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【第十七章:撤退(二)】

 道中、エルフの哨兵は小声でぼやき続けていた。 「連合軍に増援を要請したっていうのに、たったの五人なんて……。もうおしまいだ……」


「すまねぇな。俺たちは連合軍の増援部隊じゃねぇ。求援の放送を聞いて、勝手に駆けつけた小隊だ」


「世界樹の御加護あれ……。前方での抵抗で、あまりにも多くの兄弟たちが犠牲になりました。ですが、この大雨のおかげで敵の『熱線兵器』は遠距離での殺傷力を失ってくれた。それでようやく、一息つく時間ができたのです」


「連合軍の奴ら、たったの五人しか寄こさなかったのか!?」 オールドマンは担架で次々と運ばれていく負傷兵、遠方で煙を吐き出す砲車の残骸、各所に刻まれた爆撃の焦土を見つめた。不意に、背後から上がった驚愕の声が彼の注意を引いた。


 哨兵と、こちらに向かって歩いてくるエルフの副官が何やら言葉を交わしているのを目にし、オールドマンは怪訝そうに尋ねた。 「ここの責任者はどこだ?」


 エルフの副官は苦渋の表情を浮かべて彼らの案内を引き継ぎ、オールドマン一行を先導した。 「私がエルフの副官です。……指揮官についてですが、不幸なことに、敵が突如として近代的な銃砲火器を投入してきたため、座乗していた指揮車ごと吹き飛ばされてしまいました……」


 一行は副官の後に続いた。 防衛線に就く兵士たちの、どん底まで落ち込んだ士気を目にし、オールドマンは信じがたいといった様子で問いかけた。 「他の連合軍からの情報は届いていないのか?」


 エルフの副官は眉をひそめ、力なく頭を振った。 「運に見放されました。通信テントが敵の砲撃で吹き飛び、かろうじて修復した機器で救援要請を送るのが限界だったのです……」


 副官に案内され、一行は白布をかけられて整然と並ぶ遺体の前へと辿り着いた。オールドマンの目に、白布の上に置かれた、見覚えのある軍帽が飛び込んできた。


 布の下、半ばからちぎれた不自然な形状の遺体を見つめ、オールドマンは険しい顔で副官を睨んだ。 「……ここまで悲惨な状況になって、どうして撤退を選択しねぇ?」


 副官は呆気にとられて固まったが、次の瞬間、激しく首を振って声を荒らげた。 「何を言っているんだ!? ここは我々が血を流して奪い取った要衝だぞ! みすみす敵に明け渡せるわけがないだろう!」


 オールドマンは忍耐強く、副官の肩を叩いて諭した。 「いいか。現段階での死守は不可能だ。今すぐ撤退命令を下し、台地を降りて後方の連合軍の拠点へと合流しろ」


 副官は目を丸くし、さらに声を荒らげた。 「戯言を言うな! 戦わずして逃げるなど、軍人として最大の恥辱だ!」


 オールドマンは眉をひそめ、頑迷なエルフの副官を凝視した。 「言葉が通じねぇのか? 『後退』だ。体勢を立て直し、連合軍の新たな命令を待てと言っているんだ」


 雨脚が弱まる中、副官の目がオールドマンの肩の階級章を捉えた。彼は怒りを爆発させ、罵倒した。 「貴様、何様のつもりだ!? ここは私が暫定的に指揮を執っている! 私が求めているのは増援だ、卑怯者の逃げ口上ではない!」


「死にたきゃ勝手に一人で死ね! 他の兄弟たちを巻き込むんじゃねぇ!」 オールドマンも怒りを抑えきれず、大声を張り上げた。 「この戦いでどれほどの犠牲が出た!? どれだけの家庭が崩壊した!? 何も知らねぇガキの分際で、まだこの土地にしがみつく気か!? ちぎれた四肢を晒して床に転がるお前の姿を、家族に見せなきゃ満足できねぇのか!?」


 副官も真っ赤になって怒鳴り返す。 「我々は上級の命令に従っているのだ! 人間の指揮官がここでどれほど血を流して戦ったと思っている! 今ここを去るなど、あの指揮官の変死をゴミ屑扱いするに等しい!」


「よく聞け、兵士! あいつの死は、お前らにここで全滅しろって意味じゃねぇ!」 オールドマンは激怒し、副官の胸元を指先で強く小突いた。 「あいつの防衛戦は、後続の支援や増援があるっていう前提の上に成り立っていたんだ! 今はどうだ!? あのバイの士官が生きていたなら、部隊を率いて後方へ撤退しているはずだ! お前はまだ状況が分からずに、ここで無駄死にする気か!」


 霧雨へと移り変わっていく雨脚に気づいた瞬間、オールドマンの脳裏に激しい警鐘が鳴り響いた。彼は副官を差し置いて、即座に周囲の兵士たちに向けて怒鳴りつけた。 「全員、今すぐ動け! 戦線が完全に崩壊して退路を断たれる前に、故郷への道を切り拓くんだ! 戦死した兄弟たちを、家に連れて帰るぞ!」


 独断の越権行為に激怒した副官が、オールドマンの胸を強く突き飛ばした。 「貴様……! 規律違反だぞ! 軍事法廷に……」


 副官が言い終わるより早く、オールドマンはバイの指揮官の署名が入った例の書類を引っ張り出し、その目の前へと突きつけた。 「この場で俺たちに叩きのめされて、担架で運ばれて帰るか? それとも、五体満足で自分の砲車に乗って帰るか? どっちだ」


 書類の署名を目にした副官は奥歯を噛み締め、悔しそうにオールドマンを睨みつけながら叫んだ。 「……全員、撤収準備! 直ちに後退する!」


 命令が下るや否や、砲兵陣地の兵士たちは慌ただしく荷物をまとめ、砲車のエンジンを始動させた。台地からの集団撤退が開始される。だが――車列のすべてが坂道を降り切る前に、南東の方角から連続した爆音が一斉に響き渡った。


 退避が遅れた兵士たちが、容赦ない砲撃に晒される。 凄まじい衝撃波。オールドマンは思わず首をすくめた。 「クソッタレが!」


「急げ! 後続は遅れるな! 坂を降りたらすぐに森へと逃げ込め!」 副官が坂の下の樹林を指差して絶叫した。


「動ける奴は全員連れて行け! 急げ!」 オールドマンは激しく揺れる頭を振り、車列の最後尾で繰り広げられる地獄絵図を見据えた。彼は最後尾の砲車に飛び寄り、装甲を力任せに叩いて命じた。 「お前! 無線を使え! 全砲車、南東の方角へ弾幕を展開しろ! 援護射撃だ!」


 パニック状態の部隊が坂を下りる中、さらなる不運が襲いかかった。 敵軍から放たれた目にも留まらぬ紫色の閃光が、最後尾の砲車の尾部へと直撃した。凄まじい衝撃によって、周囲の歩兵たちが泥濘の上へと叩きつけられた。続いて、銃撃とおぼしき無数の紫色の光弾が、容赦なく襲いかかってきた。


 最後尾の砲車は速度を落とし、やがて完全に停止した。車長がハッチを半開きにして外へと絶叫した。 「発動器大破! 車体が動きません!」


「ベビー! シャボン玉だ!」 一瞬で敵の状況を把握したオールドマンは指示を飛ばし、砲車の中へと身を滑り込ませてマイクをひったくった。 「全砲手、聞け! 八時の方向に敵の砲車を確認! 最優先で奴を吹き飛ばせ!」


 前方の砲車の砲塔が旋回し、指定された方角に向けて一斉に火を噴いた。数発の砲弾が敵の先頭の砲車に直撃した。的を外れた砲弾が周囲で炸裂し、飛散した破片が紫の歩兵たちをなぎ払った。


 オールドマンは砲車内の乗員に向かって叫んだ。 「全員、車を捨てろ! 急げ!」


「どけッ! 今こいつらを降ろすのは自殺行為だ! 車内から応戦させろ! 俺が応急修理で、こいつをもう一度動かせるか試してやる!」 車内へと滑り込んできた狂特ゴブリンが、オールドマンを勢いよく押しのけた。


 一方、砲車の外に立つ双頭のトロルは、花々と虹の橋に彩られた美しい空を嬉しそうに見上げていた。彼が手にしたシャボン玉銃から放たれた不規則なシャボン玉が、本隊へと迫る紫の「お友達」へ向けて飛んでいく。シャボン玉が彼らに触れた瞬間、パチンと弾け、まるで彼らが嬉しそうに笑いながらクラッカーを鳴らしてくれたかのように、ベビーに向けてリボンや紫色のラメが周囲に華やかに舞い散った。


「ダディ、見て見て……」 トロルは、ハッチから顔を出したオールドマンに笑顔を向け、その喜びを分かち合おうとした。


 しかし、オールドマンの表情は険しく、周囲の者たちも車が壊れたことで絶望に包まれていた。トロルの無邪気な笑みが、みるみるうちに曇っていった。彼は手にしたシャボン玉銃を泥に投げ捨てると、砲車の後部へと回り込み、その巨体で車を押し始めた――。


「ベビー! 何をしてるんだ!?」 恋銃癖が、ベビーと迫り来る敵の間を血眼で交互に見やりながら絶叫した。


 友軍の小銃を拾い上げ、歩兵たちに混ざって応戦していたオールドマンも、驚愕の声を張り上げた。 「ベビー! 戻れ! シャボン玉で遊ぶんだ!」


「くるま、こわれた。ベビー、おす。かぞく、おうち、かえる」 トロルはオールドマンの制止に耳を貸さず、ただ一心に、ひたすら砲車を押し続けた。


 紫の光線が、その無防備な巨大な肉体を次々と貫いていく。しかし、トロルは痛みすら感じていないかのように、ただ黙々と車を押し進めた。


 トロルの背中から血飛沫が舞い散るのを目にし、恋銃癖の怒りは頂点に達した。彼はトロルの背後に迫る敵に向けて狂ったように銃弾を浴びせるが、襲い来る光線は一向に止まない。彼は深い挫折感と無力感に苛まれ、叫んだ。 「敵が多すぎる! あのクソ野郎どもを止められねぇ!」


 オールドマンは小銃を構え、敵に向けて撃ち続けた。 「分かってる! 撃ち続けろ! 少しでもベビーを援護するんだ!」


 同じく、傷ついていくトロルの姿をただ見ているしかなかった狂特ハイエナ。応戦するうちに手元の小銃の弾薬が尽き、彼は慌てて周囲を物色した。ふと、車内の狂特ゴブリンのバックパックで輝く魔法水晶が目に留まり、叫んだ。 「おい! クソ緑チビ! 弾を寄こせ! 早くしろ!」


「持ってけ! それから黙りやがれ! 修理の邪魔をするんじゃねぇ!」 狂特ゴブリンは、すかさず水晶を引っ掴んでハイエナへと投げ落とした。


 工作用のアームで溶接を施し、両手で引きちぎれた導線を手際よく繋ぎ合わせる。汗だくになったゴブリンは、次第に焦りを募らせて呪詛を吐いた。 「急げ、このポンコツが……!」 「動け、このクソ機械! 動いてみせろ!」 時折ピクリと痙攣するだけで、完全に停止したままのピストン。ゴブリンは苛立ちを露わにしながら、必死に修復作業を続けた。


 部隊全体が絶望的な停滞に呑み込まれようとしたその瞬間。 南西の方角から、再び一斉砲撃の爆音が響き渡り、空気を切り裂く風切り音が敵の進路に次々と朱色の猛火を咲かせた。


 続いて、砲車の無線から、ザーザーという激しいノイズを突き破り、聞き慣れた力強い声が響き渡った。 『――こちら装甲部隊。救援要請を傍受した。これより友軍の撤退支援に入る』 『ボス、聞こえますか!? 側翼からの援護には限界があります! 直ちに、安全な場所へ離脱してください!』


 砲車が激しい振動を始め、ゆっくりと前進を開始した。それを見たエルフの副官が叫んだ。 「全員、撤退を継続しろ!」


 オールドマンは手にした武器を投げ捨てると、砲車の上に飛び乗り、両手でトロルの極太の手首をがっしりと掴んだ。 「急げ! ベビーを上に引き上げるんだ! 残りの者は砲車の影に続け!」


 恋銃癖と狂特ハイエナの加勢もあり、満身創痍のトロルをようやく車体の上へと引き上げた。


 車列は泥まみれになりながら、かろうじて連合軍の第一防衛線へと逃げ帰ることに成功した。 生き残った兵士たちは深いしじまに沈み、まるで魂の抜けた泥人形のように、力なくそれぞれの避難場所へと散っていった。


 砲車の車体から泥の地面へと滑り落ちたトロル。 彼は力なく寝返りを打ち、冷たく濡れた泥濘の上に仰向けになって、酷く息を荒らげていた。


「衛生兵! 衛生兵はどこへ行きやがった!? 今すぐここへ来い!」 オールドマンは周囲を見回し、半狂乱になってトロルの周りを駆け回った。


「ベビー! 寝返りを打て! 早く!」 狂特ゴブリンはトロルの巨体を必死に押し、応急手当を試みようとする。


「ちいさな……かぞく。ベビー、ねむい……」 トロルの焦点の合わない大小の瞳が、力なく一同を見つめ、微かに微笑んだ。


「ベビー、言うことを聞け。早く、寝返りを打つんだ」 オールドマンも慌てて狂特ゴブリンの補助に入る。


 傍らにひざまずくオールドマンを見つめ、トロルは強い睡魔に耐えるように、必死に口角を上げた。 「ダディ……ベビー、ねる。そのまえに、アメちゃん……たべたい……」


 その言葉を聞いた瞬間、オールドマンは思考を完全に停止させた。表情がグシャリと崩れ、激しく震える両手を見つめたまま、ただ呆然とトロルを見つめ続けた。


 オールドマンの返答がないのを見て、トロルは優しく微笑みながら、おねだりを続けた。 「ダディ、ベビー、お利口さんにしてたよ。ベビー……アメちゃん、ほしいな……」


 オールドマンは無言のまま、腰のポーチから一粒のキャンディを取り出し、トロルの口へと優しく押し込んだ。


 トロルの舌がアメの甘みを感じたその瞬間、彼はこの上なく幸福そうに口角を吊り上げた。 次の瞬間――まるで時間が完全に凍りついたかのように。 彼の瞳孔がゆっくりと拡散し、満ち足りたその微笑みのまま、ぴたりと、動きを止めた――。

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