第三章:ベースサイドのお見合い(マリア、大バグを起こす)
1.頑固親父の直球ストレート
徹夜で祥二の「黒皮の手帳(料理メモ)」を高度な軍事暗号として解読しようとしたマリア・クオリスキーは、文字通り満身創痍だった。
一睡もできぬまま迎えた翌朝。大衆食堂「いこい」の厨房では、真空管ラジオから朝のニュースが流れる中、ショージが相変わらず白いランニングシャツ姿で、完璧な正三角形のおむすびをリズミカルに握っている。
「おや、マリアさん、おはよう。目が赤いよ。寝不足には、温かいお味噌汁が一番だよ」
ショージは無表情のまま、しかし心からマリアの体調を心配して声をかけてきた。
マリアは血走った青い瞳で彼を睨みつけ、心の中で毒づいた。
(くっ……! 昨夜、私が手帳を盗み見たことへの牽制ね? 『お前の夜の行動はすべて把握しているぞ』と、お味噌汁という名の心理的毒物をチラつかせて脅迫しているんだわ……!)
マリアが勝手に脳内冷戦を繰り広げていると、奥からトントンと包丁の音を響かせていた父親の源蔵が、ふいにお盆を置いて、前垂れで手を拭きながら歩み寄ってきた。その顔は、いつになく真面目で、どこか決意を秘めている。
源蔵はマリアの金髪ロングの美しい髪と、紺色のアッパッパ姿をじっと見つめ、ガラガラしたダミ声で言った。
「マリアちゃん。……あんた、ずっとうちで住み込みってのも、世間体が悪いし体にも障る。どうだ、うちの息子と結婚してくれないか?」
「……え?」
マリアの思考が、完全に停止した。
エリートスパイとしてあらゆるテロ、暗殺、国家転覆のシナリオを叩き込まれてきたマリアだったが、「昭和の頑固親父からの直球お見合いプロポーズ」という攻撃だけは、教本のどこにも載っていなかった。
2.冷戦脳と天然脳の超ド級すれ違い
一瞬の沈黙の後、マリアの超高性能な冷戦脳は、この突拍子もない提案を秒速で「最悪の国家陰謀」へと変換し、大バグを起こし始めた。
(キ、キターーーーッ!! これが噂に聞く、日本の『コンカツ(婚活)』という名の国家的合法的強制拘束工作ね……!? 私をこの『いこい』の籍に入れ、カメオカ家という大日本帝国陸軍残党組織の終身エージェントとして完全に囲い込み、ソ連本国への帰国を永久に阻む罠だわ! 恐ろしい親父……息子を囮にして、私を戸籍という名の収容所に監禁する気よ!)
マリアの背中に冷たい汗が流れる。しかし、彼女は同時に、冷酷なスパイとしての冷徹な計算も働かせていた。
(待って……。もしここでこの婚姻を受け入れれば、私は名実ともにショージの『身内』になる。そうなれば、あの第七百三十一部隊の最高機密である黒皮の手帳(※ただのレシピ)に、二十四時間いつでも合法的にアクセスできるわ。祖国ソ連の勝利のためなら、私の戸籍の一個や二個、くれてやるわ……!)
マリアはごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めた。そして、目の下にドス黒いクマを作った幽霊のような顔のまま、大真面目に、直立不動の姿勢で言い放った。
「……ええ。お父様。私でよければ、ショージのお嫁になります。祖国のために――いえ、この『いこい』のために、身を粉にして尽くす所存です」
「おお、そうか! やってくれるか!」源蔵はガハハと嬉しそうに笑い、祥二の背中をバシッと叩いた。「おい祥二、聞いたか! 綺麗なお嫁さんが来てくれてよかったなぁ!」
話を振られた祥二は、おむすびを握る手を止め、パチパチと瞬きをした。
自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ彼は、マリアの悲壮感漂う表情や「祖国のために」という不穏な単語の裏を深読みすることなど一切せず、ただマリアの「お嫁になります」という言葉を、真っ直ぐに、純粋に受け止めていた。
祥二の澄んだ瞳が、ほんのりと赤くなる。彼はニコニコと、しかしどこか照れくさそうに坊主頭を掻いた。
「おや、お父う、急に何言ってるんだよ。マリアさんが僕のお嫁さんになったら、毎日美味しいおむすびを一緒に食べられて、それはとっても楽しいことだな」
祥二は割烹着の裾をいじりながら、真っ直ぐにマリアを見つめた。
「……でも、マリアさんは外国の綺麗な人だから、僕なんかじゃ嫌かもしれないって、心配だったんだ。だから、嬉しいな。」
「……っ」
ショージの、一点の曇りもない、心の底からの純粋な言葉。
その温かさに触れた瞬間、マリアの心臓が不規則にドクンと跳ね上がった。
(な、何よこれ……。心臓の動悸? まさか、ショージが私の味噌汁に盛ったという遅効性の毒物が、もう効いてきたというの……!? ううん、違うわ。あの真っ直ぐな目が、私のスパイとしての防壁を溶かそうとしているんだわ……! なんて恐ろしい精神攻撃なの、ショージ……!)
マリアは顔がカッと熱くなるのを必死に抑え、ふいっと不自然に顔を背けた。
米兵たちの乱入もなく、ただ真空管ラジオから静かな歌謡曲が流れる食堂「いこい」の厨房で、冷徹なスパイと純朴な元炊爨兵の、一ミリも噛み合わないまま急接近していく、奇妙な婚約生活がここに始まってしまったのだった。
(第三章・了)




