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第四章:立川ベースサイドの買い物と、赤い餞別

1.スパイの密会と、腹を抱えるセルゲイ


お父さんの唐突な「結婚指令」から数日後。

食堂「いこい」の昼過ぎの営業が一段落した頃、マリアはエプロンを外して外へ出る準備をしていた。

「……少し、お買い物に行ってまいります」

「おや、マリアさん、お買い物かい? 行ってらっしゃい。」

厨房で一心不乱に床を磨いていた祥二が、ニコニコと見送る。マリアはその純粋な視線を振り切るようにして、急ぎ足で立川の混沌とした闇市跡の路地へと向かった。

向かった先は、米軍基地の裏手にある、古びたジャンク屋の二階。そこはKGBの極東支部が密かに構える立川のアジトだった。

部屋で待っていたのは、トレンチコートを着た恰幅の良い男、仲間のセルゲイだった。

「クオリスキー同志。潜入の進捗はどうだ? 例の第七百三十一部隊のマイクロフィルム(※黒皮の手帳)は手に入ったか?」

マリアは直立不動の姿勢で、大真面目に中間報告を始めた。

「……作戦は新たな局面に移行しました。ターゲット(ショージ)およびその父親は、極めて高度な心理戦を仕掛けてきました。私を戸籍という名の国家監禁施設に閉じ込め、ソ連への帰国を永久に阻むため、私に『婚姻(コンカツ)』を要求してきたのです」

「……何だと?」セルゲイが目を丸くする。

「祖国の勝利のため、私はその要求を承諾しました。現在、私はカメオカ・ショージの『婚約者』です。これにより、夜間の機密アクセス権を合法的に掌握しました。昨夜も奴の手帳の暗号『ヤマダ・タイショウは甘い卵焼きが好き(※液体兵器の散布指令)』の解読を進めております」

マリアが真剣な顔で報告を終えた瞬間。

「……ぶっ! ギャハハハハハハハハ!!!」

セルゲイはこらえきれず、椅子から転げ落ちんばかりに腹を抱えて大爆笑し始めた。

「ハ、ハラショー! 婚約だと!? あの冷徹なクオリスキーが、日本の大衆食堂の嫁になるのか! 腹が痛い、最高だ!」

「笑い事ではありません、セルゲイ同志! 私は大真面目です!」マリアは顔を真っ赤にして怒るが、セルゲイは涙を拭きながら、部屋の隅から大きな革のトランクを引きずってきた。

「分かっている、ただの冗談だ。ほら、これは本国から届いた身の回り品が入ったトランクだ。KGBの備品で、長期の潜入活動を行う際に使われる。……それと、これは俺からの個人的な餞別(せんべつ)だ。任務を忘れるなよ、マリア」

セルゲイはニヤニヤしながら、綺麗にラッピングされた小ぶりの紙袋をマリアに手渡した。

マリアは「感謝します」とそれを受け取り、トランクを抱え、急いで呼吸を整えながら、何食わぬ顔で食堂「いこい」へと戻ったのだった。


2.綺麗なお土産と、真っ赤なパニック


「ただいま戻りました。……その、少し、お洋服を見てきたの」

マリアは、いかにも「女の子が街で買い物をしてきました」という風を装い、いこいの戸を開けた。

厨房からひょっこりと坊主頭を覗かせた祥二は、マリアが抱えている大きなトランク(KGBの長期活動用備品)には目もくれず、彼女の手にある、セルゲイから貰った華やかな紙袋に目を留めた。

「おや、マリアさん、おかえり。それは、ずいぶんと綺麗な紙袋だね。東京のハイカラなお店で買ってきたのかい?」

「え、ええ……。そうよ。中身を、見せてあげるわ」

マリアは、潜入工作員としての「自然な会話」を成立させるため、警戒心ゼロでその紙袋の紐を解き、中身をカウンターの上にコロンと取り出した。

そこから出てきたのは――

高級なロシア製ウォッカのボトルが一本。そして、その脇に転がった、見慣れない薄いゴム製の小さな袋が2つ。

そう、ウォッカと、2つの避妊具(コンドーム)だった。

「……っ!?!?!?」

それを見た瞬間、マリアの優秀な脳細胞が一瞬で大爆発(フリーズ)を起こした。

(セ、セルゲーーーイ!!! あんた、なんてものを餞別にしてくれたのよーーー!?!?)

「長期の潜入(新婚生活)」をからかったセルゲイのド下ネタな悪ふざけだと気付いたマリアは、一瞬にして耳の先まで真っ赤に染まった。

普段の冷徹なスパイの仮面はどこへやら、マリアは両手を激しく振り回し、狂ったようにウォッカと避妊具を紙袋の中に押し戻しながら取り乱した。

「ち、違うの! これは、その、極東の……ソ連の、伝統的な、その、健康に良いお守りの一種で、決して変な意味ではなくて、あの、その……!!」

百七十センチの長身をくの字に曲げ、見たこともないスピードで狼狽するマリア。

一方のショージは、カウンターに置かれたその「薄いゴムの袋」をじっと見つめていた。

自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つショージは、性的な隠喩や大人の事情を察する直感を持ち合わせておらず、それが何に使う道具なのか、知識の引き出しをどれだけ探しても全く分からなかった。

祥二はいつも通り無表情のまま、丸い坊主頭を右に左にこくりと傾げた。

「おや……? それは、一体何なんだな? 風船にしては平べったいし、おむすびを包むにしては小さすぎるな。不思議な形のお守りだな……?」

「道具じゃないわ! 聞かないで! 忘れてちょうだい、ショージ!!!」

顔から火が出るほど照れまくって紙袋を抱きしめるKGBの美女スパイと、純粋に「なんだろう?」と不思議そうに見つめる白いランニングシャツ姿の元炊爨兵。

米兵たちのいない静かな昼下がりの「いこい」に、マリアの絶叫とショージののんびりした呟きが響き渡り、二人の距離は(マリアの羞恥心と引き換えに)さらにありえない方向へと縮まっていくのだった。

(第四章・了)

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