【エルフ議長特殊編:失うものと得るもの】
晴れ渡る空に、いくつかの白雲が浮かんでいる。そよ風が吹き抜け、梢がザワザワと葉音を立てた。
現在、ハイエルフ魔法技術学院は穏やかな休憩時間の中にある。白亜の回廊では、ハイエルフたちが連れ立ち、囁き合うように言葉を交わしていた――。
緑豊かな広場。ベンチには一組のエルフの男女が腰を下ろしている。 空を見上げて心ここにあらずといった様子の彼女を見て、隣の男子生徒が唐突に滑稽な手振りを交え、仰々しく詠唱を始めた。 「世界樹の御名において、迷える子羊の精神を、その肉体へと帰還させ給え。ハッ――!」
そのおどけた仕草に、彼女はようやく視線を戻す。呆れたように白目を剥いた。 「……何やってるの?」
彼女の意識がこちらへ向いたのを確認し、彼はからかうように微笑む。 「いや、授業中からずっと上の空だったからさ。怪しげな儀式にでも手を出して、精神が迷子になっちゃったんじゃないかって、本気で心配したんだぜ」
それを聞いて、彼女は以前、彼を夜の『古神召喚儀式』に連れ回したことを思い出し、内心で舌打ちした。 (――こいつを女子会に巻き込むんじゃなかったわ……)
彼女は再び空を仰ぎ、ブラブラと足を揺らしてから、理由を口にした。 「最近、また『編史録』を読み直してたの。私たちエルフと、オーク、人間、ドワーフ、それにトーテム・ゴブリン……。数え切れないほどの戦争があったけど、商人たちは裏でこっそり交易してるじゃない?」
彼はじっと彼女を見つめ、片眉を上げて笑う。 「それがどうかしたのか?」
彼女は上目遣いで唇を尖らせ、人差し指を顎に当てた。 「だからね、交易を通じて、それぞれの種族が得意とする技術も広まってるのよ。元素を貯蔵できる魔法水晶みたいに……」
「ふーん」 彼は頬杖をつき、真剣な表情で語る彼女に見惚れていた。
彼女はふいに彼と視線を合わせ、興奮気味に身を乗り出した。 「考えたことない!? もし、世界が互いを敵視するのをやめて、すべての異種族の独自技術をひとつに融合させたら……。どれほどの技術的爆発が起きるか、想像できる!?」
熱を帯びたその瞳を見て、彼は甘くからかうように笑う。 「お前、授業中ずっとそんな非現実的な白昼夢を見てたのか……」
「何よ! 単なる妄想じゃないわ、ひとつの可能性よ!」 彼女は唇を尖らせて反論し、自信満々に宣言した。 「いつか絶対に、あの異種族どもを引っ張ってきて、一緒にどんな化学反応が起こせるか試してやるんだから!」
「そりゃ確かに妄想じゃないな。もはや犯罪計画だ」 彼はくすりと笑い、空を仰いだ。 「……お前はまず、大人しく学業を修めるのが先決だ。第二学士の座を狙ってみろよ。俺から見れば、お前は最高に頭のいい女の子なんだからさ」
水を差されたように感じた彼女は目を細め、彼をジロリと睨みつけた。 「ちょっと、あんたは未来の可能性について妄想したことないわけ?」
彼は眉を上げ、首を傾げる。少し視線を彷徨わせた後、軽やかに笑って答えた。 「あるぜ。俺の未来は『ハイ遊撃隊』に入隊することだ。名誉と世界樹の祝福を胸に、お前を迎えに行って……」
「もう、本当にあんたの底なしの忍耐力にはウンザリよ。いつもバカみたいに突っ立って、やられっぱなしなんだから……!」 彼の言葉は途中で遮られた。ベンチの後ろを通りかかった別の女子生徒の声が響く。
「ったく、我慢の限界を超えたら、少しはガツンと言ってやりなさいよ!」 通り過ぎる若い女子生徒が、ビクビクとおどおどした、いかにも気弱そうな男子生徒の手を引いて愚痴をこぼしている。 「でも……暴力は……よくないし……」 怯えて首をすくめた野暮ったい男子生徒は、彼女に引かれるがままになっていた。
二人は、その後輩カップルが去っていく後ろ姿を見送った。 彼の視線は、ずっとその「繋がれた手」に釘付けになっていた。ポツリと呟く。 「……どうやら、後輩の方が俺よりよっぽどやり手みたいだな?」
それを聞いて、彼女は悪戯っぽく笑いかけた。 「何? ヤキモチ?」
目を離さないまま、彼も唇を尖らせて彼女を見つめ返す。 「んー……そうだな。俺たちより先に手を繋いでるのが、羨ましくてさ」
彼女は一瞬ポカンとし、次の瞬間、無言で彼の手をギュッと掴んだ。 「……ほら、行くわよ。そろそろ次の授業の時間だから……」
◆◇◆
天空の彼方。烈日が西へ沈み、双月が浮かび上がり、再び東から暁が昇る。 不変の法則が日々の営みを刻む。双月は重なり、別れ、そしてまた交わる――。
かつての女子生徒――今はひとりの妻となった彼女は、毛布を羽織り、特徴的な指輪を嵌めた両手でマグカップを握りしめていた。 窓辺に座り、夜空に残る単月をぼんやりと見つめている。 静寂の中、玄関から微かな物音が響いた。
彼女は立ち上がり、玄関へ向かって扉を開ける。 そこには、ひどく疲弊した様子の夫が立っていた。 「今日は約束してたのに。どうしてこんなに遅かったの?」
夫が外した装備を受け取り、傍らのチェストに置く。彼女は振り返り、コップに水を注いだ。 「娘はあなたに会えなくて、泣き疲れて眠っちゃったわよ」
「状況が少しおかしいんだ。国境付近の人間とゴブリンの間で騒動が起きてる。連中、開戦の準備を進めているのかも知れない」 彼は無理に温かな微笑みを作ったが、その表情には隠しきれない不安が滲み出ていた。 「着替えを取りに戻っただけなんだ。すぐに議会へ、この異変を報告しに行かなきゃならない……」
手に持ったコップを置き、彼は目を伏せて謝罪した。 「ごめんな……。急な事態で、約束を破っちまって……」
落ち込む夫を見て、彼女は机の上に置かれた彼の手の甲に優しく触れる。 「大丈夫なの……?」
「分からない……」 彼は手を返し、妻の温かな掌を包み込んだ。
彼女は少しうつむいて考え込み、やがて優しく微笑んで提案する。 「それなら、その報告書を私に預けて。私が『ハイ議員』として、議会に直接通したほうが早いでしょ?」
それを聞いて、彼は憂いを帯びた顔をほころばせた。優しさと名残惜しさを交えて首を振る。 「いいんだ。すべては国の正規の手続きに則って進める。お前の地位を使って、特別扱い(バックドア)させるわけにはいかないよ」
彼女は少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを返した。 「あなたって人は、いつもそうなんだから……」
彼は真摯な眼差しで妻を見つめた。 「愛してる。俺の負担を軽くしようとしてくれる気持ちは痛いほど分かってる。特別扱いを受ければ俺は楽になるさ。でも、それはお前に対する潜在的なリスクになる。俺のせいで、お前が傷つくような真似は絶対にしたくないんだ」
◆◇◆
陽が高く昇る。 議員たちと司会役が着席し、満席となったエルフ議会。そこへ『ハイ遊撃隊』隊長からの報告がもたらされた。 彼女を含む議員たちは、国境地帯の動乱に対する対応策の協議に追われていた――。
議会は閉会。最終的な決議に基づき、ハイエルフたちは国境防衛軍をバイとトーテムの境界線へ引き抜き、配備し始めた。 二国間の戦火が、自国の領土へ飛び火するのを防ぐために。
日々が過ぎていく。バイとトーテムの両陣営に交戦の兆しは見られない。 しかし、国境地帯には異様で不気味な気配が立ち込めていた。 高度な警戒態勢を維持するエルフ議会には、前線の遊撃隊から絶えず不穏な情報が舞い込み続ける。
――ついに、全面的な戦火勃発の凶報が届いた。 山のような情報がひとつの事実を裏付けている。国境の二カ国は、未知の敵による侵略を受けたのだと。 正体不明の敵の猛攻の前に、二カ国の防衛線は次々と崩壊。戦火はすでにハイエルフの領土にまで迫っていた。
バイの人間とトーテム・ゴブリンが壊滅状態に陥り、両国の国境が未知の敵に占拠されたという急報が矢継ぎ早に飛び込んでくる。 エルフ議会は果断な命令を下した。エルフの主力部隊を三国国境へ派遣し、防衛戦を展開せよ、と。
戦火は国境を焼き尽くす。 真っ先に矢面に立った遊撃隊と主力部隊は、凄まじい圧力で押し寄せる敵と激突した。 疲労を知らぬ化け物どもが、津波のように領土内へと雪崩れ込んでくる……。
◆◇◆
整備された街道。一台の馬車が、白布を被せられた遺体を首都の邸宅へと運び込んだ。
報せを受けたエルフ議員は、信じられないという表情のまま、慌ただしく現場へと駆けつけた。
すでに多くの遺族が集まる邸内。そこかしこから悲鳴が上がり、遺族たちは白布を被せられた遺体の傍らで半狂乱になっていた。 エルフ議員は奥歯を噛み締め、泣き崩れる未亡人たちを一人ひとり慰めて回る。
時間が過ぎ去り、遺族たちが悲しみと未練を抱えたまま一人、また一人と邸宅を後にしていく。 そしてようやく、彼女は不自然に隆起したある白布の傍らへ辿り着いた。
虚ろな瞳で、布の隙間からはみ出した蒼白の腕と、その指に光るペアリングを、ただ呆然と見つめ続ける。
エルフ議員の目頭が、知らず知らずのうちに赤く滲んでいく。 しかし、本来なら輪郭が浮かび上がるはずの頭部へ視線を移した時。 彼女は気づいてしまった。白布の下が、何かをごっそり失ったかのように、異常なまでに平らになっていることに……。
止めどなく溢れる涙。 激しく上下する胸。 彼女はガタガタと震える手を伸ばし、ゆっくりと白布をめくった。
「あ……あ、ああ……っ!」
もはや原型を留めていない夫の残骸。衣服とペアリングでしか、それが彼だと識別することすらできない。 心が完全に砕け散ったエルフ議員は、糸が切れたようにその場へ崩れ落ち、遺体の傍らで声にならない慟哭を上げた。
氷のように冷え切った右手を強く握りしめ、自身の頬へとすり寄せる。 彼女はもはや自身を制御できず、溢れ出す涙を垂れ流し続けた。 やがて、門外で長時間待機していたエルフの衛兵が足を踏み入れ、虚脱状態の彼女を抱え上げるようにしてその場から連れ出した――。
◆◇◆
翌日。 議会ホールは凄まじい熱気に包まれていた。大勢の議員たちが、未知の脅威に対する激しい議論と、あらゆる解決策の提示を矢継ぎ早に行っている。
「敵との意思疎通は不可能なのか!?」
「連中には、対話に必要な感情が欠落しているように見受けられます」
「いっそ、敵の進軍ルートを誘導し、バイかトーテムの方角へ逸らすことはできないか? 我々には息継ぎの時間が必要だ! その間に、可能な限り兵器を拡充する!」
その時。魔法水晶が組み込まれた拡声装置を通し、エルフ議員の静かで淡々とした声が響き渡った。 「連合を……組みましょう」
喧騒に包まれていた議会ホールが、突如として一斉に静まり返る。 やがて、別の男性エルフ議員がいぶかしげに口を開いた。 「議員。……今、何か仰いましたか?」
涙の跡を残し、死人のように青ざめた顔で、彼女は再び口を開く。 「だから……連合するのです。すべての種族と手を結び、今回の敵に対抗するのです……」
その言葉が落ちるや否や、議会ホールは賛否両論の怒号が入り乱れる大混乱に陥った。
司会役が静粛を求める中、先ほどの男性エルフが即座に鋭い声で反論する。 「議員。あなたが伴侶を失ったばかりで、感情も精神もひどく不安定な状態にあることはお察しします。本日は早退して、ゆっくりと休養を……」
その言葉を最後まで聞かず、彼女は冷徹な眼差しで相手を射抜き、言葉を遮った。 「国家が未知の敵に蹂躙されているというのに……。あなたは私個人の体調を案じているのですか?」
男性エルフは彼女を睨みつけ、食い下がるように口を開く。 「議員! 私はあなたが数日間、しっかりと休養を取られるべきだと……」
「黙りなさい! 今がどういう状況か分かっているのですかっ!」 己の傷口を執拗にえぐり続ける相手に対し、ついに我慢の限界を迎えた彼女は、力任せに机を叩き、激昂して立ち上がった。 「我が国が誇る精鋭の遊撃隊でさえ、この侵略を食い止めることができなかったのですよ! 一体どうやって徹底抗戦するつもりですか!」
「議員! 私は十分あなたの顔を立ててやっているんだ! つけ上がるな!」 男性エルフも負けじと立ち上がり、彼女を指差して声を荒らげた。 「異種族と連合を組むだと!? 狂ったか! あの下等な連中に、我々と肩を並べる資格などあるものか!」
周囲の議員に肩を叩かれ、宥められた彼女は、自身の取り乱した姿にはっとした。 ゆっくりと椅子に座り直し、荒ぶる感情を必死に押さえ込む。
やがて、再びあの氷のように冷たい表情を取り戻すと。 彼女は全議員の面前で、男性エルフに向かって問いかけた。 「……結構です。では、あなたが残存する遊撃隊を率い、奪われた領土を奪還するということで決議を取りましょう。あなたには、その神聖なる使命を引き受ける覚悟はおありですか?」
その言葉が響いた瞬間。 周囲の議員たちからの一斉の視線を浴び、男性エルフは途端に口ごもった。 「貴様ッ! 私を……!」
歯をギリギリと鳴らし、憎悪の眼差しを向けてくる彼を一瞥する。 議会ホールからは、もはやこれ以上の激しい反論は上がらない。彼を完全に見限った彼女は、司会役へと向き直った。 「決を採りましょう……。未来のために、統治体制は抜本的に再編されなければなりません。異種族と連合し、敵に立ち向かうことは、絶対に必要な選択肢のひとつです……」
彼女の言葉が落ちると、議会ホールを満たしていた喧騒は、無数のヒソヒソとした囁き声へと変わった。
男性エルフはその時、悪意に満ちた表情を浮かべ、即座に新たな提案を放った。 この計画の『最高責任者』に関する権限と責任の所在について、併せて決議を採るよう求めたのだ――。
司会役は直ちに、この二つの議題を一括して表決に付すと宣言した。 議論が紛糾する中、議員たちが下した決断は――最終的に賛成票が反対票を上回った。
そして、それに連なる決議において。 彼女は連帯する決議において、この『異種族連合計画』の最高責任者として推挙されたのだった――。




