第一章:昭和二十九年、立川ベースサイドの邂逅(かいこう)
1.港区麻布、あるいは「赤い部屋」の憂鬱
一九五四年(昭和二十九年)十月。秋の気配が濃くなり始めた東京・港区麻布のソビエト連邦駐日代表部(事実上の大使館)の一室は、真空管ラジオから漏れるわずかな雑音と、重苦しい煙草の煙に満たされていた。
「クオリスキー同志。これが我が情報部(KGB)がモスクワの書庫から発掘した、最新の機密報告書だ」
卓上に放り出されたのは、目の粗いザラ紙にタイプされた数枚のロシア語の文書、そして一枚の不鮮明な白黒写真だった。写真に写っているのは、大日本帝国陸軍の軍服に身を包んだ、いかにも頑固そうな一人の日本兵。
マリア・クオリスキーは、その青い瞳を鋭く細め、長髪の金髪をかき上げながら書類に目を落とした。彼女の身長は百七十センチ。戦後日本の小柄な女性たちの中に交じれば、それだけで銃剣のように目立つ、鍛え上げられた長身の美女だった。トレンチコートの襟を立てた彼女の姿は、冷徹な大国の意志そのものを体現しているようだった。
「ターゲットの名は、カメオカ・ショージ。元陸軍軍曹。……ソ連のデータによれば、彼は一九四一年十二月、マレー電撃戦の幕開けとなった『コタバル上陸作戦』において、英軍の激しい激突の中を生き残った歴戦の兵士であり、部下からも恐れられた『鬼軍曹』だ。その後、ハルビンの第七百三十一部隊へ転属……終戦時、奴は部隊が隠匿した、世界を揺るがす『細菌・医学研究データ』のすべてを記録したマイクロフィルムを持ち出したとされている」
上官の重々しい声が響く。マリアは冷酷に微笑んだ。
「なるほど。その国家機密の結晶であるマイクロフィルムが、今も彼の元にあるのですね」
「そうだ。アメリカのCIAも躍起になって探しているが、まだ奴の正体には気づいていない。現在、カメオカは身分を偽り、立川の米軍基地近くで潜伏生活を送っている。クオリスキー同志、君の任務は、カメオカに接近し、アメリカの鼻を明かしてそのマイクロフィルムを我が祖国へ持ち帰ること。あるいは――抹殺だ」
「御意。冷戦の勝者は、我々社会主義陣営です」
マリアは傲然と胸を張り、麻布の代表部を後にした。彼女の頭の中には、冷徹無比な殺人マシン、大日本帝国の生き残りである「狂犬・カメオカ」との、血で血を洗う心理戦のシミュレーションが完璧に出来上がっていた。
ソ連情報部の精密なネットワークが、目の前にある「アナログな現実」にどれほど欺かれているか、この時のマリアは知る由もなかった。
――実際の亀岡祥二は、最前線で銃を撃ちまくった狂犬などでは断じてない。コタバル作戦の時も、ハルビンの時も、彼はただひたすらに、兵士たちの胃袋を満たすために巨大な鉄鍋と格闘し続けた、単なる「炊爨兵(飯炊き係)」に過ぎなかったのである。
2.立川ベースサイドの混沌と「いこい」の暖簾
青梅線の蒸気機関車が吐き出す黒煙が、立川駅のホームを覆っていた。
一九五四年の立川は、朝鮮戦争の特需によって爆発的なエネルギーに満ち溢れていた。駅を一歩出れば、そこはアメリカ空軍立川基地の「ベースサイドタウン」。街のいたるところに英語の看板が踊り、ジープが砂埃を上げて走り去り、昼間からジャズが鳴り響くキャバレーやバーがひしめき合っている。
マリアはトレンチコートのポケットに拳銃を忍ばせ、冷徹な足取りで、米兵たちと日本人労働者が行き交う混沌とした路地を進んだ。
目的の場所は、基地の喧騒から少し外れた路地の角にあった。
木造平屋の古びた店。泥よけの暖簾には、白文字でこう染め抜かれている。
『大衆食堂 いこい』
ガラガラと引き戸を開けると、店内には真空管ラジオから、当時流行の歌謡曲がうっすらと流れていた。壁には「カツ丼 五十円」「カレーライス 四十円」と書かれた煤けたお品書きが並んでいる。
「……いたわ」
マリアは店内の奥、厨房のガラス越しに、ターゲットの姿を捉えた。彼女の全身の神経が、戦場さながらの緊張感で張り詰める。
しかし、そこにいた男のビジュアルは、マリアの予測を遥かに超えていた。
男は、五分刈りの丸っこい坊主頭。身体は引き締まった軍人とは程遠い、丸々と太った小太り体型。上着は着ておらず、シミのついた白いランニングシャツに、時代遅れの白い割烹着を窮屈そうに纏っている。
その姿は、お世辞にも国際スパイ組織を震え上がらせる鬼軍曹には見えなかった。
(な、何よあの格好は……!?)
マリアは一瞬激しく動揺したが、すぐに自らの「冷戦脳」でその疑問を補完した。
(……フッ、恐ろしい男。完全に周囲の風景に溶け込んでいるわ。あんな無害で、滑稽で、知性のなさそうな『おにぎり』のような風貌をあえて演じることで、アメリカの監視の目を欺いているのね。これこそ大日本帝国陸軍が誇る、究極のカモフラージュ……偽装の天才だわ!)
厨房の亀岡祥二は、のんびりとした手つきで、巨大な木製のしゃもじを使い、炊きたての白米を飯台に移していた。その表情には、一切の敵意も、緊張感も、感情の起伏すらも見当たらない。今で言う自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ祥二は、周囲の視線や冷戦の危機など微塵も気にせず、ただ「一粒の無駄もなく、完璧な温度で米を冷ますこと」だけに、凄まじいまでの脳のリソースを割いていたのだ。
マリアは無表情を装い、カウンターの隅に腰を下ろした。そして、冷酷な、氷のような声で言い放った。
「……おいしいものを、何かちょうだい」
祥二が、のんびりと振り返った。その目は、感情が読み取れないほど澄んでいた。
「おや、綺麗なお姉さんだなぁ。アメリカの基地の人かい? 外は風が強いから、身体が冷えてるみたいだ。今、温かいものを出すからね。待っててね」
祥二の声は、素朴で、どこかトボけた響きがあった。だがマリアは、その言葉の裏にある「プロの観察眼」に、背筋が凍るような錯覚を覚えた。
(……っ! 私が寒がっていることを、一瞬で見抜いたというの!? この男、ただ者じゃない……!)
3.暗殺の拳と、謎の黒皮手帳
厨房に入った祥二は、突如として動きのギヤを変えた。
彼の特性である「一つの行動への過剰な集中」と、元炊爨兵としての「大量の飯を素早く、寸分の狂いもなく作る」という職人技が融合する。
トントントントントントン!!!!
凄まじい、文字通りの爆音のような速度で、包丁がまな板を叩き、キャベツが精密な機械のように千切りになっていく。続いて祥二は、巨大な鉄の中華鍋を片手でひょいと持ち上げ、強火のコンロの上で豪快に振り始めた。
(な、何あの包丁さばき……! それに、あの凄まじい腕力……!?)
カウンターから覗き見るマリアの額に、冷や汗がにじむ。
(あんな重い鉄鍋を、まるで羽毛のように軽々と振るっているわ。あの分厚い手のひらで首を絞められたら、私の頸椎なんて一瞬で粉砕される……! 包丁の軌道にも一切の無駄がない。あれは料理じゃない、一撃で標的を解体するための『ナイフ格闘術』の構えよ……!)
数分後、祥二はニコニコしながら、お盆をマリアの前に置いた。
「はい、お待たせ。特製の豚汁と、おむすびだよ。お姉さん、身体が細いから、たくさん食べなきゃダメだよ」
出されたのは、湯気を立てる大盛りの豚汁と、二つのおむすびだった。
マリアは息を呑んだ。そのおむすびは、米粒一つ一つの向きまで計算されているかのように、完璧な正三角形を形作っていたのだ。
(完璧な……正三角形……!?)
マリアの脳内で、ソ連特殊部隊の暗殺教本がフラッシュバックする。
(間違いないわ! これは、ターゲットの急所を最も効率よく撃ち抜くための、完璧な暗殺フォーム(構え)の比喩よ! 『お前がどこの所属か、私はすべて見抜いているぞ』という、彼からの無言の警告……! おまけに、炊きたての熱い飯を平然と素手で握るなんて、どんな特殊訓練を受ければあんな強靭な手の皮になるのよ……!?)
恐怖に震えながらも、マリアは毒が入っていないか警戒しつつ、おむすびを一口齧った。
その瞬間、彼女の脳内に衝撃が走った。美味い。信じられないほど、米の甘みと塩加減が絶妙で、身体の芯からエネルギーが湧き上がってくるような美味さだった。特攻隊で若くして戦死した自らの兄の分まで、「生きて、美味い飯を食うこと」を何よりも神聖視している祥二の、混じり気のない純粋なこだわりが詰まった味だった。
(くっ……美味すぎる……。これは、麻薬の類かしら……!? 私の精神を屈服させるための心理戦の一環よ……!)
マリアが勝手に脳内パニックを起こしているその時、食堂の戸が勢いよく開いた。
「ヘイ! ショージ! 今日も腹が減って死にそうだぜ!」
入ってきたのは、カーキ色の制服に身を包み、腕に「MP」の腕章を巻いた、ガタイのいい二人の米軍憲兵(MP)だった。彼らは立川基地の常連客であり、祥二の作る美味い日本食の大ファンだった。
「あ、ウィリアムさんに、ジョンさん。いらっしゃい」
祥二はのんびりと挨拶すると、ズボンの後ろポケットから、使い込まれた「一冊の黒皮の手帳」を堂々と取り出した。祥二は不器用で非常に忘れっぽい特性があったため、誰が何を好きで、どんな体調の時に何を出すべきかを、すべてその手帳に細かく書き留める癖があったのだ。
祥二は油のついた指でページをめくり、ブツブツと呟いた。
「ええと……ウィリアムさんは、今日は顔が少し赤いから、お酒じゃなくて温かいお茶。マヨネーズは多めだな。ジョンさんは、こないだお腹を壊してたから、油っこいものはダメ、と……」
その様子を、カウンターの端からマリアの青い瞳が、鷹のように見逃さなかった。
(――出たわね!!!)
マリアの心臓が激しく跳ね上がる。
(あの禍々しい、黒皮の手帳……! あれこそが、ソ連情報部が血眼になって探している、第七百三十一部隊の最高機密――マイクロフィルム(を隠した偽装ファイル)に違いないわ! ついに尻尾を出したわね、鬼軍曹!)
実際の手帳の中身は、「山田乙三大将は甘い卵焼きが好き。出汁は多めが良い」「ウィリアムはマヨネーズ狂い」といった、ただの愛すべきグルメレシピ&体調管理メモなのだが、マリアの冷戦脳には、それが「ヤマダ・タイショウの暗殺成功データ」や「最新の生物兵器の暗号(出汁=液体兵器)」にしか見えなかった。
「ショージ! お前が俺の体調を心配して作ってくれた特製粥のおかげで、胃袋がすっかり元通りだ! お前は命の恩人、最高のフレンドだぜ!」
米兵のウィリアムが、祥二の肩をガシガシと叩いて笑う。祥二はただ、照れくさそうに坊主頭を掻いて「そうかい、よかったね」と無表情のまま呟いた。
それを見たマリアは、完全に戦慄していた。
(……なんて恐ろしい男。アメリカの憲兵(MP)すらも完全に手懐け、精神的に支配して、自分の盾として利用しているわ。あの『一切の感情を表に出さない氷の無表情の裏で、世界情勢のすべてを計算し尽くしているのね……。この怪物を相手に、正面からフィルムを奪うのは不可能よ……!)
マリアは、残った豚汁を一気に飲み干すと、席を立った。彼女の目は、敗北ではなく、新たなる潜入工作の炎を燃え上がらせていた。
(こうなれば、手段は一つ。この店に深く潜り込み、奴の信頼を勝ち得て、あの黒皮の手帳を盗み出すしかないわ!)
マリアは祥二に向き直り、トレンチコートの襟を正して、大真面目むな顔で言った。
「カメオカ……いえ、店主。私、行く宛がないの。このお店で、住み込みのウェイトレス(給仕係)として働かせてちょうだい。お給料は、さっきの美味しいおむすびだけでいいわ」
「おや、お姉さん、働くかい? 人手が足りなくて困ってたから、それは助かるな。お父う! 新しいアルバイトの綺麗なお姉さんが来たよ!」
祥二はなんの疑いもなく、ニコニコと割烹着の袖をまくった。
こうして、冷徹なKGBの金髪スパイと、天才炊爨兵による、一ミリも噛み合わない立川ベースサイドの奇妙な共同生活(潜入工作)が幕を開けたのである――。
(第一章・了)




