【第五章:ダディ(二)】
議場。 顔を黒く塗りつぶしたような暗い表情のまま、議員たちは沈黙していた。ホログラムの中でオールドマンの左右に控える、ゴブリンとハイエナの姿を見つめて……。
「さて、文句はねぇな? じゃあ次に行くぜ。監獄の連中に通達しといてくれ。こいつは俺が引き取るってな」
続いて水晶が投射したのは――双頭のトロルの映像だった。
片方の頭部を失い、厳重な保安管理センターの奥底に収監されている異形の怪物。オールドマンがすでに二人の狂人を屈服させた事実を目の当たりにしてもなお、エルフ議長は背筋に走る悪寒を抑えきれなかった。
彼女は立ち上がり、オールドマンへ鋭く警告する。 「あのトロルの危険性を理解しているのですか? 頭を一つ失い、脳に重篤なダメージを負っているとはいえ、その破壊力は決して侮れるものではありません!」
「キャンディーを一つと遊園地さえ用意してくれりゃ、この悪ガキに『ダディ』と呼ばせてみせるさ……」
*
幾重もの極厚金属チェーンで拘束床に縛り付けられた双頭のトロル。移送員たちが、キャタピラ式の巨大装甲車両へその巨体を慎重に押し込んでいく。
隔離室から飛び出してきた移送員が、恐怖に顔を引き攣らせながらオールドマンに尋ねる。 「ほ、本当に……問題ないんでしょうね?」
「いい子だ。ダディの言うことを聞いてりゃいいのさ」 オールドマンはパイプを吹かし、紫煙を細く吐き出してから確認した。 「こいつは、交易語を少しは理解できるんだな?」
移送員は慌てて答える。 「監獄側で教え込みました。ごく簡単な単語程度なら……」
「上等だ。それで十分」 満足げな笑みを浮かべ、オールドマンは車両後部の隔離室へよじ登った。
隔離室に入ってきた男を見て、トロルはパニックを引き起こしたような怯えた目を向ける。 「ドコ、イク……?」
オールドマンはまるで慈父のように微笑み、身振り手振りを交えながら語りかける。 「いい子だ。ダディが、お前を『遊び』に連れてってやる。そこには、お友達がたぁくさんいるぞ……」
その優しげな表情に、トロルの恐怖はみるみるうちに霧散していった。首を傾げ、純粋な困惑を見せる。 「ダ……ダディ?」
オールドマンは、丸太のように太いトロルの掌を優しく撫でた。 「そうだ。お前の新しいダディだ。いい子だな」
鉄格子越しの車窓。車両が前進するにつれ、整然と立ち並んでいた市街地は、やがて瓦礫の山と化した不揃いな廃墟群へと変わっていく。
オールドマンはポケットから一握りのキャンディーを取り出し、トロルの目の前に広げて見せた。 「いい子だ。甘いお菓子は好きか?」
色鮮やかな包み紙を見た瞬間、双頭のトロルは巨体を揺らして興奮した。 「ホシイ! ホシイ! ボク、オカシ、タベル!」
「いい子だ。車から降りたら、ダディが食べさせてやるからな」 優しく微笑みかけてから、オールドマンは隔離室の扉を開け放ち、外へ飛び降りた。そして、状況が呑み込めず呆然と立ち尽くす前線兵士たちへ、鼓膜を破らんばかりの怒号を浴びせる。
「突っ立ってんじゃねぇ! さっさと身を隠せ! 死にてぇのか!」
その剣幕に圧され、兵士たちは顔を見合わせた後、蜘蛛の子を散らすように周囲の廃墟へ身を隠す。 運転席から降りた移送員が隔離室からトロルを押し出すと、隠れた兵士たちの間からどよめきが漏れ聞こえた。
移送員がオールドマンの元へ駆け寄る。彼は手を差し出し、低く囁いた。 「キーをよこせ。アンタも急いで隠れな」
移送員が這うようにして瓦礫へ逃げ込むのを見届け、オールドマンはトロルへと歩み寄る。 「いい子だ。今ダディが解いてやる。だが約束だ。ちゃんと言うことを聞くんだぞ?」
トロルは無邪気な笑みを浮かべ、何度も大きく頷いた。 「ウン! ボク、イイコ!」
オールドマンも笑い返し、鍵穴にキーを差し込んで分厚いロックを次々と解除していく。拘束から完全に解き放たれたトロルが、ズシン、と一歩前へ踏み出した。
「ほら、お友達が新しい仲間と遊びたくてウズウズしてるぞ。キャンディーを食べながら、一緒に遊んでおいで」 戦線の前方――敵陣を指差し、オールドマンはキャンディーの束をトロルの巨大な手へ押し付けた。 「あまり遅くまで遊んじゃダメだぞ。ダディはここで待ってる。一緒に『お家』に帰って、ご飯を食べよう」
キャンディーを受け取ったトロルは、大喜びで頷く。 「ワーイ! ボク、イイコニスル!」
キャンディーを包み紙ごと口へ放り込むと、トロルはくるりと向きを変えた。 そして文字通りスキップを踏みながら、前方の激戦区へと突撃していく。数秒後、身の毛もよだつような凄惨な絶叫と、無邪気で底抜けに明るい笑い声が混ざり合い、戦場全体に響き渡った――。
しばらくして。血まみれになったトロルが興奮冷めやらぬ様子で駆け戻り、オールドマンの前でドスンとあぐらをかいた。 「ダディ! ダディ! ボク、カエッテキタ! ボク、イイコダッタヨ!」
「いい子だ。ダディは、お前が一番いい子だって知ってるさ」 オールドマンは目を細めて優しく笑い、巨大な腕をポンポンと叩いてやった。
*
議場。 議員たちは全員顔面を土気色に染め、極度の恐怖からカタカタと震えていた。ホログラムの中でオールドマンの背後に座り込む巨大な怪物が、血塗れの掌で嬉しそうに拍手をしながら「ダディ〜、ダディ〜」と連呼する映像を、ただ絶望的な目で見つめるしかなかった。
「さて。最後の一人だ……」
水晶が投射したハイエルフの映像。 それを見た瞬間、周囲の政治家たちは、これから悲惨な目に遭うであろう哀れな犠牲者のために、それぞれの神へ祈りを捧げ始めた……。
「赤い糸と、録画機材を用意しな。この超エリート様に『ダディ』と呼ばせてみせるぜ……」
*
ハイエルフ魔法技術学院。厳かな鐘の音が鳴り響く中、一人の華奢なハイエルフが学生の波に混じって回廊を歩いていた。
ふと、彼のエルフ特有の鋭敏な視覚が、一階広場の花壇の縁に置かれた「ある物」を捉えた。見たこともない。だが、なぜか奇妙な既視感を覚えるフォルム。
早足で花壇に近づき、食い入るように観察する。 間違いない。目の前にある精巧な造形物は、最近大陸に導入されたばかりの新型兵器――『銃器』だ。しかも、政府が量産して兵士に配備している無骨な代物とは一線を画す、圧倒的に洗練されたデザイン。ハイエルフの知的好奇心と技術者としての琴線が、激しく弾かれた。
吸い込まれるように手を伸ばしかけた瞬間。 グリップに一本の細い『赤い糸』が結ばれ、傍らの大樹の裏へと伸びていることに気がついた。
エルフはピタリと手を止め、腰に手を当てて踵を返した。そのまま立ち去ろうとしたが――数歩歩いたところで、魔法にかかったように足が止まる。
唇を噛み締め、再び花壇へ戻る。周囲をキョロキョロと警戒し、もう一度その魅惑的な銃器を舐め回すように見つめた。
赤い糸へ視線を移す。拳をぎゅっと握りしめ、ついに葛藤を振り切って手を伸ばした。 しかし――指先が触れた瞬間、当然のごとく糸が引かれ、銃器はスライドして逃げてしまう。
エルフは完全に理性を失い、ズルズルと引っ張られていく銃器の跡を夢遊病者のように追いかけた。大樹の裏で動きを止めた銃器を拾い上げた、まさにその時。
背後から伸びてきた布きれが、彼の口と鼻を強引に塞いだ。強烈な薬品の匂いと共に、エルフの意識は深い闇へと沈み込んだ――。
チカチカと明滅する眩しい閃光。それが痙攣するまぶたを貫き、エルフの意識を昏睡の底から強制的に引きずり上げる。
目を開けると、自分はふかふかのベッドに横たわっていた。そして枕元には、先ほどの『銃器』がそっと寄り添うように置かれている。
ぼんやりと上体を起こし、辺りを見回す。視線の先――ベッドの足元に、オールドマンと奇妙な録画機材が鎮座しているのを発見した。
眉をひそめて布団をめくる。そこで初めて、自分がトランクス一丁の半裸状態に剥かれていることに気がついた。
愕然としながら慌てて布団を胸まで引き上げ、ベッドの足元にいる男をきつく睨みつける。 「何のつもりだ!?」
オールドマンは機材に挿さっていた記録用クリスタルを抜き取り、淡々と語り始めた。 「最近になってお前さんの存在を知ったんだがな。その不遇な境遇には、心底同情するぜ……。だからこそ、他の候補を蹴ってまでお前を選んだんだ」
「浮気ってのは、褒められたもんじゃねぇ。分かるよな?」
クリスタルの表面を指で撫でる。中心部から微かな光が漏れ出し、次第に眩く輝き始める。 やがて空間に投射されたホログラム映像――そこには、『銃器』とベッドで添い寝をする半裸のハイエルフの姿が、鮮明に記録されていた。
エルフの瞳がスッと冷たくなり、オールドマンを射抜く。 「それで? 目的は何だ?」
パイプを弄りながら、傍らの椅子を引き寄せてベッドの足元に座り直す。 「俺もお前も賢い人間だ、坊主。そして、同じように悲惨な傷を背負ってる。俺は復讐の準備を進めている。一方のお前は、学院に引きこもって心の底でトラウマに苛まれ続けている」
エルフが沈黙を貫くのを見て、オールドマンはニヤリと笑った。手元のクリスタルを見せつけるように掲げる。 「お前さんの『本妻』が、外でこんな『愛人』を囲い込んでる姿を見たら……一体どう思うだろうな?」
「選べ。『ダディ』と呼べ。そうすりゃ、横にあるそいつはお前さんの生涯の伴侶の一つになる。嫌なら、そのまま自分の心の奥底にある罪悪感と一緒に、朽ち果てて腐っていくんだな」
鉛のように重い宣告。ハイエルフは静かに伏し目がちになり、左手の薬指にはめられた金の指輪を、ただひたすらに撫で続けた。
長い、長い沈黙の果て。 彼はゆっくりと双眸を上げ、オールドマンを真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「ダディ……」




