺れ、あの黒皮の手帳の秘密をすべて吐き出しなさい!)
マリアが心の中で邪悪に勝ち誇った、その瞬間だった。
祥二は本当に困り果てたような、ひどく申し訳なさそうな顔をして、ぽつりとこう言った。
「……難しいな」
「え……?」マリアの笑顔が固まる。
「だって、僕は……インキンタムシだから。今、マリアさんと一緒に寝たら、マリアさんにうつっちゃうかもしれないんだ。だから、お医者さんに行って薬を塗って、治るまではダメだと思うよ……」
「………………」
マリアは、開いた口が塞がらなかった。
世界中のどんな防諜機関の暗号も、どんな頑強な兵士の口をもこじ開けてきたKGBエリートスパイ、マリア・クオリスキー。彼女のハニートラップは、祥二が放った「インキンタムシ」という、人類の原始的かつ強烈すぎる皮膚病の防壁の前に、一瞬で、完全に、なす術もなく粉砕されたのである。
静まり返った立川の夜。
タバコ『しんせい』の煙が虚しく漂う中、マリアはあまりの衝撃に真っ白な灰のようになり、祥二はただただ「申し訳ないな……」と、頭をペコペコと下げるのだった。
(第五章・了)




