最終章:黒いカバーと、ビーフストロガノフの奇跡
マリアは祥二と一切口を利かず、ただ機械のように皿を洗い、床を拭いていた。
「……マリアさん、何で怒ってるのかなぁ。僕、何か悪いことしたのかなぁ……」
厨房の裏で、祥二は丸い坊主頭を抱えて本気で困惑していた。
「乳バンド」への強烈な鉄拳制裁が炸裂した翌日。
大衆食堂「いこい」の店内には、シベリアの氷河期のような冷たい沈黙が流れていた。マリアは祥二と丸一日、一切口を利かなかった。彼女のプライドは完全に傷ついており、焦りもあった。
一方の亀岡祥二は、なぜマリアが怒っているのかが全く理解できなかった。自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ彼には、マリアの怒りの理由が、知識の引き出しをどれだけひっくり返しても一ミリも理解できなかったのだ。
そんな二人の様子を見て、父親の源蔵は本気で心配していた。恐ろしく鈍い息子に向かって、源蔵は前垂れで手を拭きながらガツンと説教を入れた。
「この唐変木が! お前のその恐ろしいまでの鈍さには愛想が尽きるわ! マリアちゃんはなぁ、お前と本気で向き合おうとしてくれてるんだ。男なら、閉店後にきちんと腹を割って話し合ってみろ!」
「……話し合い、なんだね。分かったよ、お父う」
ショージは真面目な顔で頷くと、ある「作戦」を思い立ち、厨房へと向かった。
夜が更け、食堂「いこい」の営業が完全に終わった頃。
客席のテーブルに、ショージは一本の重々しい大吟醸の一升瓶をドンと置いた。
「マリアさん。今夜は冷えるから、熱燗にしようか。日本軍人はね、みんなお酒が好きなんだよ。だから、マリアさんもきっと好きだと思って」
祥二はニコニコしながら、お猪口に温かい大吟醸をトクトクと注いだ。さらに厨房から、当時の日本では滅多にお目にかかれない、贅沢な和牛をふんだんに使って作った、湯気を立てる大皿料理を運んできた。
マリアはその料理を見て、ハッと青い瞳を見開いた。
「これ……ビーフストロガノフ……!?」
「そうだよ。マリアさんの故郷の料理だって、ラジオで聞いたから、僕なりに一生懸命作ってみたんだ」
祥二は、不器用ながらも元炊爨兵としての全技術を注ぎ込み、マリアのために和牛でビーフストロガノフを作ったのだ。和牛の甘みと濃厚な香りが、凍りついていたマリアの心をふわりと溶かしていく。
(ショージ……あなたって男は……)
マリアが感極まり、うっとりとした目で祥二を見つめた、その時だった。
祥二はズボンの後ろポケットから、マリアがいつも注視していた、例の「黒皮の手帳」を堂々と取り出した。
「それからね、マリアさん。……君、いつもこれをじっと見ていただろ? だから、これが欲しいんだね。――はい、あげるよ」
祥二はそう言って、マリアの前にその黒い物体を差し出した。
しかし、マリアはそれを受け取った瞬間、唖然として固まった。祥二は自分の特性ゆえに「マリアはあの【黒いカバー】を欲しがっている」と言葉通りに解釈し、中身の手帳を抜いて、空っぽになった【黒皮のカバーだけ】を差し出してきたのだ。
マリアは唖然としたが、もう怒る気にはなれない。
「……ショージ。私が欲しいのは、この『カバー』ではないわ。中身よ!」
マリアが叫ぶと、祥二は「ん?」と不思議そうに丸い坊主頭を傾げた。
「中身? 何を言ってるの。この手帳はね、ただの僕のレシピのメモだよ。僕は人よりすごく忘れっぽいから。軍司令官閣下たちに『飯がまずい』って怒られないように、誰が何の料理が好きなのかを、忘れないように必死に書いたものだよ。ほら、山田大将は甘い卵焼きが好き、とかね」
祥二は中身のノートをパラパラとめくって見せた。そこには、ただの純朴な飯炊き兵が、上官たちの笑顔のために必死に書き溜めた、温かい料理のメモが並んでいるだけだった。
マリアはすべてを理解した瞬間、頭の中の冷戦の数式がカラカラと音を立てて崩れ去り、その場にへなへなと崩れ落ちて腰が抜けそうになった。
世界を揺るがす最高機密の正体は、ただの「甘い卵焼きのレシピ」だったのである。
しかし、マリアの超高性能な冷戦脳は、ここでも大バグを起こし、驚異の結論に達した。
(……待ちなさい。第七百三十一部隊の最高機密が、こんなただの料理メモであるはずがないわ。そうよ……これこそが、大日本帝国陸軍が世界の裏をかくために開発した、『料理の備忘録に見せかけた、人類には早すぎる超・高等暗号文』なんだわ……!!!)
彼女のプライドは、これが「ただのレシピ」であることを絶対に認めなかった。
翌朝、マリアは再びアジトへと走り、モスクワの本部へ向けて大真面目な顔で以下の極秘暗号電文を送信した。
『カメオカ・ショージの持つ黒皮の手帳は、想像を絶する超・高等暗号文であると判明。我が脳細胞をフル稼働させても、データの完全解読には一生(全人生)を捧げる必要があります。よって、私はこのまま大衆食堂「いこい」に永久潜入(結婚)し、生涯をかけてこの暗号の網を解き明かす任務に就くことを志願します。冷戦の勝利を信じて。――クオリスキー』
数ヶ月後。
お昼時の食堂「いこい」は、今日も猛烈な活気に包まれていた。
「はいはい、ただいま! 焦らないでちょうだい、ウィリアムさん、あなたは血圧が高いんだからお茶を飲みなさい!」
そこには、すっかりいこいの「若女将」としての貫禄を身につけ、テキパキと店内を仕切るマリアの姿があった。
厨房では、白いランニングシャツ姿の祥二が、相変わらず無表情のまま、ものすごい速度で完璧な正三角形のおむすびを量産している。
「マリアさん、マリアさん。今日のおむすびは、お米の神様が喜ぶくらい、美味しく握れたよ。」
「そう、よかったわねショージ。さあ、冷めないうちに早くお客さんに運んで頂戴」
マリアはフッと優しく微笑み、祥二の割烹着の襟を整えてあげた。
冷徹なKGBのエリートスパイ、マリア・クオリスキーの日本潜入任務は、こうして国家を揺るがす大失敗(?)に終わった。
しかし、立川の米軍機が飛ぶ青い空の下、美味しいご飯の香りに包まれた食堂「いこい」には、世界情勢の冷戦などどこ吹く風、一ミリも噛み合わないまま世界一幸せになってしまった二人の、温かい笑い声が今日も明日も、ずっと響き渡るのである。
(第一章〜最終章・完全完結)




