【第十七章:撤退(ㄧ)】
突発的で危うく友軍を誤射しそうになったお粗末な騒動は、オールドマンの介入によって幕を閉じた。町の中の建物にいた学者たちは口々に噂を聞きつけ、紫の砲車の前へと集まってきた。
屋内にいた多種多様な種族の学者たちは、まるで赤ん坊が新しいおもちゃを見つけたかのように目を皿にし、驚嘆と狂熱の表情を浮かべていた。冷たい紫色の装甲をベタベタと触りながら、ひそひそと議論を交わしている。
「おい、おい! おいッ! これは俺様の獲物だぞ! 欲しけりゃ深淵の連中から自分でぶんどってきな!」 狂特ハイエナ は車から飛び降り、慌てて学者たちを追い払おうとする。
それを見た一人の人間の学者が、恭しく狂特ハイエナの前に進み出た。 「申し訳ありません、ハイエナ殿。この無傷の敵軍砲車は極めて高い戦略的価値を持っています。どうか我々に譲っていただけないでしょうか」
学者の言葉が終わるや否や、傍らのオールドマンも腕を組んで説得にかかった。 「……くれてやれよ。どうせお前には使いこなせねぇだろ」
「おい! 黙れ、死に損ないの、老いぼれめ! せっかくお前を認めてやったってのによ!」 身内が他人の肩を持つ姿に、狂特ハイエナは紫の砲車にしがみついた。冷たい戦利品を執拗に舐め回し、苦渋に満ちた表情でオエッとからうずきしながらも、必死に所有権を主張する。
狂特ハイエナの滑稽な行動に、オールドマンは片眉を上げ、深みのある声で反問した。 「その足りねぇ頭でよく考えてみろ。砲車の中に引きこもって操縦して、どうやって観客に自分をアピールするんだ? みんなが見るお前の姿は砲車であって、お前自身じゃねぇんだぞ」
「……んん、なんか騙されてる気がするが、一理あるな!」 狂特ハイエナはピタリと動きを止めた。脳内で激しい葛藤があったのか、しばらく悶々とした後、誇らしげに顔を上げた。 「なら、この俺様が慈悲深くお前らに恵んでやるよ! 学者ども、涙を流して感謝しやがれ!」
それを見た学者たちは互いに顔を見合わせると、瞬時に諂うような笑顔を作り、手を擦り合わせて頭を下げた。 「寛大なご寄付、心より感謝いたします! あなたこそ世界のヒーローだ!」 「その慈悲深きお名前を世界に刻むため、この砲車のプレートに寄贈者のお名前を刻むよう、上層部に掛け合ってまいります!」
「名前を残す!?」 狂特ハイエナの目が輝いた。再び脳味噌をフル回転させ、興奮気味に学者たちへ吠え立てる。 「残す名前は、偉大なるマジシャン・ストライプ……いや、違うな! 『偉大なる魔術家、ワールド・クラス・スター……ええい、連合の英雄! 狂特戦隊大隊長、狂特ハイエナ』だ!」
一瞬で硬直したエルフの学者は、すぐに両手を天に掲げ、感動の面持ちで叫んだ。 「世界樹を称えよ! なんと偉大な名前でしょう! 狂特戦隊大隊長閣下!」
底知れぬお世辞を前に、オールドマンは学者の一人を引っ掴んで物陰へと連れて行った。冷ややかな眼光を向け、その耳元で低く警告する。 「……おい。仲間たちに伝えておけ。お前たちの信じる神の元へ、突然召されたくなければな、本当にあいつの名前を残すことだ」 「狂特ハイエナ、それだけでいい。名前が長すぎて名札に入り切らなかった……そういうことにしておけ。分かったな?」
ドワーフの学者はオールドマンの糸目から放たれる凄まじい凶光を前に、マダラハイエナ族の凶暴なステレオタイプを勝手に想像して、全身に鳥肌を立てた。真っ青な顔でコクコクと頷く。
オールドマンは狂特ハイエナと恋銃癖を伴い、通信テントへと戻った。 中では狂特ゴブリンが地面に胡坐をかいており、床に突っ伏したトロルが、エンジニア・バックパックの右側から飛び出した金属球を人差し指でツンツンと触っていた。指先と金属球の間でバチバチとアークが弾けるたび、トロルは嬉しそうに声を上げて笑っている。
狂特ゴブリンは入ってきたオールドマンに視線を向け、精霊と無邪気に戯れるトロルを見遣った。そして、自ら口を開く。 「心配すんな。雷のスプライトが中に宿ってるが、そいつはトロルが気に入ったらしい。感電死する心配はねぇよ」
楽しげに遊ぶトロルを見て、いたずら心を刺激された狂特ハイエナも、興奮気味に傍らへ割り込み、自分の指を指し示した。
トロルはそれを察すると、素直にその巨体をずらし、場所を譲ってやる。
狂特ハイエナは手を擦り合わせた後、鋭い爪を金属球へと近づけた。 バチチッ! 電弧が繋がった瞬間、全身のふさふさとした毛が一斉に直立する。ハイエナは瞬時に炸裂したポンポンのようになり、それを見たトロルは手を叩いて大爆笑した。
『――こちらは台地の砲兵陣地……。前例のない脅威に直面している。連合軍の増援を求める――』
「砲陣地……? どうして撤退しなかった?」通信テントに届いた情報を見つめ、オールドマンの脳裏にあのバイの士官の顔がよぎった。
「陣地の死守は、軍人の本分だからな」 大隊長はため息を吐き、頬杖をつきながらぼやいた。 「だが、防衛線全体が後退している中、彼らが残っているのは確かに腑に落ちん……」
オールドマンは大隊長に視線を向け、言った。 「俺はあの陣地の責任者と直に話したことがある。状況も分からずに死を急ぐような、愚か者には見えなかったがな」
大隊長はしばらく考え込んだ後、死んだ魚のような目でオールドマンを見つめた。 「……この厄病神(お前)を、さっさと送り出せとでも言いたいのか?」
オールドマンが片眉を上げ、無言を貫くのを見て、大隊長は容赦なく白目を剥いた。 「お前はここに来るなり、俺の部下たちを怒鳴りつけ、挙句に独断で後退命令を下しやがった。俺からすりゃ、お前は厄病神以外の何物でもねぇよ」 「おかげで仕事が山積みだ。今の俺は防衛線の再構築と、反撃作戦の立案で死ぬほど忙しいんだよ……」
オールドマンは悠然と口角を上げ、からかうように返した。 「『神を招くは易く、送るは難し』って言葉を知ってるか?」
大隊長は額に青筋を浮かべ、引きつった笑みを貼り付けたまま交渉を続けた。 「神の奇跡すら拝んでねぇってのに、俺に憑りつく気か? 履帯式トラックを用意して、お前らを台地の近くまで送ってやる。これが限界だ。部下たちを無駄に砲撃の巻き添えにしたくねぇんでね」
「取引成立だ」 満足げなオールドマンが手を差し出し、大隊長はその手を瞬間的に掴んで、しっかりと握手を交わした。
「二度と戻ってくるなよ。お前らの顔を見るだけで寿命が縮む」 大隊長は嫌悪感を隠さず手を振り、準備のために身を翻した。
大隊長の手配した履帯式トラックが用意され、オールドマン一行は荷台へと乗り込んだ。無言のまま忙しく立ち働く兵士たちをしばらく眺めていた大隊長だったが、やはりこらえきれず、ため息混じりに声を張り上げた。 「……おい! ありがとな。あの混乱の最中、お前みたいな割り込み野郎が強制的に後退を指示してくれたおかげで、損失は最小限に抑えられたよ」
荷台の縁に寄りかかっていたオールドマンは、それを聞いてニヤリと口角を上げると、片手を上げて大隊長に応えた。
車両が発進し、徐々にノルド戦線から遠ざかっていく。 台地へと進む道すがら、涼しい風が絶えず吹き抜け、明るかった空が徐々に重く陰り始めた。
ポツ、ポツ……ザーーーッ! 雨脚は瞬く間に強まり、激しい豪雨が降り注ぐ。履帯はぬかるんだ泥に足を取られ、にっちもさっちもいかなくなった。
そのまま少し進んだところで、ついに完全に行き詰まる。
「クソ最悪な天気だな!」 人間の運転手がアクセルを踏み込むが、泥に埋まった履帯は空転するばかりで、車体は微動だにしない。
「仕方ありません、泥濘は履帯の天敵ですから……」 ゴブリンの副運転手が車から飛び降り、オールドマン一行に向けて言った。 「長官、申し訳ありません。とんだ不手際をやらかしてしまいました」
オールドマンは真っ先に荷台から飛び降りた。他のメンバーもそれに続くのを見届けると、人間の運転手の元へ歩み寄った。 「気にするな。天気なんて気まぐれなもんだ。台地まではあとどれくらいだ?」
「あと少しです。およそ1キロ強といったところでしょうか」 ゴブリンの副運転手は、降りしきる雨を遮るように眉の上に手をかざし、霧に煙る台地の頂を、目を細めて見つめた。
「十分だ。お前らは先に戻れ」 その方角を見つめ、オールドマンはトロルへと向き直った。 「車、はさまって、動かない。手伝って、車、横に、どかして」
「はーい!」 トロルは車体の一端を軽々と持ち上げると、くるりと方向を変えて地面にそっと置いた。
「ありがとよ、デカブツ……。大いに助かったぜ……」 巨体がこれほど素直に従う様子に呆気に取られていた運転手は、我に返ると慌ててオールドマンへ告げた。 「長官、台地に入る際、南側の坂道を迂回する必要はありません。西北側に新しく作られた坂道があるはずです。そこから登れますよ」
「価値のある情報だな、感謝する」 オールドマンは笑って運転手の肩を叩くと、仲間たちを見回した。 「急いで出発するぞ」
すっかり濡れ鼠になった一行は、連合軍の砲兵陣地へと到着した。警戒にあたっていたエルフの哨兵に声をかけると、彼は複雑な表情を浮かべて一同を野営地へと案内した。




