第二章:赤と白のカンパネラ
1.スパイ、いこいの給仕に大苦戦する
「マリアちゃん、そっちのテーブル、お醤油とソースが切れてるから、足しておいておくれ」
厨房の奥から、祥二の父親である頑固親父・源蔵のダミ声が飛ぶ。
「……了解、ただちに」
大衆食堂「いこい」の住み込み店員となったマリア・クオリスキーは、体に馴染まない紺色のサージ地のアッパッパ(簡易ドレス)に白いエプロンという、当時の日本の典型的な女給の格好をさせられていた。百七十センチの長身に金髪ロング、青い瞳の絶世の美女が、醤油のベタつく一升瓶を抱えている姿は、どう見ても戦後日本の風景から浮き上がっている。
マリアの潜入初日は、エリートスパイとしてのプライドが木っ端微塵に砕かれる過酷な戦場だった。壁に貼られた「豚カツ」「煮込み」といった手書きの崩し字(変体仮名)に大苦戦。さらに、ガタイのいい米軍MPたちがドタバタと入ってきては、「ヘイ、マリア! ハニートラップかい?」と冷やかす。マリアは反射的に彼らの喉仏を突き破りそうになる右手を必死に抑え、営業スマイルを浮かべねばならなかった。
そんなマリアを厨房のガラス越しにじっと見つめる、小太りで坊主頭の亀岡祥二。相変わらず白いランニングシャツに割烹着姿の彼は、無表情のまま、ある一点を凝視していた。
(……っ! バレたの!? 私のトレンチコートの隠しポケットに忍ばせた、小型カメラの存在に気づかれた!?)
マリアは背筋に冷たいものを感じて身構えた。自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ祥二の視線は、一度ロックオンするとレーザーのように動かない。
しかし、祥二がトボトボと歩み寄ってきて口を開いた。
「マリアさん、マリアさん。右足の靴紐が、解けてるよ。踏んだら、お盆をひっくり返して、危ないよ。」
祥二はただ、「紐が解けている」という視覚的違和感が気になって仕方がなかっただけなのだ。
ほっと胸をなでおろしたマリアは、自分の動揺を隠すように、フッと冷徹なスパイの笑みを浮かべて胸を張った。
「カメオカ。あなた、私が日本語を普通に話せるのが不思議?」
祥二が不思議そうにパチパチと瞬きをすると、マリアはあえて挑発的に、エリートとしてのプライドを滲ませて言い放った。私は極東が専門だから、当たり前よ。とほくそ笑んだ。
「日本文化に興味があり、本国で死ぬほど勉強しましたの」
(さあ、どう出る鬼軍曹? 私がソ連の工作員だと気づいているのでしょう?)と、視線で銃撃戦を仕掛けるマリア。
しかし、祥二の反応はマリアの殺気立った空気を一瞬で消し去った。祥二はマリアの「勉強した」という言葉を額面通りに受け止め、彼女が遠い国から一人でやってきたのだと理解したのだ。その澄んだ瞳が、急に優しく、そして切なげに揺れた。
「そうかい……。遠い外国から来て、偉いね。……お母様は? お元気なのかい?」
何気ない、祥二の純粋な問いかけだった。
だが、マリアがソ連に置いてきた家族を想ってフッと悲しげに視線を落としたのを見て、祥二はハッと何かに気づいたように動きを止めた。急に坊主頭を小さく丸めて、しょんぼりと肩を落とす。
「あ……ごめんよ。僕、また変なことを聞いたんだな……」
祥二は今で言うASDの特性ゆえに、相手のプライベートな領域に悪気なく踏み込んでしまうことがあり、そのたびに父親から叱られていた。自分の失礼に気づき、おむすびのように丸い体をさらに縮める祥二。
そして、彼は消え入りそうな声で、寂しそうにポツリと呟いた。
「僕の、お母さんはね……東京大空襲で、亡くなりました。家も、お母さんも、みんな燃えちゃったの。だから……マリアさんも、お母さんに会えなくて、寂しいのかなって、思ったの……」
「……っ」
マリアは言葉を失った。
目の前にいる小太りの男は、ソ連のデータにある「冷徹な殺人マシン」などではなかった。一九四五年のあの地獄のような夜に、最愛の母親を炎の中に奪われ、その傷を抱えたまま、それでも特攻隊で死んだ兄の分まで「生きて飯を食う」ために必死に生きている、一人の傷ついた日本人の青年に過ぎなかったのだ。
「カメオカ……」
マリアの冷戦脳に、初めて「人間としての鋭い痛み」が走り、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
マリアの冷戦脳に、初めて「人間としての鋭い痛み」が走り、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼女は張り詰めていた肩の力を少しだけ抜き、目の前の純粋な男を見つめた。いつまでも苗字で呼ぶのは、潜入スパイとしても、一人の人間としても、どこか違う気がしたのだ。
「……ねえ、これからは、ショージって呼んでもいいかしら?」
マリアがそう問いかけると、ショージは一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐに顔をパッと輝かせ、いつものようにニコニコと笑った。
「おや、マリアさん。ショージって呼んでくれたんだな。アメリカのMPたちみたいで嬉しいな。なんだか、もうすっかり仲間になったみたい。」
その無邪気で温かい笑顔に、マリアは思わずドキリとして目をそらした。
(何言ってるのよ、私はスパイ。仲間だなんて……騙されないわ)と心の中で必死に言い聞かせながら。
2.黒皮の手帳、深夜の暗号解読作戦
その夜、食堂「いこい」の営業が終わり、店内は静寂に包まれた。
ラジオからはもう何も流れていない。二階の奉公人部屋(マリアの部屋)で、彼女は暗闇の中にいた。
「……今よ」
マリアは音もなく部屋を抜け出し、厨房へと忍び込んだ。狙うは昼間、祥二がズボンの後ろポケットに仕舞い込んでいた、あの「黒皮の手帳」だ。ソ連本国が「731部隊のマイクロフィルム」だと確信している、国家の命運を握る重要アイテム。
祥二は忘れっぽいため、手帳を厨房の勝手口の棚に置き忘れていく癖があった。
「あったわ……!」
マリアは月明かりの下で、その黒皮の手帳を手に入れた。ペン型カメラで中身を撮影しようと、そっと最初のページをめくる。そこには、祥二の独特な、少し丸っこい文字で何かがびっしりと書き込まれた料理の備忘録(山田乙三大将らの好みのメニューなど)があった。
『ヤマダ・タイショウ。アマいたまごやきが好き。だしは多めが良い。ネギは細かく刻むこと』
マリアの青い瞳が、驚愕で見開かれた。
(くっ……! なんて高度な暗号なの……!?)
彼女の優秀すぎる冷戦脳は、このアナログな料理メモを、即座に恐るべき軍事コードへと変換し始めた。
(『ヤマダ・タイショウ(山田乙三大将)』……これは関東軍の残存勢力のコードネームね! 『アマいたまごやき』……甘い、つまり『甘美な誘惑』への警戒情報!? 『だし(出汁)は多め』……液体、つまり新型の細菌・生物兵器の散布量を多めにしろという意味だわ……!! 『ネギを細かく刻む』……標的を細切れに暗殺せよという、恐ろしいテロ指令コードね……!!)
マリアはその夜、一睡もすることなく、部屋の片隅で手帳の文字を書き写し、ロシア語の暗号解読表と照らし合わせながら頭を抱えて徹夜する羽目になった。
(カメオカ・ショージ……! あなたの頭脳は一体どうなっているの!? 料理の備忘録に見せかけて、冷戦の勢力図をすべて裏で操るための完璧な数式を組み立てているなんて……。なんて恐ろしい男……!)
翌朝、目の下にどす黒いクマを作ったマリアが厨房に行くと、祥二はいつも通り、白いランニングシャツ姿で「おや、マリアさん、おはよう。お腹が空いたから、朝ご飯はおむすびだね」と、ニコニコしながら完璧な正三角形のおむすびを握っていた。
その無表情の奥にある(とマリアが信じている)深淵に、マリアは再び、心からの戦慄と――解読に失敗した悔しさを滲ませるのだった。
(第二章・了)




